レオポルド・フォルトゥナート・ガルチェリ・カステッリ(Leopoldo Fortunato Galtieri Castelli、1926年7月15日 - 2003年1月12日)は、アルゼンチンの軍人、大統領。
レオポルド・ガルチェリ Leopoldo Fortunato Galtieri Castelli | |
アルゼンチン 第45代 大統領 | |
任期 | 1981年12月22日 – 1982年6月18日 |
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出生 | 1926年7月15日 ブエノスアイレス州 |
死去 | 2003年1月12日(76歳没) ブエノスアイレス |
政党 | なし(軍事評議会) |
姓はガルティエリとも表記。
国内において軍事独裁政権(国家再編成プロセス)が推し進めた「汚い戦争」の当事者の一人で、1981年12月に大統領だったロベルト・エドゥアルド・ビオラ将軍をクーデターで失脚させ後任の大統領に就任する。翌年にイギリスに対してフォークランド紛争を仕掛けたものの、敗北したことで失脚し、軍事政権の崩壊を招いた。
プロフィール
軍人時代
イタリア系移民(イタリア系アルゼンチン人)の家に生まれ、17歳の時にアルゼンチン軍の士官学校に入学。その後パナマの米州学校で学んだ後、イサベル・ペロン政権崩壊後の政治的混乱の中で複数の軍事政権によるクーデターにかかわり、1980年にはアルゼンチン陸軍の司令官に就任。この様な中でガルチェリは、1970年代に軍事政権によって行われた「汚い戦争」と呼ばれることになるペロニスタ(ペロン主義者)の弾圧を実質的に指揮していくことになる。この弾圧の中で同国民約3万人が犠牲になったと言われている。
大統領就任
1981年12月にガルチェリは同国の大統領に就任するが、この様な状況から国民の目をそらせる目的もあって、1982年に入り、長年イギリスが実効支配していたアルゼンチン南部沖にあるマルビナス諸島(フォークランド諸島)に対する領有問題をクローズアップさせた。[要出典]これを受けアルゼンチン国内ではマルビナス諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では「政府がやらないなら義勇軍を組織してマルビナス諸島を奪還しよう」という動きにまで発展した。
マルビナス(フォークランド)戦争
同年4月にガルチェリは軍による攻撃を命令(フォークランド諸島侵攻)、まもなく同諸島の主都ポートスタンリーを占領し、緒戦ではアルゼンチン空軍機が多数のイギリス海軍艦艇を撃沈し、戦いを有利に進めたが、イギリス軍が長距離爆撃機による空爆や陸戦、同盟国であるアメリカ合衆国の援助を得ての情報戦を有利に進めると、一気に劣勢に陥った。アルゼンチンは紛争当時、反共の一環である「汚い戦争」により、アメリカと一種の共闘関係にあったとも言えるが、実質的に両国間には同盟関係は無く、ロナルド・レーガン政権は、同じく新保守主義政策を取るマーガレット・サッチャー政権との関係を優先した。また、ソビエト連邦を中心とする東側諸国からも、国内における左派弾圧の為に積極的支援を得られなかった。更に、アルゼンチン同様軍事独裁政権であるチリのピノチェト政権が領土問題による対立からイギリスに味方するなど、ガルチェリの読みは大きく外れ、国際的に孤立することになる。
6月14日にイギリス陸軍がポートスタンリーを包囲し、アルゼンチン軍は降伏、敗北した。
失脚
6月16日に外務大臣と内務大臣がガルチェリに抗議して辞表を提出し、翌17日に敗北の責任を問われ失脚し、大統領及び陸軍総司令官を辞任した。
1983年には、軍事法廷で「汚い戦争」とマルビナス戦争における敗北の責任を問われ、陸軍における地位を降格された上に1986年5月に収監された。その後1991年にカルロス・メネム大統領により恩赦を受けるまでの5年間を監獄で過ごした。2002年7月にも民事訴訟を起こされ有罪を宣告されたものの「健康状態の悪化」を理由に自宅軟禁処分となった。
関連項目
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