» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

墺土戦争 (1716年-1718年)

墺土戦争(おうとせんそう、英語: Austro-Turkish War, 1716年 - 1718年)は、18世紀オーストリアハプスブルク君主国)とオスマン帝国東ヨーロッパバルカン半島セルビアを主戦場として衝突した戦争である。

墺土戦争

ベオグラード包囲戦(1720年画)
戦争:墺土戦争
年月日1716年 - 1718年
場所セルビア
結果:オーストリアの勝利、パッサロヴィッツ条約の締結
交戦勢力
オーストリア大公国 オスマン帝国
指導者・指揮官
プリンツ・オイゲン (シラーダーリ・ダマト・アリ・パシャ)(トルコ語版)
(ハジ・ハリル・パシャ)(トルコ語版)

経過

開戦まで

1683年第二次ウィーン包囲及び翌1684年から1699年までの大トルコ戦争を経てカルロヴィッツ条約が結ばれて以降、両国の間に戦闘はなく平和な時期が続いた[1]。オーストリアハプスブルク家は、スペイン継承戦争1701年 - 1714年)の渦中にあったことも、その理由の一つである[1]

しかし、オスマン帝国はスルタンアフメト3世の治世で対外戦争に乗り出し、1710年ピョートル1世ロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争プルート川の戦いで勝利する。さらに1711年プルト条約アゾフを取り戻し、1714年ヴェネツィア共和国ペロポネソス半島を巡り戦争が始まった((オスマン・ヴェネツィア戦争)(英語版))。オーストリアは、カルロヴィッツ条約に基づきヴェネツィア側に立たねばならず、またトルコのダルマチア侵攻により脅威を受けた[1]

フランス王ルイ14世が1715年9月1日に崩御し、西仏の影響力が低下したことや、ロシアの進出の可能性が少ないこともあり、オーストリアは1716年5月に宣戦布告した[1]

戦争に向けた準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進めていた。オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。

一方のオスマン帝国もイェニチェリスィパーヒーや周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった[2][3]

オイゲン公の活躍

1716年7月、オイゲン公を司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍し、7月9日に(フタク)に着任した[4]。スペイン継承戦争終結後、オーストリア軍は縮小していたため、ハンガリー方面には8万名の兵力となっていた[4]

一方オスマン帝国側は、大宰相でアフメト3世の娘婿である(シラーダーリ・ダマト・アリ・パシャ)(トルコ語版)が15万の軍勢でベオグラードに在った[4]。これが北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲した。

8月2日、カルロヴィッツ付近でオーストリア軍の前衛とトルコ軍1万名が交戦した[4]。オーストリア軍はペーターヴァルダイン要塞まで撤退できずトルコに捕捉され、トルコ軍は要塞前に塹壕を掘って攻略の構えを見せた[4]。オイゲン公の本隊は、8月4日にペーターヴァルダインに到着すると、翌5日朝から守備部隊の援護と合わせて反撃に転じ、オスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い[4]

ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上。トランシルヴァニアへ進軍し、10月13日テメシュヴァールを落とし(テメシュヴァール包囲戦)た。こうしてドナウ北岸制圧を完了し、11月にウィーンへ引き上げた。

アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、(ハジ・ハリル・パシャ)(トルコ語版)が後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。

1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下。5月21日にフタクに到着し、艦隊を(テメシュ川)に向かわせて6月15日からオスマン帝国の常備歩兵軍団(イェニチェリ)に攻撃を開始すると、トルコ軍はベオグラードに撤退した[5]

6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。同市は6月30日までに、甚大な被害を受けた[5]

ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい、7月末にはベオグラード南方の丘に布陣し、さらに砲兵を進出させ、サヴォ川を挟み、オイゲン公率いるオーストリア軍と対峙した[5]。8月にオーストリア包囲軍へ砲撃して多数の被害を出し、さらに包囲軍は赤痢が流行して6万人に減少し、崩壊の危機が迫った[5]。ウィーンからは撤退の指示もあった[5]

しかし、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた[6][7]

終結とその後の影響

ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。しかし、スペインが不穏な動きを見せたためオーストリアはオスマン帝国との和睦交渉を始め、1718年にパッサロヴィッツ条約を締結した[8]

オーストリアはベオグラードとティミショアラを含むセルビアとバナトの大部分を獲得、オスマン帝国はバルカン半島において後退したが、ヴェネツィアからペロポネソス半島のモレアを獲得、ヴェネツィアは事実上ペロポネソス半島を失った。

戦後、スペインがかつて領有していたオーストリア領イタリアの奪還を図り四国同盟戦争を勃発させると、オーストリアはイギリスと共にスペインと戦うことになる。また、荒廃した占領地の復興にドイツ人入植を奨励、トランシルヴァニアは経済的に発展していった[9][10]。しかし、これはまた、ハプスブルク家領の多民族化、非ドイツ化といった問題を生起させた[8]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ a b c d 久保田 2001 p.225
  2. ^ パーマー、P52 - P53
  3. ^ マッケイ、P207 - P211
  4. ^ a b c d e f 久保田 2001 p.226
  5. ^ a b c d e 久保田 2001 p.227
  6. ^ 久保田 2001 p.228-229
  7. ^ マッケイ、P211 - P217。
  8. ^ a b 久保田 2001 p.229
  9. ^ パーマー、P53 - P54
  10. ^ マッケイ、P217 - P221。

参考文献

  • (久保田正志)『ハプスブルク家かく戦えり-ヨーロッパ軍事史の一断面-錦正社、2001年9月。ISBN (978-4764603134)。 
  • (アラン・パーマー)著、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年。
  • (デレック・マッケイ)著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』(文理閣)、2010年。
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。