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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部[1]

三河国

-三河国
-東海道
別称 三州・参州 (さんしゅう)
所属 東海道
相当領域 愛知県中・東部
諸元
(国力) 上国
(距離) 近国
8郡69郷
国内主要施設
三河国府 愛知県豊川市
三河国分寺 愛知県豊川市(三河国分寺跡
三河国分尼寺 愛知県豊川市(三河国分尼寺跡
一宮 砥鹿神社(愛知県豊川市)
(テンプレートを表示)

「三河」の名称と由来

古事記』には「三川」と表記され、7世紀の出土木簡にもみな「三川国」と記されている[2]。律令制-平城京までは「参河」と表記。長岡京以後は、「三河」と表記したことが、木簡から判明している。また、万葉集には三河は水河とも当て替えられている。

「三河」の国号の由来は不明である。山崎闇斎は、再遊紀行の中で、参河風土記逸文と称して、三大河説を唱える。さらに、江戸中期の三河国二葉松で、序文の著者である小笠原基長と太田白雪がこの三大河説を補強する。古事記伝や東海道名所図絵にも引用されていく。諸国名義考;斎藤彦麻呂にも引用されているが、三大河説に疑義を唱え、大川を称え御川という自説を載せている。尾張藩士の岡田啓による三河国号起源;参河国全図;天保8年や渡辺政香;参河志にも引用される。


他にも、江戸末期に豊橋の羽田野敬雄が、加茂の神の御川という説を唱えたが、支持されるに至っていない。矢作川は古代から矢作川と呼ばれており、御川と呼ばれていた事実はない。加茂は、加茂郡豊田市)のことで、矢作川の上流に当たり、加茂の神(加茂神社)に絡めたものである。

領域

明治維新直前の領域は、現在の愛知県の下記の区域に相当する。

沿革

古代

国造本紀」によると、成務天皇の御代に物部氏族の知波夜命が(参河国造)(三河、三川)に、雄略天皇の御代に菟上足尼が穂国造に定められたとされるが、「天孫本紀」では成務天皇に仕えた物部氏族の胆咋宿禰三川穂国造の美己止直の妹・伊佐姫を妻としている。また、『古事記』にも丹波道主命の子・朝廷別王が穂別君の祖と見え、宝飯郡には朝廷別王を祀る神社が二社存在する。

645年難波宮で行われた大化の改新後に穂国造と参河国造の支配領域を合わせて成立したと考えられている。参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。これに対し穂国に関しては7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評と記載された木簡が出土しており、「穂」が三河の一集落であると読み取れることから存在を否定する説もある。しかし、国造国が制に移行した例は阿蘇国造(阿蘇評)、(宇佐国造)(宇佐評)、(吉備下道国造)(吉備評)、風速国造(風早評)、小市国造(小市評)、久味国造(久米評)、都佐国造(都佐評)、(笠国造)(加佐評)、(賀陽国造)(加夜評)、針間鴨国造(加毛評)、凡河内国造(川内評)、葛城国造(葛城評)、洲羽国造(諏訪評)、馬来田国造(馬来田評)、阿波国造(阿波評)、印波国造(印波評)など数多く存在する。また穂国造は、偽書説のある『先代旧事本紀』にしか登場しないとする意見もあるが[注 1]、そもそも大半の国造は『旧事本紀』にしか名称が見られず、近年は『旧事本紀』の史料性を認める意見を数多くあり、また東三河地域に古墳時代前期から後期にかけての大型古墳が造営されたこと、国造奉斎社が存在することから、穂国造の実在を訴える説もある。なお穂国造の本拠は宝飯郡である[注 2]

西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある(鹿乗川流域遺跡群)(安城市桜井町地域)と推定されている[3]。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の(下懸遺跡)(小川町)・(上橋下遺跡)(古井町)・惣作遺跡(木戸町)など、いわゆる鹿乗川流域遺跡群にのみ出土しており、天平護田呉部足国(惣作遺跡)、算米物受被賜(下懸遺跡)など、天平という年号、呉部足国という古代豪族の人名、米の受取に関する文書、など、文字文明の早くからの普及が確認できるなど、何らかの古代の官衙があった可能性が高い。

西三河を南流する矢作川中流右岸に立地する北野廃寺跡は、飛鳥時代の創建と考えられる三河最古の寺院跡であり、南大門中門金堂講堂が一直線に並ぶいわゆる四天王寺式伽藍配置で造営された。陶塔・土器類のほか塼仏・磬形垂飾といった優品が出土しており、伽藍規模の面から見ても、三河国造のような当地方の有力な豪族による造営が想定される。

また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷[4](安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(二子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。

地方の行政区画である郡は、豪族の支配領域が踏襲されて碧海、賀茂、額田、幡豆(はず)、宝飫(ほい)、八名、渥美の七郡であった(律令の施行規則『延喜式』民部式)が、後に設楽郡が宝飫郡から分立して八郡となった。各地に盤踞する豪族の内でも古墳時代を通じてヤマト政権と強い関係を持った国造から優先的に郡司に任命された。

中世

承久の乱の戦功で足利義氏が守護職となり、三河に土着した足利氏の分家は吉良仁木細川今川一色といった西三河の地名を苗字とした。室町時代には仁木氏、一色氏、細川氏などが守護職に任命された。戦国時代になると松平氏戸田氏などの国人が台頭し、松平から徳川に改姓した徳川家康が三河を統一した。

三河国から信濃国へ移された根羽・月瀬の両村の変遷

  • 古代・中世の根羽・月瀬村の両村(現在の長野県下伊那郡根羽村)は三河国に属していた。
  • 平安時代の後半、(高橋新荘)により現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市西加茂郡北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域が成立した。
  • 鎌倉時代は、三河国加茂郡名倉郷に属し、鎌倉御家人の荘官足助氏の支配下に入ったと伝えられている。
  • 南北朝時代は、加茂郡(足助荘)に属したとされている。
  • 元亀2年(1571年)4月、武田信玄の西上作戦の一環として(足助松山城)が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり信濃国に編入された。

三河国から美濃国へ移された野原村の変遷

  • 室町時代まで、現在の豊田市の一色町、上切町、上中町、下中町、下切町、島崎町は、三河国加茂郡足助庄仁木郷であったが、この地域を支配する領主が、隣接する美濃国恵那郡の領主であった遠山氏へ娘を嫁がせる際に、これらの村を美濃国恵那郡に化粧料として割き与えたと伝えられている。
  • 江戸時代 - この地域は美濃国恵那郡であり、旗本明知遠山氏の領地であった。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

 
三河国府跡(豊川市白鳥町)
白鳥遺跡。曹源寺境内、手前の空閑地に正庁が位置した。

国府の遺構は豊川市白鳥町上郷中・下郷中で見つかっている(北緯34度50分10.68秒 東経137度20分2.88秒 / 北緯34.8363000度 東経137.3341333度 / 34.8363000; 137.3341333 (三河国府跡))。総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定され、1991年平成3年)から1997年(平成9年)にかけて総社周辺の発掘調査が行われた結果、建物跡が見つかっている。加えて「国厨」の墨書土器が出土したことから、政庁と確認された。1999年(平成11年)3月には、豊川市八幡町で長さ100メートル以上、幅員22メートルの小石を敷き詰めて舗装した大道が発見されており、国府と国分寺をつなぐ道路遺構とみられている。

国分寺・国分尼寺

 
三河国分寺(豊川市八幡町)
 
三河国分尼寺跡
(豊川市八幡町)

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、小社26座25社が記載されている(「三河国の式内社一覧」参照)。大社はない。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[5]

寺院

『愛知県史』等を参考に、中世の時点で確実に存在したと考えられる寺院のうち主なものを列挙する。

守護所

承久の乱後に三河国守護に任命された足利義氏が、矢作宿に守護所や額田郡公文所を設置したと推測されている[7][8][9]

安国寺・利生塔

安国寺、利生塔の所在地は以下の通り。

地域

国境

尾張国遠江国との境界線は、いずれも「境川」である。(現在名も同様。)詳しくは境川 (境川水系・愛知県)及び(境川 (静岡県・愛知県)) を参照。

東海道名所図会より、堺川(尾三両国堺) 三遠境川。

西三河・東三河

古くは、「三河」といえば西三河が指された[10]。『三河物語』においても、西三河を単に「三河(国)」と言い、牛窪・吉田(豊川豊橋)辺りを特段に指定する場合「東三河(国)」と呼称している[10]

幕末に編纂された『徳川実紀』において初めて、「西三河」という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる[11]

現在は旧旭町の一部(旧岐阜県恵那郡三濃村の一部)を除く豊田市岡崎市刈谷市知立市安城市碧南市高浜市西尾市みよし市幸田町が西三河に属する。 豊橋市豊川市蒲郡市新城市田原市設楽町豊根村東栄町が東三河に属している。

該当地域の面積は3,468.23km2、平成22年国勢調査人口は2,329,609人[1]

  • 碧海郡:智立・采女・刑部・依納・鷲取・谷部・ 大市・碧海・𣟧禮・呰見・河内・櫻井・大岡・薢野・小河・驛家の全16郷。
  • 加茂郡:賀茂・仙陁・伊保・擧母・高橋・山田・賀禰・信茂の全8郷。
  • 幡豆郡:能来・八田・意太・礒泊・大川・大殯・析島・修家の全8郷。
  • 額田郡:新城・鴨田・位賀・額田・麻津・六石・大野・驛家の全8郷。
  • 宝飯郡:形原・赤孫・美養・御津・宮道・望理・賀茂・度津・篠束・宮島・豐川・雀部・驛家の全13郷。
  • 設楽郡:宝飯郡より分離し設立。賀茂・多原・設楽・黒瀬の全4郷。
  • 八名郡:多木・美和・八名・養父・和太・服部・美夫の全7郷。
  • 渥美郡:幡太・和太・渥美・高蘆・礒部・大壁の全6郷。

江戸時代の藩

三河国には大藩はなく、旗本領、寺社領、幕府直轄領(天領)も多かった。

三河国の藩の一覧[12]
藩名 居城 藩主
三河吉田藩 吉田城
西尾藩 西尾城
岡崎藩 岡崎城
  • (康重系本多家):5万石→5万5000石、1602年 - 1645年(遠江横須賀藩5万石へ移封)
  • 水野家:5万石→6万石、1645年 - 1762年(肥前唐津藩6万石へ移封)
  • 松平康福:5万400石、1762年 - 1769年(石見浜田藩5万5千石へ移封)
  • (忠勝系本多家):5万石(10万石格)、1769年 - 1871年
刈谷藩 刈谷城
挙母藩 陣屋
桜城

陣屋
挙母城
  • 三宅家:1万石、1604年 - 1619年(伊勢亀山藩1万2千石へ移封)
  • 三宅家:1万2千石、1636年 - 1664年(三河田原藩1万2千石へ移封)
  • 天領:1664年 - 1681年
  • (忠勝系本多家):1万石、1681年 - 1749年(遠江相良藩1万石へ移封)
  • 内藤家:2万石、1749年 - 1871年
大給藩
奥殿藩
大給陣屋
奥殿陣屋
  • 大給松平家:1万6千石、1684年 - 1863年(藩庁を飛び地の信濃佐久郡に移す)
田原藩 田原城
西端藩 西端陣屋
  • (本多家):1万5百石、1848年 - 1871年
西大平藩 西大平陣屋
作手藩 亀山城
伊保藩 伊保陣屋
深溝藩 深溝城
三河中島藩 中島陣屋
  • 板倉重矩:1万石→2万石→4万石→5万石、1640年頃 - 1672年(下野烏山藩5万石に移封)
大浜藩 大浜陣屋
新城藩 新城城
足助藩 足助陣屋
  • 本多忠周:1万石、1683年 - 1689年(7,000石の旗本に)
形原藩 形原城
畑村藩
大垣藩支藩
畑村陣屋
  • 戸田家:1万石、1688年 - 1869年(美濃国大野郡野村に藩庁を移転)

人物

国司

守護

(出典は『新編岡崎市史 総集編』[13]

鎌倉幕府

室町幕府

戦国時代

戦国大名

豊臣政権の大名

三河国の合戦

現代の三河地方

三河地方のデータ
日本
地方 中部地方東海地方
面積 3,475.06km2
総人口 2,273,342
(2023年4月1日)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 他の史料で、東三河を穂国(穂の国)と呼称している事実はない。ただし『古事記』に「穂之別の祖・朝廷別王(みかどわけのみこ)」の記載があり、旧事本紀に登場する穂国造の美己止直(みことのあたい)に通じる。
  2. ^ 東三河=穂国造という概念は、江戸時代末期に『先代旧事本紀』「国造本紀」が一般に知られるまでは、東三河は穂国で、西三河とは別国也という主張は一切見られない。そのため、江戸中期の三河国二葉松の著者は、三河国=三大河説を唱えた。
  3. ^ 大島兵庫頭・左衛門佐入道を称した[13]

出典

  1. ^ 三河国百科事典マイペディア
  2. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19頁。
  3. ^ 平凡社マイペディア、(愛知県埋蔵文化財センター)、(安城市埋蔵文化財センター)
  4. ^ 石神遺跡木簡に記載あり
  5. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 124-131。
  6. ^ 1264年の史料に「一宮領内麻宇田村」、『三河物語』に「一ノ宮、市之宮」、元禄14年の三河国絵図に「一之宮村」、江戸後期の三河国図に「一之宮」、天保8年の三河国全図に「一宮」等の記載がある。
  7. ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, pp. 399–400.
  8. ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 13.
  9. ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 288.
  10. ^ a b 【三河の語源】『愛知県の地名』(日本歴史地名大系23 東京:平凡社, 1981)568頁にある村瀬正章、歌川学の説による。レオン・パジェス(1814-1886)の『日本切支丹宗門史』下巻(岩波文庫 東京:岩波書店, 1940)の1631年の項、註4でも「三河、「御油吉田」と列挙しているのを見ると、矢作川周辺を「三河」と言っていたと考えられる(以上、南山大学図書館カトリック文庫通信より)。
  11. ^ 三河国を東西に分割して、西三河、東三河と呼称したことがわかる確実な史料は、徳川実紀;嘉永2年(1849年)である。「是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。」
  12. ^ 参考文献の2、1178-1179頁・「近世大名配置表」による。
  13. ^ a b 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 570.
  14. ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 16.

参考文献

  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史』 第20巻《総集編》、新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。(NDLJP):9572171。 (要登録)
  • 今谷 明 『戦国大名と天皇』 講談社〈講談社学術文庫1471〉、2004年(第5版)、(ISBN 4-06-159471-0)。
  • 『愛知県史』、『岡崎市史』ほか各自治体史
  • 松島周一『鎌倉時代の足利氏と三河』同成社〈同成社中世史選書21〉、2016年
  • 地方史研究協議会編『三河―交流からみる地域形成とその変容―』雄山閣、2016年
  • 角川日本地名大辞典 23 愛知県
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連項目

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