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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式通過儀礼の一つである。

元服の風習は時代、地方、階級によって大きく異なる。堂上家以上は以下では冠の代わりに烏帽子を着用した。中世以降は混同されて烏帽子を用いても加冠といい、近世には烏帽子も省略されて月代を剃るだけで済ませた。

「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭にをつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。加冠の人を烏帽子親、元服する人を烏帽子子といった。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。

男性の元服

おおよそ数え年で12 - 16歳の男子が(諸説あり)式において、氏神の社前で大人の服に改め、総角角髪、みずら)と呼ばれる子供の髪型を改めて大人の髪(冠下の髻、かんむりしたのもとどり)を結い、冠親により冠をつける。元服以前は装束のは闕腋であるが、元服後は縫腋を着る。

武家の場合は烏帽子親(加冠)により烏帽子をつける(公家や平氏系の武家では厚化粧引眉お歯黒も付け、源氏系は付けない場合が多かった)。それまでの幼名を廃して元服名()を新たに付ける。その際に烏帽子親の偏諱を受けることが多くなった。

元服の儀において、烏帽子を被せる役を「加冠」または「烏帽子親」と呼んだ他、童髪から成人用の髪に結い直す役を「理髪」、髪上げ道具及び切り落とした髪を収納するための箱を取り扱う役を「打乱(うちみだり)」、櫛で髪を整えるために用いる湯水を入れる器である泔坏を扱う役を「泔坏(ゆするつき)」と称した[1]

平安時代は、元服の儀は宮中や名家においては結婚と密接な関わりがあり、元服と同時に官位が授けられ、選ばれた女性と初夜を供にし(「副臥」)、その女性がそのまま正室となる事も多かったと考えられている。

烏帽子は、平安以降、次第に庶民にも普及し、鎌倉から室町前半にかけては被り物がないのを恥とする習慣が生まれた。烏帽子をかぶらないのは僧侶と貧民、流浪人の類だけであったという。

元服の儀そのものはまた、室町時代以降は民間にも普及した。元服をする年齢は幅があり、一般的には数え年15 - 21歳ぐらいであり、宮中では数え年12 - 18歳ぐらいであったとされる。一方、政略結婚や、戦国時代など家政の都合などから、数え年6 - 7歳ぐらいから元服する例もあった。一族始祖の元服年齢に合わせた氏族もあった。事例として伊達政宗は11歳、織田信長が13歳、徳川家康が14歳で元服している。実年齢は地方によっても大きく異なり、都、商都村落共同体(農村、漁村など)によってまちまちであった。

戦国時代から武家を中心に姿が主流となり、江戸時代にかけて、公家を除き、武家や庶民の間では元服の時に烏帽子をつけず、前髪を剃って月代にすることだけで済ますようになった。

明治維新以降は、結いや公的な元服の制度は概ね廃れ、宮中、宗教、家制度、私的な領域の下、あるいはごく一部の地方でのみ見られるようになった。

女性の元服(裳着)

数え年で12 - 16歳ごろに成人となる儀式として女性も元服に相当する儀式があった。なお、結婚と同時にこの儀式も執り行う事も多かったと考えられる。

平安時代から戦国時代頃までは、概ね初潮を迎えた女性は裳着(もぎ)を着て成人の証とし、概ね結婚が許可される証となっていた。なお、初期には裳着が無く、(髪上げ)の儀式だけだったと言われる。

女子に裳を着せる役は「腰結」(こしゆい)と呼び、貴人、あるいは一族の長老などの男性が務めた。吉日の日取りにて、裳着の腰紐を結び、(髪上げ)をし、「鉄漿親」(かねおや)[2]が立ち会い、女子は初めてお歯黒を付け、眉を剃り、厚化粧をして殿上眉を描くことが許された(引眉)。

裳着以降は、小袖を、を着た(現代に見られる巫女装束に似る)。鉄漿親は一族の目上の女性(伯叔母など)や親しい年配の女性が執り行ったが、年代が下るにつれ結婚と同時の儀式となったため、仲人が鉄漿親を兼ねることも多かった。

江戸時代以降

江戸時代以降は、衣装の変化により着物を着る事が多くなり、振袖留袖にする袖留めの儀式も多くなった。また、制度的にも女子も元服と称されるようになり、武家と庶民において女性の成人儀礼となった。

実施年齢は階級により幅があり、武家の女子は13歳または初潮後に髪結いの儀式を行った。一方、その他の階級では18 - 20歳頃に引き上げられる事が多くなり、殆どが結婚と同時に執り行われた。あるいは未婚でも18 - 20歳くらいで行った。なお、庶民の間では、おませな幼い女子が引眉の真似事をする事も流行した。

女性で元服という場合は、地味な着物を着て、日本髪髪形丸髷両輪、又は先笄に替え、元服前より更に厚化粧になり、鉄漿親(かねおや)によりお歯黒を付けてもらい、引眉する。

お歯黒を付けるが引眉しない場合は半元服と呼ばれた。半元服の習慣は現在でも祇園舞妓嶋原太夫等、一部の花街に残る。

これに対して、(結婚後)初懐妊あるいは初産の後に、お歯黒と引眉をして執り行うものは本元服と呼ばれた。

現代に存続・再現されている元服儀式

  • 岐阜県旧徳山村住民が集団移転した本巣市文殊集落では、中学3年生を対象に毎年1月に元服式が行われる。
  • 滋賀県近江八幡市の祭り「左義長」では、17歳の男子を「元服若衆」と呼び、左義長に火をつける役目を命じられるが、火のついた藁苞を持った元服若衆が左義長に近づくのを他の若衆が邪魔をすることで至難を与え、左義長に火がつくまで続けられる[3]
  • 武蔵御嶽神社(東京都青梅市)では中学校を卒業する男女を対象に、武家の古式を再現した元服式を2017年3月に行い、2018年にも予定している[4]
  • 青森県栃木県石川県愛媛県宮崎県熊本県や、その他一部の地域にある中学校は中学2年または3年になると学校行事として「立志式」(りっししき)、「立春式」(りっしゅんしき)、「少年式」(しょうねんしき)、「元服式」(げんぷくしき)を行なっている。

その他

飛鳥時代大宝律令で21歳以上60歳以下を正丁としたが、これは元服の年齢に直接影響するものではない。

元服に相当する近代以降の概念は成人、成年であるが、近代法の整備に伴い明治9年布告、明治29年民法で成年は満20歳とされた。また、明治6年徴兵令により男子は満20歳で徴兵検査が行われるようになりこれも成人の区切りとされた面は大きい。

公的な制度としての成年がこのように整備され明治以降、現代まで続いている一方で、実質的な「成人」の概念、いわゆる大人の仲間入り、つまり子ども扱いされなくなる年齢は15 - 20歳と幅があり、これも都市や農村、漁村などによってまちまちであった。

なお、成年は令和4年施行の改正民法で満18歳以上となった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版、2014年) (ISBN 978-4-7842-1732-8) P96-97
  2. ^ 男子の烏帽子親に相当する。なお、「鉄漿」は「おはぐろ」とも読み、お歯黒の別名でもある。歯を染めるために使った鉄の溶液、またはそれを付ける行為を指す。
  3. ^ 近江八幡市 湖国に春を呼ぶ~火祭り行事左義長 - 一般財団法人地域創造「地域文化資産ポータル」
  4. ^ 御岳登山鉄道 武蔵御嶽神社の元服式、参加募る『毎日新聞』朝刊2018年2月11日(東京面)

参考文献

  • 『【新制版】日本史事典』(数研出版
  • 『旺文社日本史事典』(旺文社
  • 「現代民俗の形成と批判―「成人式」問題をめぐる一考察―」室井康成(2018), 専修人間科学論集社会学篇Vol.8 No.2

関連項目

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