経歴
幼い頃に母を喪うが、定められた礼の基準を越えて悲しみ悼み、叔父・和気真綱はこれを深く哀れんだという[1]。若くして、治部卿・安倍吉人に付いて老荘の教えを受ける。のちに、大学に入学して休まず研鑽し、承和8年(841年)文章得業生に補せられ[2]、承和10年(843年)対策を受験するも不第となった[3]。
承和14年(847年)大学大允、嘉祥元年(848年)大内記を経て、仁寿元年(851年)従五位下に叙爵する。のちに疱瘡を患ったために、仁寿3年(853年)4月14日(卒去)。享年37。最終官位は大内記従五位下。
人物
聡明鋭敏である一方、質素素朴で華やいだところは少なかった。また、雷を非常に恐れた。些細な技能には興味が無く、ただ囲碁のみを愛好し、好敵手と相対した際は、日が暮れて対局が深夜に及んでも気がつかない程であったという[1]。
官歴
『続日本後紀』による。