生涯
初代(モイミール1世)の死後、846年に王位についた。モイミール1世がカトリックを受容する姿勢を見せたのに対して、ラスチスラフは東フランク王国との対抗上、ブルガリア、ビザンツ帝国などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのがキュリロス・メトディオスの兄弟であり、王国内における正教の浸透を図った。この際に布教の必要性からグラゴル文字が作成された。
東フランク王国と結んだ甥の(スヴァトプルク)によって失脚に追い込まれた。
正教会において聖人[1](1994年、チェコ・スロバキア正教会により列聖[2])。
脚注
参考文献
- 南塚信吾編 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 山川出版社、1999年