八幡市(やはたし)は、かつて福岡県の北東部に存在した市。鉄鋼業を軸に、北九州工業地帯における重工業の中心地として栄え、1963年(昭和38年)に小倉市・門司市・戸畑市・若松市と合併して北九州市となり、消滅した。
やはたし 八幡市 | |
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廃止日 | 1963年2月10日 |
廃止理由 | 新設合併 八幡市、門司市、小倉市、戸畑市、若松市 → 北九州市 |
現在の自治体 | 北九州市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 福岡県 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 110.53km2. |
総人口 | 344,893人 (推計人口、1962年10月1日) |
隣接自治体 | 小倉市、戸畑市、若松市、中間市、直方市、遠賀郡水巻町、鞍手郡鞍手町 |
八幡市役所 | |
所在地 | 福岡県八幡市大字尾倉(現在の八幡東区中央町) |
座標 | 北緯33度51分49秒 東経130度48分43秒 / 北緯33.86353度 東経130.81189度座標: 北緯33度51分49秒 東経130度48分43秒 / 北緯33.86353度 東経130.81189度 |
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ウィキプロジェクト |
旧市域は区制によって八幡区となり、北九州市内の一区として発足したが、1974年(昭和49年)4月1日に八幡東区と八幡西区へ分割された。
現在、京都府に同名の八幡市(但し、読みは「やわたし」)があるが、同市の市制施行は本市廃止後(1977年)であるため、両者が同時に存在した時期はない。
歴史
市域は律令制下では筑前国・豊前国にまたがる地域だったが、廃藩置県によって福岡県に属した。1901年(明治34年)に、日本初の近代製鉄所である官営八幡製鐵所の建設地に選定され、以後はこの八幡製鐵所を軸に工業都市として飛躍的に発展し、「鉄の町」と呼ばれるようになる。
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)6月16日に、初めてB-29を使用した日本本土空襲の対象となる(八幡空襲)。空襲はこのあと同年8月20日におこなわれたあとは1年近くなかったが、終戦直前の1945年(昭和20年)8月8日の空襲で大きな被害を受けた。この空襲により発生した煙は、八幡市へもさらなる壊滅的打撃を与えたであろう小倉市への原子爆弾投下を妨げることとなった(詳細は「長崎市への原子爆弾投下」の項参照)。
行政区域の変遷
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、遠賀郡尾倉村(111戸)大蔵村(145戸)枝光村(109戸)が合併して八幡村が発足。尾倉村の豊山八幡神社、大蔵村の乳山八幡神社、枝光村の枝光八幡宮と、3村とも産土神八幡神を鎮守神としていたことから命名された[1]。同時に以下の村が成立。
- 1899年(明治32年)2月15日 - 八幡村が町制施行、八幡町となる。
- 1917年(大正6年)3月1日 - 八幡町が市制施行、八幡市となる。
- 1922年(大正11年) - 市章を制定する。一般公募によるもので、日章旗を時計廻りに8等分レイアウトして、「8旗=やはた」をシンボライズした。
- 10月1日 - 板櫃村が町制施行して板櫃町となる。
- 1925年(大正14年)4月28日 - 板櫃町(いたびつまち)大字槻田(高槻+荒生田)・小熊野の各一部を分割して編入する。板櫃町の残余は小倉市に編入する。
- 1926年(大正15年)11月2日 - 黒崎町を編入する。
- 1937年5月5日 - 上津役村(こうじゃくむら)を編入する。
- 1944年(昭和19年)12月8日 - 折尾町を編入する。
- 1954年(昭和29年) - 小倉市田代(旧西谷村域)の一部を編入する。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 香月町および木屋瀬町を編入する。
- 1958年(昭和33年)11月1日 - 一部を直方市に分離と編入がされる。
- 1963年(昭和38年)2月10日 - 小倉市・門司市・若松市・戸畑市と新設合併し、北九州市となり消滅する。
- 1963年(昭和38年)4月1日 - 北九州市の政令指定都市移行により、旧市域が八幡区となる。
- 1974年(昭和49年)4月1日 - 八幡区が八幡東区と八幡西区に分割される。
人口の変遷
- 1920年 100,235(九州で2位、福岡県で1位)
- 1925年 118,376
- 1930年 168,217
- 1935年 208,629
- 1940年 261,309
- 1945年 151,378
- 1947年 167,829
- 1950年 210,051
- 1955年 286,241
- 1960年 332,163
行政
歴代市長
代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 備考 |
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官選 | ||||
- | 末弘直方 | 1917年(大正6年)3月1日 | 1917年(大正6年)7月18日 | 臨時市長代理 |
1 | 末弘直方 | 1917年(大正6年)7月19日 | 1918年(大正7年)9月5日 | |
2 | 堀口助治 | 1918年(大正7年)11月18日 | 1921年(大正10年)12月12日 | |
3 | 永井環 | 1922年(大正11年)1月25日 | 1926年(大正15年)1月24日 | |
4 | 新開渧観 | 1926年(大正15年)3月17日 | 1927年(昭和2年)5月10日 | |
5 | 二木千年 | 1927年(昭和2年)7月11日 | 1928年(昭和3年)1月19日 | |
6 | 図師兼弐 | 1928年(昭和3年)6月21日 | 1932年(昭和7年)6月20日 | |
7 | 1932年(昭和7年)6月21日 | 1936年(昭和11年)6月20日 | ||
8 | 1936年(昭和11年)6月21日 | 1940年(昭和15年)6月20日 | ||
9 | 1940年(昭和15年)7月10日 | 1942年(昭和17年)4月9日 | ||
10 | 内田隆 | 1942年(昭和17年)11月22日 | 1946年(昭和21年)11月21日 | |
公選 | ||||
11 | 守田道隆 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)4月4日 | |
12 | 1951年(昭和26年)4月23日 | 1955年(昭和30年)4月9日 | ||
13 | 1955年(昭和30年)4月30日 | 1959年(昭和34年)4月29日 | ||
14 | (大坪純) | 1959年(昭和34年)4月30日 | 1963年(昭和38年)2月9日 |
国の機関
主な医療機関
産業
上で述べたように、官営八幡製鉄所およびその後身の日本製鐵八幡製鐵所に代表される重工業を主幹産業とした。戦後(1950年以降)はこの日本製鐵が解体され発足した八幡製鐵と黒崎窯業(現・黒崎播磨)、安川電機などが市内の最有力企業として地域経済を牽引した。なお八幡製鐵が合併により新日本製鐵となったのは北九州市発足後の1970年である。 (新日本製鐵(株)と住友金属工業(株)は2012年10月に統合し新日鉄住金(株)となり、さらに2019年4月には日本製鉄(株)に商号変更されている。)
戦前から1950年代にかけ、八幡市の中心地は中央町(当時は中央区という呼び方もされた)で、八幡製鐵所の東門があり、西鉄北九州線の枝光線との分岐点にもなっていたことから非常に栄えた。また八幡市に編入された黒崎(旧黒崎町)・折尾(旧折尾町)地区では商業が発達した。特に黒崎は1970年代初頭より一大商業地となり、北九州市の副都心と位置づけられた。
北九州市発足当時[6]は新しい市役所の位置を、現在北九州市立総合体育館が建っている金比羅山付近に置くことにされていたが、現在の位置に置くこととなった。
スポーツチーム
- 新日本製鐵八幡硬式野球部(旧:八幡製鐵硬式野球部) - 八幡製鐵所を拠点に活動していた社会人野球の企業チーム。2003年に解散。
出身有名人
※北九州市発足以前に出生した出身者。
脚注
参考文献
- 北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代 行政社会』北九州市、1987年。
関連項目
- 福岡県の廃止市町村一覧
- テレビ西日本 - 1958年の開局から1974年の福岡市移転まで本社が存在した。福岡市移転以降もリモコンキーIDや番組名の由来を旧八幡市に本社があったことを理由に八幡の名前からハチ、8を採用している。
外部リンク
- 八幡東区中央町地区