ラッセルのパラドックス(英: Russell's paradox)とは、素朴集合論において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると矛盾が導かれるというパラドックス。バートランド・ラッセルからゴットロープ・フレーゲへの1902年6月16日付けの書簡においてフレーゲの『(算術の基本法則)』における矛盾を指摘する記述に現れ[1]、1903年出版のフレーゲの『算術の基本法則』第II巻(独: Grundgesetze der Arithmetik II)の後書きに収録された[2]。なお、ラッセルに先立ってツェルメロも同じパラドックスを発見しており、ヒルベルトやフッサールなどゲッティンゲン大学の同僚に伝えた記録が残っている[3][4]。
概要
自分自身を要素として持たない集合全体からなる集合を とする。いま と仮定すると、 の定義より となるから矛盾。一方、 と仮定すると、再び の定義より となるから、やはり矛盾する。
集合論が形式化されていないことが矛盾の原因なのではなく、このパラドックスは、古典述語論理上の理論として形式化された無制限の(内包公理)を持つ素朴集合論や、直観主義論理上の素朴集合論においても生じる。したがって論理を古典論理から直観主義論理に変更してもラッセルのパラドックスは回避できない。パラドックスの回避については、様々な方法が提案されている。詳細は矛盾の解消を参照。
矛盾の解消
公理的集合論によって何をもって集合とするかについての形式的な整備が進められ、素朴(だが超越的)な の構成を許容しない体系が構築された。
公理的集合論ではまず集合論を形式化する。次にいかなる形の集合が存在するかを公理によって規定する。 例えば素朴集合論では、上のような集合の存在を保証するために次の内包公理を置いた:
- 任意の性質 に対して、 を満たす元 の集合 が存在する
しかしながら、内包公理からは、上述のとおり、
が構成でき、パラドックスが発生する。 したがって、集合論の公理は通常の数学を集合論の上で展開するために十分なだけの集合の存在を保証しつつ、パラドックスを発生させる集合は構成できないように慎重に設定する必要がある。
- 1.公理的集合論による解消[6]
- 具体的には内包公理を次の分出公理に弱める(ツェルメロによる版)。
- 任意の性質 と集合 に対して、 を満たす の元 の集合 が存在する
- この場合、
- は、 の要素でないため、それ自身を要素としなくても矛盾は発生しない。
- また のような集合は構成できないのでやはり矛盾は発生しない。
- (なお現在のZFC集合論では、フレンケルが設定した置換公理から分出公理が導けるため、分出公理自体は公理としていない。)
- なお、ラッセルのパラドックスでは論理式 に内包性公理を適用することによってパラドキシカルな集合を構成している。これは論理式 の否定である。ZFC集合論では のように循環的な帰属関係を持つ集合の存在は正則性公理によって否定される。もっとも正則性公理がラッセルのパラドックスを排除しているわけではない。何故なら公理を追加しても証明できる論理式は減らないからである。さらに(反基礎公理)と呼ばれる循環的な集合の存在を積極的に保証する公理を置く集合論の体系も存在しており、この体系の無矛盾性はZFC集合論の無矛盾性から相対的に導かれる。ただしある種の循環性を制限することによって無矛盾性を確保しようという試みは存在しており、例えば後述する単純型理論はその典型的な例である。
- 2.単純型理論による解消[7]
- 項に型と呼ばれる自然数 0, 1, 2,… を割り当て、述語記号 ∈ を (n階の項)∈(n+1階の項) の形でのみ許容する(すなわち論理式の文法を制限する)ことで矛盾を回避する。単純型理論は階型毎に無制限の内包公理を持つが、無矛盾である。
- 3.部分構造論理による解消[8]
- 古典論理を(グリシン論理やBCK論理などの)縮約規則を取り除いた部分構造論理に置き換え、無制限な内包公理を認める代わりに外延性公理を排除した素朴集合論が矛盾無く展開できることが知られている[9]。外延性公理が排除されるのは、外延性公理から縮約規則が導かれ、したがって矛盾するからである。例えばBCKβでは次のようにして外延性公理から矛盾が導かれる。次の集合 を考える。
- ここで は空集合であり、
- で定義される。集合 の定義には自己参照が含まれるが、不動点コンビネータによってこれは可能である。この集合論において外延性公理が成立すると仮定する。すると次のようにして矛盾が導かれる。等号 の形の仮定に対しては縮約規則が使用できることに注意。まず を仮定する。集合 を何でもいいのでひとつ取る。すると仮定および の定義より が成り立つ。再び仮定を使用すれば が成り立つ。したがって空集合の定義より が導かれる。これは不合理であるから である。いま を一度だけ仮定する。すると仮定および の定義より が成り立つ。ところが であったはずだから矛盾 が導かれる。ゆえに空集合の定義より が成り立つ。逆に を一度だけ仮定する。すると仮定および空集合の定義より矛盾 が導かれる。ゆえに爆発原理より が成り立つ。したがって と空集合は外延的に等価である。外延性公理より が成り立つ。これは と矛盾する。
- (ウカシェヴィッチの3値論理)上の素朴集合論では、 の真理値を不定値と解釈すればラッセルのパラドックスは生じない。ところが(莫少揆のパラドックス)と呼ばれる別のパラドックスが生じる[10]。パラドックスを回避するには無限ウカシェヴィッチ論理を用いる必要がある[11]。
歴史
起源
通説では、1902年6月16日付のラッセルからフレーゲへの書簡がこのパラドックスの起源とされている。しかし、1899年から1900年にかけてエルンスト・ツェルメロが独立に同じパラドックスを発見し、ダフィット・ヒルベルトやエドムント・フッサールに伝えていた。そのため、「ツェルメロ=ラッセルのパラドックス」と呼ぶべきという意見もある[3][4]。
年表
- 1872年-1878年:デーデキントが『(数とは何かそして何であるべきか)』のスケッチを作成して閲覧させる[12]。
- 1879年:フレーゲ『概念記法』出版。数理論理学の始まり。
- 1884年:フレーゲ『算術の基礎』出版。自然数論の始まり。
- 1888年:デーデキント『数とは何かそして何であるべきか』出版[13]。
- 1893年:フレーゲ『算術の基本法則』出版。
- 1902年6月16日:ラッセルからフレーゲ宛てにパラドックスを知らせる書簡が投函[1]。
- 1902年6月22日:フレーゲからラッセル宛てに返信が投函。
- 1903年:フレーゲ『算術の基本法則』第II巻出版。後書きでラッセルのパラドックスを公開[2]。
- 1903年:ラッセル『数学の原理』出版。型理論の始まり。
- 1903年11月7日:ヒルベルトからフレーゲ宛に返信が投函。ラッセルのパラドックスが3~4年前にツェルメロによって発見されていたことを記載[3]。
- 1908年:ツェルメロ「集合論の基礎に関する研究」発表[14][15]。公理的集合論の始まり。
脚注
- ^ a b (フレーゲ 2002, pp. 118f)
- ^ a b (フレーゲ 2000, pp. 403f)
- ^ a b c (フレーゲ 2002, pp. 90f)
- ^ a b (Rang & Thomas 1981)
- ^ (Russell 1903, Appendix B: The Doctrine of Types)
- ^ ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策
- ^ ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策
- (2) Restriction of syntax [3]
- ^ ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策
- (3) Restriction of logic [4]
- ^ ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策
- ^ ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策
- ^ ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策
- ^ (デデキント 2013, p. 46)
- ^ (デデキント 2013)
- ^ (Zermelo 1908)
- ^ (ツェルメロ 2013)
参考文献
- 高木貞治「数理が躓く(?)」『近世数学史談・数学雑談』(合本・復刻版)共立出版、1996年12月、188-233頁。ISBN (4-320-01551-7)。
- 竹内外史『新装版 集合とはなにか はじめて学ぶ人のために』講談社〈ブルーバックス B-1332〉、2001年5月。ISBN (978-4-06-257332-0)。
- デデキント『数とは何かそして何であるべきか』(渕野昌) 訳・解説、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年7月。ISBN (978-4-480-09547-3)。
- フレーゲ 著、野本和幸 編『フレーゲ著作集3 算術の基本法則』勁草書房、2000年9月。ISBN (4-326-14822-5)。
- フレーゲ 著、野本和幸 編『フレーゲ著作集6 書簡集 付「日記」』勁草書房、2002年5月。ISBN (4-326-14825-X)。
- 三浦俊彦『ラッセルのパラドクス ――世界を読み換える哲学――』岩波書店〈岩波新書 新赤版975〉、2005年10月。ISBN (4-00-430975-1)。
- Rang, B.; Thomas, W. (1981), “Zermelo's discovery of the 'Russell Paradox'”, Historia Mathematica 8 (1): 15–22, doi:10.1016/0315-0860(81)90002-1
- Russell, Bertrand (1903), The Principles of Mathematics, Cambridge: Cambridge University Press
- Zermelo, Ernst (1908), “Untersuchungen über die Grundlagen der Mengenlehre. I”, Mathematische Annalen (Teubner) 65: 261-281
- エルンスト・ツェルメロ『集合論の基礎に関する研究 I』渕野昌 訳、2013年7月。 - (デデキント 2013, pp. 139–179)に収録。
関連項目
- エピメニデスのパラドックス
- エルンスト・ツェルメロ
- 型理論
- カリーのパラドックス
- グロタンディーク宇宙
- 公理的集合論 - 集合論
- 市長のパラドックス
- ダフィット・ヒルベルト
- 床屋のパラドックス - ラッセルのパラドックスを分かり易くした例。
- バートランド・ラッセル
- パラドックス
- 矛盾許容論理
- モーダストレンス
外部リンク
- 世界大百科事典『(ラッセルのパラドックス)』 - コトバンク
- Russell's Paradox (英語) - インターネット哲学百科事典「ラッセルのパラドックス」の項目。
- Russell's Paradox (英語) - スタンフォード哲学百科事典「ラッセルのパラドックス」の項目。
- Weisstein, Eric W. "Russell's Antinomy". MathWorld (英語).