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リッチー・ブラックモア

リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 本名:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア。過去にミドルネームを"ハロルド(Harold)"と表記するメディアもあったが誤記)、1945年4月14日 - )は、イングランドギタリストアメリカ合衆国在住。身長179cm。

リッチー・ブラックモア
Ritchie Blackmore
レインボー - 英ロンドン公演(2017年)
基本情報
出生名 Richard Hugh Blackmore
生誕 (1945-04-14) 1945年4月14日(78歳)
出身地 イングランド
サマセット州ウェストン=スーパー=メア
ジャンル ハードロック[1]
ヘヴィメタル[2]
職業 ミュージシャンギタリスト作曲家
担当楽器 ギター
活動期間 1961年 - 現在
レーベル ポリドール・レコード
BMG
共同作業者 ディープ・パープル
レインボー
ブラックモアズ・ナイト
公式サイト blackmoresnight.com
著名使用楽器
フェンダー・ストラトキャスター
J.S.バッハ
ジミ・ヘンドリックス
ダス・ガイヤー・シュワッサー・ハウフェン

1970年代から80年代にかけて人気と支持を得たギターヒーローの一人。ハードロックバンドディープ・パープル」の創設メンバーとして名を馳せ、自ら率いる「レインボー」や「ブラックモアズ・ナイト」では主宰を務める。

ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第55位、2011年の改訂版では第50位。2016年、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入り。

概要

1970年代ブルースロック全盛期にありながらロック・ギターにクラシック音楽フレーズを導入。ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」、「スピード・キング」など多くの演奏を録音。

また、ストラトキャスターの多用、ステージの最後でのギター破壊など、彼のステージパフォーマンスは、ハードロック、ヘヴィメタルにおけるギターヒーロー像として現在にも受け継がれている。

少年時代

イングランド西部の保養地、サマセットウェストン=スーパー=メアで生まれ、ロンドン近郊ミドルセックス州ヘストンで育つ。

11歳の誕生日に、当時の価格で7ポンドスパニッシュ・ギターを父親からプレゼントされ、その後、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)[3]

14歳の時、初めてエレクトリックギターカール・ヘフナー (Höfner)・クラブ=50 を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。こうしてエレクトリックギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンに師事し[3]、ギターの腕前を向上させていった。

下積み時代(1961年 - 1966年)

1961年、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れる。その後、学校を卒業したブラックモアはロンドンヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。またこの頃から、スキッフル・バンドのザ・ドミネイションズザ・サフォナイツザ・デトネイターズマイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズといったローカル・バンドでセッションを行っていた[3]

1961年以降、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、(スター・クラブ)(英語版)スクリーミング・ロード・サッチと出会い、セッションを行った。さらに後日、ブラックモアを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドであるロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり[3]、このバンドに在籍した2年間、ロード・サッチは、実力はあっても地味な印象しかなかったブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要請した[4]。ロード・サッチとのセッションと平行して、「(テルスター)(英語版)」 のヒットで知られるトルネイドースのレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。

1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、トム・ジョーンズや上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーの(ジョー・ミーク) (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トーネイドーズのベーシストでもあった歌手ハインツ・バート (Heinz) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ジョー・ミークの関連でジ・アウトローズ(The Outlaws) に加入した。アウトローズはメインとしてレコードを出す傍ら、上記のハインツやジーン・ヴィンセント伴奏も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドであるハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズにリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。ジェフ・ベックジミー・ペイジと短期間セッションを行ったのもこの頃である。

1966年、二人の友人とハンブルクに再々渡航し、スリー・マスケティアーズを結成するが、すぐに解散、さらにマンドレイク・ルートというバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイスと知り合ってもいる。

ディープ・パープル時代(1967年 - 1975年、1984年 - 1993年)

 
ディープ・パープル時代 (1971年)


1967年、当時サーチャーズドラムヴォーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがブラックモアと(フラワー・ポットメン) (The Flower Pot Men) のバック演奏を務めていたキーボード・プレイヤーのジョン・ロードである。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、ニック・シンパー(ベーシスト)、ボビー・クラーク(ドラマー)を加えて「ラウンドアバウト」というバンド名で結成した。

しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ヴォーカルにロッド・エヴァンスが加入、さらに、その時ロッドと一緒に付いて来たイアン・ペイスがボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「ディープ・パープル」に改め、アメリカの新興レコード会社、(テトラグラマトン・レコード) (Tetragrammaton Records) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「ディープ・パープル」を参照)。第一期の代表曲には「ハッシュ」、ハードロック・バンドとなった第二期以降の代表曲には「ハイウェイ・スター」「紫の炎」などがある。

ブラックモア自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。1975年6月に脱退し、ソロ活動から発展したバンドを結成する(後述)。

実は第二期後半頃に、ブラックモアはイアン・ペイスを引き連れディープ・パープルを脱退し、当時シン・リジイを率いていたフィル・ライノットを誘い、ベイビー・フェイスなるニュー・バンドの結成を画策していたことがあったという。しかし、ギラン、グローヴァーの脱退と、何より誘いを受けたライノットが断ったことが重なったため、ニューバンド結成計画は流れてしまった。

1984年、ディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的相違などから1993年に再度脱退。契約レーベル側には、ソロ形態のアルバムを出す条件で脱退を認めさせ、結果リッチー・ブラックモアズ・レインボーの再始動に向かった(後述)。

レインボー時代(1975年 - 1984年、1995年 - 1997年)

 
レインボー時代(1977年)

1975年、ソロ作品の制作過程でボーカリストのロニー・ジェイムス・ディオらを起用し、ディオが在籍するバンド「エルフ」を吸収する形でロックバンド「レインボー」(当初はRitchie Blackmore's Rainbow)が発足。合意形成型のディープ・パープルと違い、あくまでブラックモアのソロ形態を延長したワンマン・バンドであった。

当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ブルースロックと中世的な音楽の両方を取り入れたハードロックを目指していた。2ndアルバム『虹を翔る覇者』でボーカル以外のメンバーを入れ替える。ドラマー コージー・パウエルらが新加入し、黄金時代を迎える。その後もアルバム毎にメンバー交代が行われ(以降のバンド自体の概要/活動歴は「レインボー」を参照)、次第にアメリカ市場を意識したポップセンスのある曲調が多くなっていった。

1984年、ブラックモアがディープ・パープルの再結成に合流するため活動を休止。

ディープ・パープル再度脱退後の1995年、リッチー・ブラックモアズ・レインボー名義でバンドを再興する。アルバム『孤高のストレンジャー』をリリースし、メンバーも新規に編成した(旧メンバーは、ツアー・メンバーとして参加したドラマーのチャック・バーギのみ)。1997年に再び活動を停止。

その後、全盛期時代のメンバー ロニー・ジェイムス・ディオ、コージー・パウエルを含んだ再結成の話が持ち上がったが実現に至らず、ディオやパウエルの死去によりクラシックメンバーの編成は幻に終わった。

ブラックモアズ・ナイト期(1997年 - 現在)

 
ブラックモアズ・ナイト - N.Y.公演(2012年)

1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成(その後結婚。リッチーにとっては4度目の結婚となる。#結婚歴参照)。 イギリス中世の音楽を現代風にアレンジした音楽である。 

リリースしたアルバムのいくつかがロシア、ドイツ、チェコでゴールドディスクを獲得している。アメリカ・イギリスでは殆どヒットしていないがニューエイジ賞やニューエイジ部門ベストヴォーカリスト賞などを獲得している。日本ではファーストアルバムが10万枚近く売れたが、その後のアルバム販売枚数はリリース毎で減少傾向にある[5]。2020年時点で、ライブ盤を含めたアルバムリリースは二桁に達している。

2010年代以降(2010年 - 現在)

2015年7月、音楽媒体のインタビューで「来年の6月に、Rock(HR/HM)の欧州公演を企画している。それはレインボーディープ・パープルになる」と明かした。70歳になり、まだ体が動ける間の考慮と、ノスタルジアな気持ちになったのが大きな理由だと述べている[6]。本人の公式Facebookページでは、ツアーのポスター画像が公開され、ここではリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)名義で表記された[7]。その後、ツアーメンバーが発表され[8]、ドイツで2公演(モンスターズ・オブ・ロック)、イングランドで1公演が決定した[9]

2016年2月、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入りが決定。しかしパープルサイドが共演を拒否した事により、授賞式には出席せず「実際、殿堂入りには全く興味ない」と語っていた事がある[10]

同年6月、レインボー名義で、当初の予定通り全3回の公演を実施[11]。リッチーは「反応次第では、まだ継続する可能性がある」と含みを残した[12]。そして翌2017年からも継続し、年数回の公演を開催している[13]

音楽性

それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールや(ハーモニック・マイナー)を取り入れ、クラシック曲も大胆に取り入れる等、音楽表現の拡大に寄与したとされている。実際、ディープ・パープルやレインボーなどのハードロック時代においても、ライヴでバッハのガヴォットやイングランド民謡であるグリーンスリーヴスをアドリブで演奏するなどしていた。作曲家としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の多くを中心となって作ったとされている。

プロとしてプレイし始めた頃からDeep Purple第一期にかけては、ビッグ・ジム・サリヴァンの影響が色濃く残っていたが、ブルース・ブレイカーズ~クリームでのエリック・クラプトンに影響を受け、ブルースロック的なテクニック、ベンディングや大きなヴィブラートを自らのプレイに取り入れている(ハンドヴィブラートはリッチー本人がクラプトンから直接習ったが、習得するのに数年かかったと語っている)。こうしてイン・ロック以降のスタイルを確立した。

ジミ・ヘンドリックスからの影響

 
(2012年)

ブラックモアは、ジミ・ヘンドリックスの影響を強く受けていることを公言しており、自身のバンドであるブラックモアズ・ナイトでヘンドリックスを偲ぶ楽曲も発表している。

ブラックモアが在籍していたディープ・パープルは、デビュー・アルバムでヘンドリックスの演奏(カバー)で有名な「(Hey Joe)」をカバーしている。 また、ディープ・パープルの「スピード・キング」は、ヘンドリックスの「Fire」がヒントになったという(バンドメンバーのロジャー・グローヴァーの談話、後にブラックモア本人もコメントしている)。

ブラックモアは1969年製ブラックストラトキャスターを入手して1972年中期までトレードマークとし、他にテレキャスターネックを装着したホワイト・ストラトキャスターや、時折ステージで左利き用ストラトキャスターを使用するなど、ヘンドリックスへの強い傾倒振りを示していた[14]。ギター破壊などのパフォーマンスもヘンドリックスからの影響だと見る論評も多い[15]

1968年にクリームの解散コンサートの前座を務めた際に、コンサートを見にきたヘンドリックスからパーティに招待されている(ブラックモア本人が直接ヘンドリックスと会ったり話をしたかは不明)。ディープ・パープルの初代ベーシストだったニック・シンパーは、ヘンドリックスに会った際「TVで見たけど君のバンドにいる黒装束のギタリスト(ブラックモア)は凄いな」と言われたという。

ブラックモアが率いていたレインボーのアルバム『STRAIGHT BETWEEN THE EYES(邦題=闇からの一撃)』(1982年)のタイトルは、ジェフ・ベックがブラックモアに語った「ジミの演奏は視覚へストレートに飛び込んでくる」という言葉が元になっている。

使用機材

 
愛用のフェンダー・ストラトキャスター(1985年)

ハード・ロック演奏時に於ける使用楽器はラージヘッド仕様のフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する[16]ピックアップのワイアリングを換えるなどの改造[17]が施されていた。

ディープ・パープル初期は、ハンブルグ下積み時代から愛用していた1961年製ギブソン・ES-335をメインに1968年製ギブソン・SG(使用遍歴は不明)、年式不明だがビグスビーB5トレモロ・ユニットを装着したフェンダー・テレキャスター、ローディを通じてエリック・クラプトンから譲り受けたテレキャスターのネックが移植されたサンバースト・フィニッシュのストラトキャスターを使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、全面的にストラトキャスター[18]を使用している。ディープ・パープル再結成以降から近年ではアームはほとんど使用していない。95年のYOUNG GUITAR誌でのインタビューによれば「あの頃(活動初期)はアームを使うプレーヤーがあまり居なかったが、現在は多く用いられるようになったので止めた」と発言している。
エフェクターは1970年頃、イギリス製ホーンビー・スキューズ(Hornby Skewes) のトレブル・ブースター[19]を入手、第2期終盤まで使用。他にダラス・アービターのファズフェイスを1969年から1971年頃まで使用していた[20]。1973年頃からアイワオープンリール・テープデッキTP-1011[21]を、改造しエコーマシンとして、1977年からモーグのベースペダル・タウラス・ペダル・シンセサイザー(TAURUS Ⅰ)[22]を使用している。アンプはマーシャルの200Wアンプ[23]を好んで使用していたが、再結成レインボー以降ではENGL社のハイゲインアンプが気に入り、現在までシグネイチュア・モデル・アンプヘッドからコンボ・アンプといった具合に多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」[24]と呼ばれる物を長年愛用している。

ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏している。

結婚歴

1960年代前半、ドイツのハンブルクでマーギットという女性と最初に結婚している。このマーギットとの間に1964年に生まれたのが、一時期(アイアン・エンジェル) (Iron Angel) のギタリストであった(ユルゲン・リヒャルト・ブラックモア)。ユルゲンは現在、元レインボーのジョー・リン・ターナーなどと結成した新バンド「オーヴァー・ザ・レインボー」(Over the Rainbow)で活動している[25]

2度目の結婚は1969年9月で、同じくドイツ人女性のバブス・ハーディー (本名はバーベル)[26]

3度目の結婚は1981年5月で、エイミー・ロスマンという女性と結婚した[27]

 
妻キャンディス・ナイト(2009年)

ブラックモアズ・ナイトで活動をともにしているキャンディス・ナイトとは1989年から付き合い始め、1991年から同棲していたが、1994年に婚約し[28]、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した[29]。この26歳も年下の相手との間に、2010年生まれた娘がオータム・エスメラルダ・ブラックモア。さらに2歳下の息子ローリー・ブラックモアも授かった。

ディスコグラフィ

ソロ作品

コンピレーション(1960年代のセッション編集盤)

  • Ritchie Blackmore – Rock Profile Vol. 1 (1989年)
  • Ritchie Blackmore – Rock Profile Vol. 2 (1991年)
  • Ritchie Blackmore – Take It! Sessions 63/68 (1994年)
  • Ritchie Blackmore – Anthology Vol.1 (1998年)
  • Ritchie Blackmore – Anthology Vol.2 (1998年)
  • Ritchie Blackmore – Getaway – Groups & Sessions (2005年)

ディープ・パープル

スタジオアルバム

ライブアルバム

  • ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』 - Concerto for Group and Orchestra (1969年)
  • ライヴ・イン・ジャパン』 - Made in Japan (1972年)
  • 『イン・コンサート』 - Deep Purple in Concert (1980年)
  • 『カリフォルニア・ジャム 1974』 - California Jam 1974 (1974年)
  • 『ブラック・ナイト= 24カラット』 - 24 Carat Purple (1975年)
  • 『ライヴ・イン・ロンドン』 - Live in London (1982年)
  • メイド・イン・ヨーロッパ』 - Made in Europe (1976年)
  • 『紫の神技〜ライブ・イン・カリフォルニア・ロング・ビーチ・アリーナ1976』 - King Biscuit Flower Hour Presents: Deep Purple in Concert (1995年)
  • 『パワー・ハウス』 - Powerhouse (1977年)
  • 『ネブワース'85』 - In the Absence of Pink: Knebwoth '85 (1991年)
  • ノーバディーズ・パーフェクト』 - Nobody's Perfect (1988年)
  • 『ライヴ・紫の閃光』 - Come Hell or High Water (1994年)

コンピレーション

  • 『パープル・ロール』 - When We Rock, We Rock, and When We Roll, We Roll (1978年)
  • 『ディーペスト・パープル』 - Deepest Purple: The Very Best of Deep Purple (1980年)

レインボー

ブラックモアズ・ナイト

参考文献

  • 三木千寿 (1977年). リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞. シンコー・ミュージック 
  • リッチー・ブラックモア研究会, ed (1993年). 『リッチー・ブラックモア ディープ・パープル編 / レインボー編』. シンコー・ミュージック 
  • 天才ギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』. シンコー・ミュージック. (1998年) 
  • シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ . シンコー・ミュージック. (2008年) 

脚注

  1. ^ リッチー・ブラックモア 2022年11月29日閲覧
  2. ^ ディープ・パープル 2022年11月29日閲覧
  3. ^ a b c d 三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』より。
  4. ^ 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』によれば、この経験は、その後のショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成に大きく貢献している。
  5. ^ 酒井康 (2003-06-04), Ghost of a Roseの日本語版ライナーノーツ, ヤマハミュージック, p. 5 
  6. ^ リッチー・ブラックモア、ついにレインボー&ディープ・パープル公演、ジョー・リン・ターナー「リッチー・ブラックモアと何かやる」 - Barks
  7. ^ Ritchie Blackmore Official facebook
  8. ^ リッチー・ブラックモアのハードロック回帰は限定的、新生レインボーでワールドツアーやアルバムはないと発言 - amass
  9. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、いよいよ再復活 - BARKS
  10. ^ リッチー・ブラックモア、ロックの殿堂入り欠席を正式に表明 - Barks
  11. ^ 夢にまで見た、これが新生レインボー - BARKS
  12. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、「Burn」をプレイ - BARKS
  13. ^ “リッチー・ブラックモアズ・レインボー、上昇し続けるパフォーマンス”. BARKS (2019年6月18日). 2020年6月10日閲覧。
  14. ^ 人気が下降気味だったストラトキャスターの人気を復活させたのはヘンドリックスの功績だと広く語られている。
  15. ^ ただしブラックモアは、ギターをステージやPAスピーカーの角に擦りつけ振り回す、投げ上げる、踏みつける等のアクションのあと、ネックから破壊するスタイルだった
  16. ^ 初期は鉄製の太い物へ、中期以降はステンレスへ交換。
  17. ^ 1975年頃、レインボー時代の電飾『虹』に起因するノイズ対策の為、ジョン・ドーク・スティルウェルがPUコイルのリワイア、ワックス含浸とピックガード裏全体に銅版シールドの改造を行った。Dawk Sound Limited
  18. ^ 年式は特に拘っていないが、70年代前半は特に1969年製の貼りメイプル/BLK 「初来日前に行われた全米ツアー中に誤って破壊してしまった」、1971年製のワンピース・メイプル/SB「後にヘッドストックの下が割れてしまった状態で使用し続けたのは有名」、1972年製のナチュラル/メイプル機を愛用し、70年代中期以降は1974年製のホワイト/ローズ、1976年製のホワイト/ローズを中心に愛用。
  19. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ、 P116~P117 参照 (ISBN 978-4-401-63258-9)
  20. ^ アルバム『DEEP PURPLE IN ROCK』、『FIREBALL』でそのサウンドが聴ける。
  21. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ、P100, P118~122から引用 (ISBN 978-4-401-63258-9)
  22. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ、P101、P116参照 (ISBN 978-4-401-63258-9)
  23. ^ アンプヘッド MARSHALL MAJOR - MODEL 1967 改良版を1968年に入手、1993年の再脱退まで使用。
  24. ^ 本人は野球が嫌いなので「五角形」と呼んでいる。
  25. ^ “BIO”. Official Site of J.R.Blackmore. 2010年7月15日閲覧。
  26. ^ “Events 1969”. Sixties City. 2010年5月24日閲覧。
  27. ^ “DPAS Magazine Archive. Darker Than Blue, 1981”. 2010年5月24日閲覧。
  28. ^ “Between Us”. Candice Night Official Website (2006年7月). 2010年5月24日閲覧。
  29. ^ . Blabbermouth.net. (2008年10月13日). オリジナルの2011年6月6日時点におけるアーカイブ。. 2010年5月24日閲覧。 

外部リンク

  • BlackmoresNight.com
  • Deep Purple Appreciation Society
  • Ritchie Blackmore Official - YouTubeチャンネル
  • The Highway Star
  • Rainbow Fanclan Legacy
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