» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK


唐の領土の変遷
先史時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲
 
中華人民
共和国
中華
民国

台湾
  

(とう、拼音: Táng618年 - 907年)は、中国王朝である。李淵を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア北東アジア諸国(朝鮮半島渤海日本など)に、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。

歴史

 
建国者 李淵

初唐

建国

西晋の滅亡以来、300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが、北朝文帝により589年に再統一が為された[3]。文帝は内政面でも律令の制定[4]三省六部を頂点とする官制改革[5]・地方単位をを廃止して州県制への二段階区分への変更[6]科挙制度の創設[7]などなど多数の改革を行い、その治世は(開皇の治)と呼ばれる[8]

604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ[9]。煬帝は大運河洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた[10]。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる(隋の高句麗遠征[11]。土木工事に労働力として徴発された農民には疲弊が累積し[12]、また支配下に入ってまもない江南の反隋感情は残ったままであった[12]。この状況下での遠征失敗により二回目の遠征の最中の613年に起きた楊玄感の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発[13]、大小200の勢力が相争う内乱状態となった[12][14]

国内の混乱が激しくなる中、北の東突厥に面する太原留守とされていた唐国公李淵は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を太上皇帝に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である楊侑を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都(揚州)で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが[15][16]、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に宇文化及を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された[17][15][16]

同年、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位。武徳と元号を改め、を建国した[18][15][16]

この時点で王世充李密竇建徳劉武周など各地に群雄が割拠していた[19]。李淵(以下高祖とする)は長男の李建成皇太子とし、次男の李世民尚書令として[20]、各地の群雄討伐に向かわせた[18][21][22]。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破[18][21][23]。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた[18]

貞観の治

 
太宗 李世民

抜群の功績を挙げた李世民は皇太子である李建成および四男の李元吉[注釈 1]と後継の座を巡って対立するようになるが[18]、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった[24]626年、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し(玄武門の変)、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗)[18][25]

帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた朔方郡梁師都を平定し、統一を果たした[26][27]。更に630年には突厥の内紛に乗じて李靖李勣を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった鉄勒諸部から天可汗(テングリカガン)の称号を奉じられた[28][29]。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を羈縻支配においた[28]。635年には吐谷渾を破り、更にチベット吐蕃も支配下に入れた[30]。ただし吐蕃には度々公主を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった[30]

内政面においては房玄齢杜如晦の皇子時代からの腹心に加え、李建成に仕えていた魏徴・李密の配下であった李勣など多数の人材を集めて政治に当たった。この結果、627年の時に米一斗が絹一匹と交換されていたのが、630年には米一斗が4・5銭まで下がり、一年間の死刑者数は29人しかおらず、(盗賊がいなくなったので)みな外扉を閉めないようになり、道中で支給があったので数千里を旅する者でも食料をもたないようになったといい、貞観の治と呼ばれる太平の時代とされた。この時代のことを記した『貞観政要』は後世に政治の手本として扱われた[31]。しかし統一から間もないこの時点でそこまで国力を回復できたか疑問が多く、貞観の治の実態に対して史書や『貞観政要』の記述はかなりの潤色が疑われる[32]

太宗の政治も徐々に弛緩が見えるようになり、643年に魏徴が死ぬとその傾向に拍車がかかった[33]

642年、高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こし、唐から遼東郡王に冊封されていた栄留王を殺し、その弟の宝蔵王を王位につけた[34][35]。太宗はすぐに出兵を考えたが、一旦は取りやめる[35]。しかし新羅からの要請を受けて645年から三度(645年、647年、648年)にわたって高句麗遠征を行うが、いずれも失敗した(唐の高句麗遠征[36][37]

三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御[38][39][40]。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝高宗となった[41]

武周革命

太宗と長孫皇后の間には李承乾(長男)・李泰(四男)・李治(九男)の三人の男子がいた[42]。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された[42][43]。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが[44][43]、長孫皇后の兄の長孫無忌が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった[44][43][40]。長孫無忌には凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった[44][40]

高宗の治世初期は長孫無忌・褚遂良・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた[45]。ここに登場するのが武照、後の武則天である。

武照は太宗の後宮で(才人)だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って昭儀となった[46][47]。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった[48]。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った[49]。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、垂簾の政を行い、武則天は高宗と並んで「二聖」と呼ばれた[50]

この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している[51][52]。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる[53]

 
武則天

683年に高宗が死去すると武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた(中宗)が[48]、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた(睿宗[48]。当然実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった[48]。武則天に対する反乱も657年に起きた。李勣の孫の(李敬業)が起こしたもので、反乱軍の中に初唐を代表する詩人の一人駱賓王がおり、駱賓王が書いた檄文を読んだ武則天はその文才に感心し、「このような才能のある者を流落させているのは宰相の責任だ」といったという[54]

この反乱も程なく鎮圧され、690年に遂に武則天は帝位に登り、国号をとした[55][56][57]。中国史上唯一の女帝である[55]。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った[55]

武則天の政治は女性が皇帝になったこと、(武承嗣)・武三思ら武氏一族、薛懐義や(張易之)・(張昌宗)兄弟など武則天の寵愛を受けた者たちなどが権力を握って専横したということ、酷吏を使って密告政治を行ったことなどで評判が悪い[58]。一方で武則天は当時はまだ有効に機能していたなかった科挙[59]から人材を組み上げており、武則天により抜擢された姚崇は後の玄宗時代に活躍し、開元の治を導いたと評される[60]。また武周の15年はほぼ平穏な時代であり、この時代に唐は最大版図を実現している[61]

老いた武則天の後継者として武承嗣たちは自らが後継になることを画策したが、武則天が最も信頼をおいていた重臣の狄仁傑はこれに強く反対[62][63]。最終的に武則天の決断により廃されていた中宗が戻り、698年に皇太子に復された。更に705年、狄仁傑に推薦されて宰相となっていた張柬之は張易之・張昌宗兄弟を斬殺し、ついには病床の武則天に迫って彼女を退位に追い込み、中宗を即位させ、唐が復活した[62][63]。同年に武則天は死去[64][63]

武則天死後、中宗の皇后韋氏が第二の武則天にならんと政治に容喙するようになった[64][65]。710年に韋后とその娘安楽公主は中宗を毒殺[66][67]殤帝を傀儡とした後自らが帝位に登らんと画策したが、睿宗の三男の李隆基と武則天の娘の太平公主によるクーデターにより韋后と安楽公主は誅殺され、睿宗が再び即位した[66][67]。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる[68]

2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ[69]

盛唐

最盛期

 
玄宗
 
8世紀前半の唐

712年先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年に太平公主を処刑して実権を掌握した[70][71]

親政を始めた玄宗は前述の姚崇を抜擢して宰相とした。これに答えて姚崇は「宦官を政治に介入させないこと」「皇帝に親しい臣が不正を行うのをとりしまること」「外戚に政治介入させないこと」などを提言し、玄宗もこれを受け入れて政治に取り組んだ[72]。姚崇のあとを受けた宋璟も姚崇の方針を受け継いで政治改革を進めていった。姚崇と宋璟は貞観の房(玄齢)・杜(如晦)に対して姚・宋と称される[72][60]。この治世により太宗の時に戸数が300万に満たなかったのが、726年(開元十四年)には戸数は760万あまりとなり、人口も4千万を超えた[73]。穀物価格も低価で、兵士は武器を扱うことがなく、道に物が落ちていても拾う者はいなかったという[74]。この時代を開元の治とよび、唐の極盛期とされる[75]。文化的にも杜甫李白の漢詩を代表する詩人たちが登場し、最盛期を迎えた。

ただしその裏では唐の根本である律令体制の崩壊が始まっていた。律令体制では民を本籍地で登録し、それを元に租庸調・役(労役・兵役)を課すことになっていた[76]。しかし負担に耐えかねて本籍地から逃亡する民が増えた[76]。これを(逃戸)と呼ぶ[77]。この現象は武則天時代から問題になっていたが、その後も増え続けていた[78]。これに対しての政策が(宇文融)によって出された(括戸政策)である[78][77]。全国的に逃戸を調査し、逃戸を逃亡先の戸籍に新たに登録し(これを客戸という)、再び国家の支配下に組み入れようとしたものである。721年から724年にかけて行われた結果、80万余りの戸が新たに登録された[78][77]

またもう一つの変化が節度使の設置である。上述の理由により兵制である府兵制もまた破綻しており[79]、国防のために睿宗時代の710年に亀茲に安西節度使を設置したのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれていた[80][81]

さて宇文融は北周帝室に祖を持つ貴族であり、恩蔭(官僚が自分の子を官僚にする権利)の出身者である[82]。姚崇・宋璟の後、科挙出身者である張説張九齢らが宰相となったが[78]、次第に政界では貴族出身者が権力を握るようになる。宇文融の他に(裴耀卿)は大運河の運用を改善して漕運改革を行い、首都長安の食糧事情を大きく改善する功績を挙げた[83][84]。これらは実務に長けた貴族出身官僚であり、この流れを受けて李林甫が登場する[83]

李林甫は高祖の祖父の李虎の末裔で[85][86]、734年から752年に没するまでの19年間宰相の地位にあった[85]。李林甫の政策として租庸などの運搬の際の煩雑な書類を簡素にしたというものがある[84]。実務には長けていたが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と呼ばれた性格で、玄宗やその寵妃たち・側近の高力士らに上手く取り入る一方で、自分に対抗する政敵を策謀を持って排除し自らの地位保全に熱心であった[85][87]

この姿勢の一環として行われたのが、節度使に異民族を採用するという政策である。節度使のうち、長城の内側の節度使はそれまでは高級文官が就任するのが常であったが、李林甫はこれに異民族出身の蕃将を任命するようにした[85][88]。節度使が宰相への出世コースになっていたのを潰す意図があったとされる[85][88]。このことが後の安禄山台頭に繋がったといえる[85]

 
楊貴妃

玄宗は太子時代の妃であった王氏を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である武恵妃を寵愛し、その子である第十八子の寿王李瑁を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい[89]、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵(後の粛宗)を太子に立てていた[90]。この寿王李瑁の妃の一人であったのが楊貴妃である。

一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は白居易の『長恨歌』に歌われている。その中に「此れ従り君主は早く朝せられず」とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた[91]

安史の乱

楊貴妃を愛する玄宗はその一族も引き立てた。その中の一人が楊貴妃の又従兄弟の楊国忠である[92]。元は酒と博打で身を持ち崩した一族の鼻つまみものであったが、楊貴妃のおかげで官界に入った後は財務関係の実務で功績を挙げて出世を続け、750年には御史大夫京兆尹に、更に752年に李林甫が死去すると遂に宰相となった[92]

楊国忠と権力を争ったのが安禄山である。安禄山はソグド人の父と突厥の母の間に生まれた雑胡(混血の異民族)であった[93][94]。范陽節度使の張守珪史思明と共に登用されてその仮子[注釈 2]となって戦功を挙げて、742年に平盧節度使に任じられた。更に744年に范陽節度使・751年に河東節度使を兼任して、その総兵力は18万を超える膨大なものとなった[93][97]。このような大出世を遂げた要因の一つが玄宗・楊貴妃に取り入ったことにある[93]。安禄山は玄宗からその大きな腹の中には何が詰まっているのかと問われた時に「ただ赤心(忠誠)のみが詰まっています」と答えた、あるいは自ら願って楊貴妃の養児となって錦繍の産着を着て玄宗と楊貴妃を喜ばせたなどというエピソードが残る[98]

 
安禄山

楊国忠と安禄山は対立し、互いに相手を追い落とさんとするが、常に玄宗のそばにいる楊国忠がこの争いでは有利であった[99][100]。危機感を感じた安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」という名分を立てて遂に挙兵した[99][101]。この反乱は安禄山とその部下史思明の名を取って安史の乱と呼ばれる。

755年の11月に根拠地の幽州(范陽郡)から兵力15万と8千騎を持って出陣した安禄山軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には洛陽を陥落させ、翌年の1月1日に皇帝に即位、国号を大燕と称した[102][103]。更に同年6月には首都長安の東・関中の入り口に当たる潼関を陥落させる[104]。この報に狼狽した唐政府はへの避難を決める。避難の途中の馬嵬においてこの事態に怒った兵士たちにより楊国忠が殺され、楊貴妃も自殺させられている[103]。皇太子李亨(李璵から改名している)は途中で玄宗と別行動を取って、朔方節度使郭子儀の元に向かい、兵士を鼓舞するために玄宗の許可無く、皇帝に即位した(粛宗[104]

安禄山は757年に子の安慶緒に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の史朝義に殺される[104][105]。郭子儀率いる軍は回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した[104][106]

中唐

律令体制の崩壊

何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている[107]。また反乱軍の将を寝返らせるために節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半独立勢力となり、歴代政府の懸念事項となった[107]。乱により荒れ果てた華北では多数の流民が生じ、755年に890万戸を数えたのが764年には293万戸までに激減している[107]

逃戸の増大により均田租庸調制・府兵制の両制度は機能しなくなり、周辺民族の活発化により羈縻政策もまた破綻。これらの事態は開元の治以前から進行していたが、安史の乱によりはっきりとこの事態に対する新たな対応策が必要となっていた。これに対するのが律令には存在しない使職という新たな役職である。最初は地方の観察を後に地方の最高行政官となる観察使・税を司る(度支使)・漕運を司る(転運使)・専売制を司る塩鉄使[108]などがあり、いずれも非常に重要な役割を果たした。特に758年に開始された[109]塩の専売は大きな利益を上げて、以後の唐の財政に不可欠のものとなった[110]。ゆえに塩鉄使の地位は非常に重要視され、宰相に準ずる職となった[79]。しかし専売に対して密売の私塩が止まず、(塩賊)と呼ばれる私塩業者が各地で活動した[111]

前述の節度使も使職の一つであり、安史の乱以後に節度使は観察使を兼職するようになり、それまでの軍事権に加えて行政権も握るようになった。江南では節度使は置かれず観察使が(防禦使)・(経略使)などの軍事職を兼任してこちらも軍事・行政を司るようになった。これらを総称して藩鎮と呼ぶ。首都長安と副都洛陽が所属する京兆府河南府を除き、全国に40-50ほどの藩鎮が置かれた。京兆府と河南府以外の土地は全ていずれかの藩鎮の勢力圏となった[80][112]。先に挙げた河北三鎮のような中央の意向を無視するような藩鎮を反則藩鎮と呼ぶ(逆に従順な藩鎮を順地という)[80][113]。これら反則藩鎮は領内において勝手に税を取り立て[114]、さらに中央に納めるべき上供も怠ることが多かった[115]

また逃戸・客戸の増大により租庸調の収入は激減し、それを埋めるために青苗銭・(戸税)などの税が徴収されるようになる。農民の負担はますます重くなり、農民の没落・逃戸の増大に繋がるという悪循環に陥っていた[114]。これら複雑化した税制を一本化したものが780年に宰相の楊炎の権限によって実施された両税法である。両税法では夏税(6月納期)としてムギ・秋税(11月納期)にアワコメを税として取り立て[116][117]、それ以外の税を禁止した[116]。藩鎮・地方官が勝手な名目で税を取り立てることを防ぐ意味もあった[116]。そして均田租庸調が民一人一人を対象とするのに対して、戸を対象とし、その資産を計って税額を決める[118]銅銭での納税が原則とされた[119]

両税法の実施により唐は均田制を自ら否定したことになり[119]、それまで規制していた大土地所有を事実上公認したことになる[116][120]。この後は荘園が拡大していくことになる[120]

藩鎮との攻防

 
憲宗

770年ごろになると安史軍から投降して節度使になった李懐仙・(薛嵩)・田承嗣らが相次いで死去する[121]。藩鎮側は節度使の世襲を望んだが、唐政府は新任の節度使の赴任と藩鎮の兵力削減を言い渡した[121]。両税法が実施されたことを切っ掛けに、781年に河北三鎮(盧龍・天雄・成徳)を中心に7の藩鎮が唐に対して反乱を起こした[121]。反乱軍により長安を落とされ、時の皇帝徳宗梁州に避難した[122]。のちに長安は回復するものの藩鎮の罪を問うことはできず、赦免せざるを得なかった[122]

805年に新たに即位した憲宗はこの事態に断固たる態度で臨んだ。両税法の実施により財政に余裕ができたことで(禁軍)である(神策軍)を大幅に強化し、兵力15万を数えるまでになった[122]。この兵力を元に806年から次々と藩鎮を征伐し、819年から821年にかけて河北三鎮を順地化することに成功した[123][注釈 3]

これと並行して、それまで藩鎮内の属州の兵力を全て節度使が指揮していたのものを属州の兵は属州の刺史が統括するものとした。また属州の税収は州県の取り分(留県・留州)を取った後は節度使の費用を取った(留使)後に中央へと送られていた(上供)ものを県から直接上供することにした。これらの政策により節度使の持つ兵力・財力は大幅に削減されることになる[109]。更に節度使には中央から派遣した官僚を就けることとし、その任期も3年ほどと短くした[109]。また節度使の監察を行うために宦官を監軍として付けることにした[109]

このようにして憲宗は藩鎮の抑圧・中央集権の回復に成功した[109]。これにより憲宗は中興の英主と讃えられる[109][124]

朋党の禍・宦官の台頭

この頃になると科挙、特に進士科出身の官僚は官界での勢力を拡大し、旧来の貴族勢力と拮抗するまでになった[125]。また貴族の子弟たちの中でも任子ではなく、科挙受験の道を選ぶ者も増えていた[126]。科挙出身者はその年の試験の責任者と受験者たちの間で座主門生と称する縦の、同期の合格者同士で横の、それぞれ人間関係を構築していた[126]。この関係性を元に官界でも派閥が作られるようになる[126]

この延長線上に起きたのが牛李の党争である。牛僧孺・(李宗閔)ら進士出身の党と李徳裕の貴族層の党が820年から以後40年に渡って政界で激しく争い、負けた方の派閥の人間は全て失脚して左遷・争いが逆転すると同じことをやり返すという状態になる[127][注釈 4]。このことを文宗(第17代皇帝、穆宗の2代後)は「河北の賊を去るのは難しくないが、朋党の争いを収めるのは難しい」と嘆いた[127]

文宗の頭を悩ませたもう一つの問題が宦官である。藩鎮討伐に使われた神策軍の司令官は宦官が就くことになっており[127][128]、宦官はこれにより大きな軍事力を握ることになった[127]。また藩鎮に付けられた監軍はこれも宦官が務めたが、文官の節度使は任期が終わる際に勤務実績を良く報告してもらうために監軍に賄賂を送るようになった[129]。これにより中央官僚の人事にも権限を持つようになった宦官は、遂には皇帝の廃立すら決めるようになった[129]。第12代穆宗から第19代昭宗までの間で第13代敬宗を除く7人は全て宦官に擁立されたものである[129][130]。先述の党争においても宦官の権力を利用して政敵を排除している[131][130]

文宗は宦官排除を目論んで計画を立てる。それは宮中に甘露が降ったという嘘を上奏させ、宦官たちが集まったところで一気に誅滅してしまおうという計画であった[129][132]。しかし直前で計画が宦官側に露見して失敗。文宗の立場はますます弱いものとなり、「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた(甘露の変[132]

晩唐

会昌の廃仏

 
武宗

文宗を継いだ弟の武宗道教を崇拝すること厚く[133][134][135]、道教側の要請もあり[135]、廃仏(会昌の廃仏)を行った[133][136]。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り・廃棄寺院4600・仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった[137][138]。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし[137][138]、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした[137]。これによって仏教界は大打撃を受けた[138]。後世に三武一宗の廃仏と言われるうちの3番目である[139]。この廃仏は単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない[135]。同時期に祆教・摩尼教・景教(唐代三夷教)も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる[140]

846年に武宗が死去し、後を継いだ宣宗により廃仏は終わった[137]

乱の続発

牛李の党争が終わった10年ほどの後の858年に(張潜)という官僚が藩鎮で行われていた(羨余)という行為について非難する上奏文を出した[141][142]。羨余とは藩鎮が税を徴収した後、藩鎮の費用と上供分を除いて余った分のことを指し、それを倉庫にためた後に進奉といって正規の上供分とは別に中央に送った[142]。この行為を政府は盛んに奨励し[143]、進奉の額が節度使の勤務評価の基準ともなっていた[144]。その出所はといえば民からの苛斂誅求に他ならず、民を大いに苦しめることとなった[145][144]。これに対しての批判が先に挙げた張潜であるが、増大する経費を賄うには政府は進奉に頼らざるを得なくなっていた[144]

また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた[141][144]。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する[141][146]。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが裘甫の乱である[145]

859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は浙東藩鎮の海岸部象山県次いで(剡県)を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大群に膨れ上がった[147][148]。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた(王式)を派遣し[149]、ウイグルや吐蕃の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した[150]。続けて868年、南詔に対する防衛のために桂州に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて(龐勛)を指導者として反乱を起こした(龐勛の乱[151][152]。龐勛軍はまず故郷である山東の徐州へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった[151]。さらにこの乱の特徴として貧農ばかりではなく地主層もこの乱に参加したことが挙げられる[151][153]。ここにいたってこの乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった[153]。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり[151]、また龐勛の方針も、唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかった[154]。のでますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と突厥沙陀族の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した[155][注釈 5]

滅亡

 
朱全忠

裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である[158]。870年くらいから唐には旱魃蝗害などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった[159]。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった[159]

このような状態に対して874年(あるいは875年)に濮州の塩賊の王仙芝滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応した[159][160]。これが黄巣の乱である。この反乱集団には非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊[注釈 6]・大道芸人などなど[162]。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した[162][163]。唐政府はこれに対して王仙芝を禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に黄巣と王仙芝は別行動を取ることになる[164]。その後の878年に王仙芝は唐軍の前に敗死[164][165]。黄巣軍は江南・広州に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下[164][165]。怒った黄巣は広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った[164]

しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした[166]。そして880年に洛陽南の汝州に入り、ここで自ら天補平均大将軍を名乗る[167]。同年の秋に洛陽を陥落させる[167][168]。さらに長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した[169][170]。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した[169][171]。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた[172]。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた[83]。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった[172]。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した[172]

882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した[172]。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加[172]。883年に黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺。黄巣の乱は終結した[173][174]

黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった[175]。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった[176]。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使李茂貞を滅ぼして皇帝昭宗を自らの根拠地である汴州に近い洛陽へと連れ出した[176]

そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を梁(後世からは後梁と呼ばれる)とした[177]。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた[178]。しかしこの時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず[179]、これから宋が再び統一するまでの約70年間、五代十国時代と呼ばれる分裂時代となる[180]

政治

律令体制とその崩壊

律令は、西晋で作られた(泰始律令)以来、何度か改変が重ねられ、文帝の時に「開皇律令」が編纂されていた[181]。唐もそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた[182]。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である[183]

後述する官制・府兵制均田制なども全て律令の規定するところである[184][185][186]

唐の律令は何度か改変され、玄宗開元二十五年(737年)に完成を見る[187]。この律令は開元二十五年律令と呼ばれ[183]、後世に唐代律令の典範とされた[187]。しかしこの時点で既に現実社会と律令体制の間に乖離が生じおり、この間を埋めるのが皇帝の意思たる詔勅およびそこから法となった格が重要視されるようになる[183][187]。唐代においてはあくまで皇帝の意思が律令に優先するが、あくまで律令が根本であり、皇帝であっても恣意的に律令を覆すことは批判の対象であった。これが隋唐の律令支配の特徴とされる[183][188]

安史の乱を契機として唐の律令体制は急速にその力を失い、現実社会に対応するために律令に無い両税法・(使職)などの制度が設けられることになる[187]

官制

官品制度

唐の官僚は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられており[189][190]、ここまでを「流内官」と呼び、この下を「流外官」という[190]

これら官僚に付与される肩書には散官職事官・(勲官)・()の四種類がある[189]。この内、職事官が実際の職務を表すものであり[189]、散官は実務を伴わずその人物がどの品階にいるかということを示すものである[190]。散官の官品と職事官の官品とは一致するのが原則であったが、散官よりも官品の高い職事官に就く場合は職事官の職名の頭に「守」の字、逆の場合は「行」の字を付けて区別されていた[191][192]

勲官は軍功によって付与される恩典で[191]、爵は皇族や高い功績を挙げた功臣に与えられるものである[191]

これら官人に与えられる特権として、九品以上の流内官は本人の課役が免除され、五品以上は同居親族の課役が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた[191]。また罪を犯した場合であっても最も重い死刑でなければ銅を納めることで免れることができた[191]

官人になるためには、前述の「蔭」で任用されるか、あるいは科挙に合格することが必要となる。しかし当時はまだ科挙出身者は()出身者に対して大きな不利を背負わされていた[193]

中央官制

律令制下の官制は三省を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部吏部戸部兵部刑部工部)を通して詔勅を実行する[194]。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令であるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった[195][196]

これら六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された[195]。後に皇帝の命によって新たに(参与朝政)・同中書門下三品などの肩書で参加する例が増え[195]、逆に僕射が宰相会議のメンバーから外れた。この宰相会議は最初門下省内の聖事堂で行われていたが、後に中書省に移り、中書門下と改称した[195]

尚書六部の下には代以来の実務機関である九寺五監があり、庶務を担当した[195]

また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省後宮の管理を行う(内侍省)があり、合わせて(六省)と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった[195]

8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するために律令で規定されない新たな官職が設けられるようになった。これらの新たな官を(使職)という[197]。主なものにの監察を行う観察使[198]専売制を司る塩鉄使[199]、税および出納を司る(度支使)[198]・物資の運送を司る(転運使)[200]などがある。

度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち[198]、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる[79]

またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった。これら翰林学士はいわば皇帝の秘書官であり。宰相に継ぐ大きな権限を持つことになる[201]

地方制度

唐では隋から引き継いで州県制を採った[202]。州の下に数県が所属し、州は全国で約350、県は全国でおよそ1550あった[202]。特別な州として府があり、唐初には首都長安・副都洛陽が所属する京兆府と河南府、唐の故地である太原府があったが、安史の乱以降は徐々に増やされて唐末には10あった[202]。また重要拠点に置かれる州を都督府と呼び、長官は都督。規模によって大中小の三等に分けられる。通常の州の長官は刺史であり、戸数によってこちらも上中下の三等に分けられる[202]。州の下に県があり、こちらも戸数によって上・中・中下・下の四等に分けられる。また府に属する県は城内にある県は京と城外にある県は畿と呼ばれた[203]

県の下の行政単位が、郷と里(郷里制)である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった)[203]。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった[204]。また都市には()ごとに坊正が置かれ、聚落には100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる)[205]

更に州の上に道があり、太宗の時に全国を10の道に分けた[206]。元々、道はその下にある州県の行政を観察するために設けられた単位であり、観風俗使・宣労使などの名前を持った臨時の役職が派遣されていた。武后期に各道ごとに按察使などの役職が監察に当たり、玄宗期の711年には按察使の職を州の長官たる刺史等が兼任するようになる[206]。更に玄宗の734年に15道に再編成した[206][207]。それに伴って各道の刺史の中から一人を選んで採訪処置使としてそれぞれの道の治所に駐在させた[206]。ここに至って道は州の上の行政単位となった[206]

 
15道図
  1. (京畿道)、治所長安
  2. (関内道)、治所長安
  3. (都畿道),治所洛陽
  4. (河南道),治所汴州(現開封市
  5. (河東道),治所蒲州(現永済市
  6. 河北道,治所魏州(現河北省大名県東北)
  7. (山南西道),治所梁州(現漢中市
  8. (山南東道),治所襄州(現襄陽市襄州区
  9. (淮南道),治所揚州(現揚州市
  10. (江南東道),治所蘇州(現蘇州市
  11. (江南西道),治所洪州(現江西省南昌市
  12. (黔中道),治所黔州(現重慶市彭水ミャオ族トゥチャ族自治県
  13. (隴右道),治所鄯州(現海東市楽都県
  14. (剣南道)、治益州(現成都市
  15. (嶺南道)、治広州(現広州市

採訪処置使が後の安史の乱後に観察処置使(略して観察使)と名を変えて、節度使や(防御使)などの軍事職と観察使を兼任することで藩鎮となる[80]。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える[208]。ただし観察使の職掌範囲(=藩鎮の勢力範囲)は数州くらいと15道よりも狭く、藩道と呼んで区別する[209]。村落の方でも里正・村正などの政府によって置かれた役人の力は衰え、代わって村の有力地主層が村長・村耆などの名前で村の行政を司るようになった[210]

税制

均田・租調役

均田制は全国の丁男(21歳から59歳までの男性)及び中男(18歳以上の男性)一人につき、(永業田)が20口分田が80畝まで支給される[211][212]。永業田は世襲が認められる田地で、クワナツメニレを植えることが義務付けられる[212]。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない[211][213]。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地(これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ)では規定の半額が支給される[214]。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている[215]

これに対して、農民は租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。は粟(穀物)2調2綿3(または布2.5丈と麻3斤)を収める。年間20日の労役の義務があり、これを免除して貰うために納める税をと呼び、労役1日に対し絹3あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある(雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く)[216][217]府兵制は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す(#府兵制で後述)。

以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、かつては均田制は土地所有の制限を定めたものであり、土地の返還は行われていなかったとする見解もあった[218][219][220]。しかし新史料の発見により、少なくとも部分的には給付・返還が行われていたと考えられている[218][221]

男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する戸籍が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ[222]、戸の資産ごとに上上・、中、上下、中上…、下下と分ける九等((戸等制))に分けられた。ただし戸等によって租庸調の額は変化せず、役や受田の順番などによって負担の均一が図られた[222]

しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民(逃戸)が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ[76][223]。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。玄宗期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが(宇文融)の発案で行なった(括戸政策)である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという[224][225]

しかし大土地所有の進行・村落での階層分化などの社会変化傾向は変わらず、更に安史の乱終結後に各地に配された藩鎮勢力は租庸調とは別の税を勝手に取り立てて自分たちの収入としていた。もはやここに至って均田制・租調役制は完全に行き詰まったといえる[116][226]

両税法

780年、宰相楊炎により租庸調に変わる新たな税制両税法が上申された。両税法の主な特徴は以下の通り[116]

  1. 両税への一本化。
    • 以前から租庸調とは別に戸に課税する戸税・土地に課税する地税・同じく土地に課税する青苗銭などの税金があったがこれを全廃する。既述のような藩鎮の勝手な徴収を防ぐ意味もあった。
  2. 6月に麦を納める夏税、11月に粟・稲を納める秋税の二回徴収とする。これが両税の名の由来である。
    • 当時華北では麦の栽培と粉食が一般的になり、麦と粟の二年三毛作が行われていた[227][228]
  3. 戸を対象に課税し、資産の多寡によって税額が変わる。
    • それまでの丁男を等質と見なす考えを捨て、戸ごとに財産を計って課税額を決める。
  4. 量入制出から量出制入への移行。
    • まず必要な予算を先に決め、両税以外の歳入を全て計算。予算に足りない分を両税の税額とした。
  5. 資産計算・納税共にが原則。
    • 当時農村でも銅銭が普及しつつあり、それに対応するもの。ただし現物による折納も認める。
  6. 主戸・客戸の区別の撤廃。
    • 主戸・客戸の区別なく土地を所有するならば全てに課税する。逆に佃戸などには課税されない。

両税法の施行は均田制下での土地所有制限を自ら否定したに等しく、これ以降の唐では大土地所有が更に加速することになる[116][117]。ただし形式的には唐滅亡まで均田制・租庸調制は続いた[116]

専売制

両税法より前の758年専売制を実施した。専売の統括をする役職が塩鉄使である。基本的に中国では塩の産地が少なく、産地を集中的に監視下に置きやすいという環境があった[229]。産地の種類によって海塩・池塩・井塩・土塩に分けられる。それぞれ海水の塩・塩湖の塩・塩分が多い地下水の塩・塩分が多い土を精製した塩である[229]。各地の塩産地には製塩業者が集められて登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された[230]

専売制によってかけられる税は莫大で、専売制実施前に1斗が銭10文であったのが実施後には110文になり[231][232]、更に値上げされて唐を通じて250文から300文、もっとも高い時で370文にもなった[232]。そのため貧しくて塩が買えず淡色という味気ない食事しか出来ない者もいたという[233]

このような高額の官塩に対して私塩と呼ばれる密売塩が出回ることになる。塩製造には厳しい監視が付けられており、私塩の出所は官塩からの横流しが大半を占めていた[231]。私塩に対して唐は厳しい取り締まりを行なったが、私塩業者の方も対抗して武装し、内部での結束を高めるために宗教的な掟を定めるなどしていた。これが後の中国の秘密結社のルーツとなったとされる[234]。このような私塩集団を塩賊と呼び、唐を実質的に滅ぼした黄巣らもまた塩賊出身であった[159][160]

また茶葉にもはじめの793年に価格の10分の1、821年に増額して5割、835年に更に増税される[235]。と塩に比べればまだ安いものの高額な税がかけられ、塩と同じように茶賊と呼ばれる集団が活動した[234]

その他の税

商工業に対して、関所などの通行税や市に登録した商人に対する市租などを取っていた[236]。両税法では店構えや家屋などを元に算出した資産額によって課税し、行商人に対しては運搬する商品の30分の1の額を取った[236](翌年に10分の1に増額[237]。)。

政治勢力

科挙官僚と貴族

初唐に権力を握ったのは皇室の李氏を含め関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ[238]。関は関中陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである[239]。関隴集団は武川鎮軍閥とも呼ばれ、北周以来の支配者集団が貴族化したものである[240]

関隴集団以外の貴族として漢以来の長い伝統を持つ山東貴族があり、影響力には乏しいが社会的な名望は関隴系よりも上だった[241][242]。太宗は貴族を九等に格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、はじめ山東貴族の崔氏が第一等、皇室の李氏が第三等とされていた[241]。これに怒った太宗は作り直しを命じ、皇室の李氏を第一等・外戚の長孫氏や独孤氏などを第二等、崔氏を三等とした[241]

五品以上の官品を持つ者(ないし皇族・姻戚)にはその子弟が無条件で官品を得られる権利があった。これを資蔭といい、これによって官僚になった者を任子と呼ぶ[191]。例えば最高の一品官の子であれば正七品上が与えられる[191]。一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である[243]。更に試験に合格したとしてもすぐに任官できるわけではなく、尚書吏部で行われる身・言・書・判[注釈 7]という人物審査に合格して初めて任官することが出来た[244]。この人物審査は貴族的な立ち居振る舞いを求める物であり、科挙の制度の中に貴族の既得権益を守る意図があった[244]

武則天は権力奪取の過程において長孫無忌などの関隴貴族および伝統的な門閥貴族と対立し、これに対抗するために科挙官僚を優遇して積極的に引き上げた[245]。後の玄宗治世の前半に科挙官僚が中心になって開元の治を導いた[72]。玄宗後半になると関隴系が息を吹きかえし、再び政治上の主導権を握るようになった。その代表と言えるのが(活戸政策)を主導した(宇文融)であり、その後に19年の長きにわたって宰相の地位にあった李林甫である。李林甫によって関隴系の優位は確固たるものとなる[83]

安史の乱の後になると科挙に対する社会的声望が高まり、任子の資格を持つものであっても科挙を受けるものが出てくる[126][246]。9世紀に入ることになると科挙官僚の勢力は貴族勢力と伍するほどになっていた[125]

そのような中で起きたのが牛李の党争である。任子出身の李徳裕と科挙出身の牛僧孺・(李宗閔)の両派閥が鋭く対立した(この党争の捉え方に対して種々の意見・議論がある。その内容については牛李の党争の項目を参照)。

その後の乱の続発・藩鎮勢力の復権などの情勢の変化の中で貴族の勢力は大きく衰退し、五代からに至る中で貴族勢力は完全に滅びたと考えられる[247]。そして宋では科挙に合格して官僚資格を得た新興地主層が士大夫と呼ばれる新たな支配者集団を形成することとなる[248]

藩鎮

府兵制が逃戸の増大・兵役拒否などによって立ち行かなくなった[79]ことにより、それまでの徴兵制から(募兵制)に変更せざるを得なくなった[79][249]。またそれ以前から周辺民族の活動が活発化し、辺境防衛の強化が求められていた[79][250]

この頃の地方防衛では軍・城・守捉・鎮と呼ばれる軍事組織を各地に配置していた。これらをまとめて軍鎮と呼ぶ[251][252]。軍鎮の長官を軍使といい、軍鎮1つあたり平均して1万、総兵力60万と号していた[150]。これら軍鎮の統括は当初は都護府が行っていたが[251]、後にこれをまとめるために置かれたのが藩鎮であり、その長が節度使である[79][250]

710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた[80][253]。この10の節度使の総兵力は49万・軍馬数は7-8万となり[254][255]となり、唐の中央軍の兵力を大きく上回っていた[255]。この10の節度使のうち、安西(亀茲)・北庭(庭州)・平盧(営州)の3つが万里の長城の外にある長城外節度使であり、他7つが長城内節度使である[254]。長城外節度使には軍人や蕃将(異民族の将軍)が任命され、長城内節度使にはもっぱら高級文官が就いた[254][256]。長城内節度使は宰相へのエリートコースとされ[254]、玄宗即位から李林甫登場までの25人の宰相の内、節度使から宰相になった者が14人いる[257]。李林甫がこのコースを潰すために長城内節度使にも軍人・蕃将を任命するようにし、それが安禄山の出世・さらに結果として安史の乱に繋がることになる[254]

安史の乱を平定するに当たり、それまで設置していなかった内地にも藩鎮を設置するようになる[254][112]。また安史軍の幹部であった李宝臣李懐仙田承嗣の三人をそれぞれ成徳軍・盧龍軍・天雄軍の節度使に封じることで懐柔し、乱を収めた[258][259]。こうして9世紀半ばには全国に4-50の藩鎮が置かれ[80][112]長安洛陽の二都が所属する京兆府河南府を除くすべての地域がいずれかの藩鎮の支配地域となった[80][112]

藩鎮はそれまでは軍権だけを持つものであったが、乱後は観察使を兼任することで行政権も握るようになる[80][260]。江南地域では節度使は置かれず、観察使が防御使などの軍事職を兼任することでこちらも行政・軍事権を握った[80]。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える[208]

藩鎮の内、唐政府に対して反抗的な藩鎮を反則(藩鎮、の地)、対して比較的従順な藩鎮を順地と呼んだ[80][113]。先に挙げた成徳・盧龍・天雄の3者が反則の典型で、これを河北三鎮と呼ぶ[258][113]。反則藩鎮では政府に収めるべき上供も送られないことが多く、領内での徴税・官吏や兵士の任命などを勝手に行い、半独立した状態となった[258][113]

藩鎮の領内の内、節度使の府(幕府)である使府が置かれている州を使府州(または会府)といい[261][260]、節度使自身がこの州の長官たる刺史を兼ねる[260]。そしてここに常駐している軍を牙軍・牙中軍といい、藩鎮兵力の中核をなす[261][262]。また領内の要所に軍鎮が配置されて守備にあたる。これを外鎮軍・牙外軍という[261][262]。藩鎮は平均して5-6州をその領内に持つが[260]、使府州以外の州は巡属州(または支郡)などと呼ばれ[261][208]、それぞれの州刺史が防御使などの軍事職を兼任して州ごとに軍を持って治安維持に当たる[261]。これらの兵士は全て傭兵であり、官費で養われる[261]。またこれらとは別に家兵などと呼ばれる節度使の私軍を抱えることが多い[261][263]。これら家兵は節度使と仮父子関係[注釈 2]を結ぶことで個人的紐帯を強くした[261][263]

藩鎮の中核を為す支配機関が使院と呼ばれる機関で、ここに所属する官を(幕職官)という[244][208]。この幕職官は(辟召)により、藩鎮が独自に任命し、中央はそれを後で追認するだけであった[244]。この幕職官の主な供給源となったのが科挙落第者である。科挙に合格することは非常に困難であり、毎年数百人の落第者が生まれていた[244]。落第者とはいえ知識人であり、有用な人材である彼らを辟召によって藩鎮が吸収していった[264][265]

このような構造を持つ藩鎮だが、その長たる藩帥(節度使・観察使)の地位は必ずしも安定したものではなかった。牙軍の兵士は自らの待遇問題に敏感で、これが十分ではない場合は不満を抱いて兵乱を起こすこともあった[266]。最悪の場合は藩帥を追放・殺害してすげ替えるといった事態に発展する[261][266]。前述の家兵も、反抗的な牙軍に対して自衛のために個人的忠誠心の強い部隊が必要とされたものである[261][263]

820年に即位した憲宗は各反則藩鎮を武力で討伐してこれらを順地とすることに成功した[123]。これと並行して順属州の兵権と税収を節度使から取り上げ[109][267]、さらに節度使を中央から派遣される高級文官が就くこととし[109][268]、任期も数年で交代するようにした[109]。これにより藩鎮の勢力は大幅に減少し、唐はある程度中央集権を回復することに成功した[109][268]。ただし河北三鎮は一旦順地化した後に再び反則となった[109][268]

黄巣の乱が起きると乱の中で成り上がってきた朱全忠李克用らが節度使の職を帯びて、藩鎮勢力が再び形成される[269]。しかしこの唐末の藩鎮とかつての反則藩鎮とは決定的に違う部分がある。反則藩鎮は財政基盤が弱く、大量の兵士を養うためには中央からの官費が不可欠であって、唐に対して反抗的ではあっても唐と分離して存続できない存在であった[261][270]。これに対して黄巣の乱後の唐は一地方政権に堕しており[175]、藩鎮は完全に自立した存在となった[271]

藩鎮間の抗争と統合が行われ、唐も907年に滅ぼされる[173]。この後の五代政権の創業者はほとんどが節度使から皇帝となっており[272]、五代政権自体が唐の藩鎮の性格を色濃く受け継いだものと言える[273][272]

宦官

唐は歴代王朝の中でも後漢と並んで宦官悪の顕著な時代とされている[247]

六省の一つ(内侍省)が後宮の管理を行う部署である[195][274]。長官は内侍監(正三品)[275]

唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である[129][276]。高力士は皇太子時代から玄宗に仕え、太平公主討伐などに功績を挙げて、玄宗の信頼を勝ち取るに至った[275]。玄宗が皇太子を立てる際に高力士は忠王李璵(後の粛宗)を推薦し、玄宗はこの意見に従っている[90]。このように玄宗からの信頼は非常に厚いものがあったが、玄宗退位後に粛宗を補佐して権勢を握ったこれも宦官の李輔国から誣告を受けて失脚している[277]

高力士までは宦官はあくまで皇帝の影の存在だったが、先に挙げた李輔国のころから宦官が表舞台に現れてくるようになる[129]。さらに代宗のときの(程元振)などを経て、(神策軍)を擁した(魚朝恩)の台頭以後、宦官の存在は唐の中で大きな位置を占めるようになる[278]。安史の乱により唐の南北(禁軍)(中央軍を参照)は壊滅しており[129][128]、これに代わって神策軍を代表とする北衙禁軍が再構成される[129][128][279]。神策軍の司令官には代々宦官が任じられることになり[229]、宦官勢力が大きな兵力を握ることとなった[229][128]。この北衙禁軍により唐は藩鎮勢力の討伐に成功し、このことで宦官の勢力は増大する[229]。さらに藩鎮に対して宦官が(監軍)として監察に当たるようになり[129][280]、また新たに設置された枢密使が宦官の任命されて皇帝と宰相との連絡役とされる[280]など、もはや宦官は宮中の中だけの存在ではなくなった[280]

ここに至って宦官は皇帝の廃立すら決めるようになった[129][130]。12代穆宗から19代昭宗までの8人の皇帝のうち宦官に擁立されなかったのは13代敬宗だけであり、その敬宗も在位2年で宦官に殺されている[129][130]。皇帝を擁立した宦官は定策国老と呼ばれ、擁立された皇帝は門生天子(皇帝を科挙の受験者に見立てている)とまで呼ばれた[130]。この状態に対して14代文宗は宦官を誅滅しようとし、宰相(李訓)・鳳翔節度使の鄭注と共に宦官殺害の策を練る。835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし直前に情報が宦官側に漏れて計画は失敗、李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ[129][132]

強大な権力を持つ宦官に対して、官僚側も接近し、牛李の党争の際には双方の党が宦官の力を借りて政敵を追い落としている[131][281]

このように権勢を振るった宦官であったが、その権勢の源はあくまで皇帝にあり、皇帝と離れては権勢を保ち得ない存在であった[158][130]。黄巣の乱の後、唐が大幅にその力を減じ、一地方政権となった後でも官僚・宦官等による宮廷内での権力争いは続けられていたが、それも藩鎮軍閥勢力による代理戦争に過ぎず[176]、現実になんら影響を及ぼすものではなかった[282]

903年、朱全忠は宮中にて数百人の宦官を皆殺しにした[176][178]。中央における有利を確立した朱全忠にとってはもはや宦官に利用価値は残っていなかった[177]。そして4年後の907年に唐自体が滅亡することとなる[177]

経済

文化

美術

 
龍門石窟

絵画の分野においては、唐の後期には水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。同時代の絵画評論文集『(唐朝名画録)』は、この代表として(王墨)・(李霊省)・張志和の3人を挙げている。

書道の分野においては、玄宗の時代の人物である顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立て、後に北宋の書家・画家の蘇軾は「書は顔魯公に至りて畢(おわ)れり。」と評した[283]

ギャラリー

コモンズの唐代の美術のカテゴリも参照。

国際関係

唐の末期においてはその衰退は東方の諸国においても動揺を与え、日本において10世紀前半に相次いで発生した承平天慶の乱などの一連の地方反乱も、この唐の衰退に起因するという説もあるが、10世紀前半の中国大陸・朝鮮半島と日本列島の地理条件や政治・経済・社会などの環境の違いから、承平天慶の乱の発生は唐滅亡後の混乱や変革とは直接的な関係はなく、むしろ200年以上遅れる形で平氏政権の成立に影響を与えたとする理解もある[284]

唐の皇帝と元号

 
唐の系図
皇帝 統治年数 元号
高祖 李淵 618年-626年 武徳 618年-626年
太宗 李世民 626年-649年 貞観 627年-649年
高宗 李治 650年-683年 永徽 650年-655年

顕慶 656年-661年
龍朔 661年-663年
麟徳 664年-665年
乾封 666年-668年
総章 668年-670年
咸亨 670年-674年
上元 674年-676年
儀鳳 676年-679年
調露 679年-680年
永隆 680年-681年
開耀 681年-682年
永淳 682年-683年
弘道 683年

中宗 李顕 684年[注釈 8]
705年-710年重祚
嗣聖 684年
睿宗 李旦 684年-690年
(710年-712年に重祚)
文明 684年

光宅 684年
垂拱 685年-688年
永昌 689年
載初 690年

武周(690年 - 705年唐の中断
則天大聖皇帝 武曌 [注釈 9] 690年-705年[注釈 10] 天授 690年

如意 692年
長寿 692年
延載 694年
証聖 695年
天冊万歳 695年
万歳登封 696年
万歳通天 696年
神功 697年
聖暦 698年
久視 700年
大足 701年
長安 701年

唐の復興
中宗(重祚 李顕 705年-710年 神龍 705年-707年

景龍 707年-710年

殤帝 李重茂 710年[注釈 11] 唐隆 710年
睿宗(重祚 李旦 710年-712年 景雲 710年-711年

太極 712年
延和 712年

玄宗 李隆基 712年-756年 先天 712年-713年

開元 713年-741年
天宝 742年-756年

粛宗 李亨 756年-762年 至徳 756年-758年

乾元 758年-760年
上元 760年-761年

代宗 李豫 762年-779年 宝応 762年-763年

広徳 763年-764年
永泰 765年-766年
大暦 766年-779年

徳宗 李适 780年-805年 建中 780年-783年

興元 784年
貞元 785年-805年

順宗 李誦 805年[注釈 12] 永貞 805年
憲宗 李純 806年-820年 元和 806年-820年
穆宗 李恒 821年-824年 長慶 821年-824年
敬宗 李湛 825年-826年 宝暦 824年-826年
文宗 李昂 826年-840年 宝暦 826年

大和(1) 827年-835年
開成 836年-840年

武宗 李瀍 840年-846年 会昌 841年-846年
宣宗 李忱 846年-859年 大中 847年-859年
懿宗 李漼 859年-873年 大中 859年

咸通 860年-873年

僖宗 李儇 873年-888年 咸通 873年-874年

乾符 874年-879年
広明 880年-881年
中和 881年-885年
光啓 885年-888年
文徳 888年

昭宗 李敏 888年-904年 龍紀 889年

大順 890年-891年
景福 892年-893年
乾寧 894年-898年
光化 898年-901年
天復 901年-904年
天祐 904年

(徳王李裕 李裕 900年-901年[注釈 13] 光化 898年-901年
哀帝 李柷 904年-907年 天祐 904年-907年

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 三男の李玄覇は早世している[22]
  2. ^ a b 仮父子というのは義理の親子関係であるが、家を継がせるための養子とは違う[95]。仮の父子関係を結ぶことで紐帯を強くして主従関係を強固にするためのもので、唐及び五代の節度使の組織の中でよく見られるものである[96][95]
  3. ^ 憲宗は820年に死去しており、成徳・盧龍を討伐したのは後を継いだ穆宗である[109][124]
  4. ^ なおこの党争の原因・実態などに関しては非常に多くの議論がある。詳しくは牛李の党争の記事を参照。
  5. ^ この時に活躍した沙陀族の長が(朱邪赤心)(中国語版)で、この功績により国姓の李を授けられて李国昌を名乗る。後唐太祖李克用の父親である[156][157]
  6. ^ 塩賊の茶バージョン。茶には塩ほどではないが、高額の税がかけられていたので、それを回避する私茶が横行、これを取り扱う私茶業者を茶賊と読んだ[161]
  7. ^ 身は身体風貌、言は言辞がそれぞれ卑でないか。書は筆跡、判は模擬的に四六文で判決文を作らせること[244]
  8. ^ 即位後わずか54日で廃位された。
  9. ^ 「曌」は「照」の則天文字
  10. ^ 705年、中宗に譲位して唐が復活。武周は一代15年で終わった。
  11. ^ 中宗に代わり韋皇后によって皇帝に擁立されたが1ヶ月で睿宗に譲位させられた。
  12. ^ 病気が元で即位後7ヶ月で譲位。
  13. ^ 宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。

出典

  1. ^ Turchin, Peter; Adams, Jonathan M.; Hall, Thomas D (December 2006). “East-West Orientation of Historical Empires”. Journal of world-systems research 12 (2): 222. ISSN 1076-156X. http://jwsr.pitt.edu/ojs/index.php/jwsr/article/view/369/381. 
  2. ^ (Taagepera, Rein) (1997). “Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia”. (International Studies Quarterly) 41 (3): 475–504. doi:10.1111/0020-8833.00053. JSTOR 2600793.  p. 492.
  3. ^ 窪添 et al. 1996, p. 285.
  4. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 285–287.
  5. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 287–289.
  6. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 288–289.
  7. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 289–290.
  8. ^ 氣賀澤 2005, p. 378.
  9. ^ 窪添 et al. 1996, p. 293.
  10. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 294–295.
  11. ^ 氣賀澤 2005, pp. 57–58.
  12. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 298.
  13. ^ 窪添 et al. 1996, p. 299.
  14. ^ 氣賀澤 2005, p. 58.
  15. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 72.
  16. ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 67.
  17. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 311–312.
  18. ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 312.
  19. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 66.
  20. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 73.
  21. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 74.
  22. ^ a b 氣賀澤 2005, p. 68.
  23. ^ 氣賀澤 2005, p. 69.
  24. ^ 氣賀澤 2005, p. 71.
  25. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 77.
  26. ^ 窪添 et al. 1996, p. 319.
  27. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 79.
  28. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 326.
  29. ^ 氣賀澤 2005, p. 76.
  30. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 327.
  31. ^ 窪添 et al. 1996, p. 322.
  32. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 80.
  33. ^ 氣賀澤 2005, p. 80.
  34. ^ 窪添 et al. 1996, p. 328.
  35. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 101.
  36. ^ 窪添 et al. 1996, p. 128.
  37. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 101–102.
  38. ^ 窪添 et al. 1996, p. 321.
  39. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 107.
  40. ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 82.
  41. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 320–321.
  42. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 120.
  43. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 88.
  44. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 320.
  45. ^ 窪添 et al. 1996, p. 331.
  46. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 331–332.
  47. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 111–112.
  48. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 332.
  49. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 114-115.
  50. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 119.
  51. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 328–329.
  52. ^ 氣賀澤 2005, p. 84.
  53. ^ 窪添 et al. 1996, p. 329.
  54. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 123-124.
  55. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 333.
  56. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 128.
  57. ^ 氣賀澤 2005, p. 88.
  58. ^ 窪添 et al. 1996, p. 334.
  59. ^ 窪添 et al. 1996, p. 290.
  60. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 146.
  61. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 333–334.
  62. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 335.
  63. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 132.
  64. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 339.
  65. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 135.
  66. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 340.
  67. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 136.
  68. ^ 窪添 et al. 1996, p. 343.
  69. ^ 氣賀澤 2005, p. 90.
  70. ^ 窪添 et al. 1996, p. 344.
  71. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 143.
  72. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 345.
  73. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 147.
  74. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 147-148.
  75. ^ 氣賀澤 2005, pp. 379–380.
  76. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 394.
  77. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 244.
  78. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 395.
  79. ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 447.
  80. ^ a b c d e f g h i j 窪添 et al. 1996, p. 449.
  81. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 161–162.
  82. ^ 氣賀澤 2005, p. 92.
  83. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 346.
  84. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 158.
  85. ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 347.
  86. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 156.
  87. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 162.
  88. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 161.
  89. ^ 窪添 et al. 1996, p. 348.
  90. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 155.
  91. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 165–166.
  92. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 349.
  93. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 353.
  94. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 294.
  95. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 295.
  96. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 353–354.
  97. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 299.
  98. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 298.
  99. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 354.
  100. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 301–302.
  101. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 302.
  102. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 355–356.
  103. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 304.
  104. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 356.
  105. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 305.
  106. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 306.
  107. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 357.
  108. ^ 窪添 et al. 1996, p. 445-447.
  109. ^ a b c d e f g h i j k l 窪添 et al. 1996, p. 459.
  110. ^ 窪添 et al. 1996, p. 446.
  111. ^ 窪添 et al. 1996, p. 460-461.
  112. ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 343.
  113. ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 350.
  114. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 454.
  115. ^ 窪添 et al. 1996, p. 455.
  116. ^ a b c d e f g h 窪添 et al. 1996, p. 489.
  117. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 333.
  118. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 489–490.
  119. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 490.
  120. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 499.
  121. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 456.
  122. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 457.
  123. ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 457–459.
  124. ^ a b 氣賀澤 2005, p. 118.
  125. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 472.
  126. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 471.
  127. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 473.
  128. ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 370.
  129. ^ a b c d e f g h i j k l 窪添 et al. 1996, p. 475.
  130. ^ a b c d e f 布目 & 栗原 1997, p. 392.
  131. ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 475–476.
  132. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 393.
  133. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 528.
  134. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 404.
  135. ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 286.
  136. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 402.
  137. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 529.
  138. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 403.
  139. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 527–528.
  140. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 403–404.
  141. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 462.
  142. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 410.
  143. ^ 窪添 et al. 1996, p. 463.
  144. ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 411.
  145. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 465.
  146. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 413.
  147. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 465–466.
  148. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 420.
  149. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 422.
  150. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 466.
  151. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 468.
  152. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 425–426.
  153. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 427.
  154. ^ 窪添 et al. 1996, p. 470.
  155. ^ 氣賀澤 2005, p. 133.
  156. ^ 窪添 et al. 1996, p. 413.
  157. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 456.
  158. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 476.
  159. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 477.
  160. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 436.
  161. ^ 窪添 et al. 1996, p. 461.
  162. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 478.
  163. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 437.
  164. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 480.
  165. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 438.
  166. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 439.
  167. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 481.
  168. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 441.
  169. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 482.
  170. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 441–442.
  171. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 442.
  172. ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 483.
  173. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 484.
  174. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 447.
  175. ^ a b 布目 & 栗原 1997, pp. 452–453.
  176. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 485.
  177. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 486.
  178. ^ a b 氣賀澤 2005, p. 137.
  179. ^ 愛宕 et al. 1997, p. 12.
  180. ^ 愛宕 et al. 1997, pp. 3–4.
  181. ^ 窪添 et al. 1996, p. 365.
  182. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 365–366.
  183. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 366.
  184. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 187.
  185. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 194–195.
  186. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 201–202.
  187. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 487.
  188. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 182.
  189. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 368.
  190. ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 144.
  191. ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 369.
  192. ^ 氣賀澤 2005, pp. 144–146.
  193. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 371.
  194. ^ 窪添 et al. 1996, p. 375.
  195. ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 376.
  196. ^ 氣賀澤 2005, pp. 146–147.
  197. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 444–448.
  198. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 444.
  199. ^ 窪添 et al. 1996, p. 445.
  200. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 444–445.
  201. ^ 窪添 et al. 1996, p. 488.
  202. ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 377.
  203. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 378.
  204. ^ 窪添 et al. 1996, p. 378-379.
  205. ^ 窪添 et al. 1996, p. 379.
  206. ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 381.
  207. ^ 氣賀澤 2005, pp. 150.
  208. ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 346.
  209. ^ 窪添 et al. 1996, p. 548.
  210. ^ 窪添 et al. 1996, p. 502.
  211. ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 385–386.
  212. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 195.
  213. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 195–196.
  214. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 196.
  215. ^ 窪添 et al. 1996, p. 385.
  216. ^ 窪添 et al. 1996, p. 388.
  217. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 200–201.
  218. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 390-392.
  219. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 196-198.
  220. ^ 氣賀澤 1994, pp. 131–132.
  221. ^ 氣賀澤 1994, pp. 134–135.
  222. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 389.
  223. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 244–245.
  224. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 394–395.
  225. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 153.
  226. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 313.
  227. ^ 窪添 et al. 1996, p. 492.
  228. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 329–330.
  229. ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 495.
  230. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 322.
  231. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 460.
  232. ^ a b 布目 & 栗原 1997, pp. 322–323.
  233. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 323.
  234. ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 460–461.
  235. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 430–431.
  236. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 334.
  237. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 337.
  238. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 308–309.
  239. ^ 窪添 et al. 1996, p. 309.
  240. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 308–310.
  241. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 324.
  242. ^ 宮崎 1997, p. 83.
  243. ^ 窪添 et al. 1996, p. 372.
  244. ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 452.
  245. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 334–335.
  246. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 389.
  247. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 474.
  248. ^ 愛宕 et al. 1997, p. 117.
  249. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 283.
  250. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 285.
  251. ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 406.
  252. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 278.
  253. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 286-287.
  254. ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 448.
  255. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 288.
  256. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 288–289.
  257. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 292.
  258. ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 450.
  259. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 348.
  260. ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 345.
  261. ^ a b c d e f g h i j k 窪添 et al. 1996, p. 451.
  262. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 361.
  263. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 362.
  264. ^ 窪添 et al. 1996, pp. 452–453.
  265. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 386-387.
  266. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 360.
  267. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 374–376.
  268. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 379.
  269. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 450-451.
  270. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 451.
  271. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 451–452.
  272. ^ a b 愛宕 et al. 1997, p. 25.
  273. ^ 愛宕 et al. 1997, p. 6.
  274. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 148.
  275. ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 149.
  276. ^ 布目 & 栗原 1997.
  277. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 149–150.
  278. ^ 氣賀澤 2005, p. 121.
  279. ^ 窪添 et al. 1996.
  280. ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 391.
  281. ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 392–393.
  282. ^ 布目 & 栗原 1997, p. 461.
  283. ^ 氣賀澤 2005, p. 331.
  284. ^ 榎本淳一「唐代の朝貢と貿易」(初出:平川南 他編『文字と古代日本2 文字による交流』(吉川弘文館、2005年)/所収:榎本『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年)

参考文献

総論・歴史

経済

  • 氣賀澤保規「均田制研究の展開」『戦後日本の中国史論争』。 
    • 谷川, 道雄 編『戦後日本の中国史論争』(河合教育文化研究所)、1993年。ISBN (978-4879999894)。 

関連項目

外部リンク

先代
618年 - 907年
次代
後梁

五代十国時代

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。