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ヤルノ・トゥルーリ

ヤルノ・トゥルーリJarno Trulli, 1974年7月13日 - )は、イタリア人レーシングドライバー

ヤルノ・トゥルーリ
国際スポーツナイト「ダボス2014」より
基本情報
国籍 イタリア
出身地 同・ペスカーラ
生年月日 (1974-07-13) 1974年7月13日(48歳)
F1での経歴
活動時期 1997-2011
過去の所属チーム '97 ミナルディ
'97-'99 プロスト
'00-'01 ジョーダン
'02-'04 ルノー
'04-'09 トヨタ
'10-'11 ロータス
出走回数 256 (252スタート)
タイトル 0
優勝回数 1
表彰台(3位以内)回数 11
通算獲得ポイント 246.5
ポールポジション 4
ファステストラップ 1
初戦 1997年オーストラリアGP
初勝利 2004年モナコGP
最終勝利 2004年モナコGP
最終戦 2011年ブラジルGP
(テンプレートを表示)

姓の Trulli は、イタリア語ではトゥルッリと読まれ、名は正式なイタリア語の発音では「ヤルノ」ではなく「イァールノ」が近い(イタリア語には「ヤ」行の発音が存在せず、JはIと同じ発音となるため)。

フジテレビF1中継でのニックネームは「二代目カミカゼアタック」「情熱ファンタジスタ」、トヨタF1在籍時は「情熱のトヨタリアン」。

2023年より全日本スーパーフォーミュラ・ライツ選手権に参戦している(エンツォ・トゥルーリ)(英語版)は息子[1]

初期の経歴

両親がモータースポーツ・ファンであり、オートバイWGPのスター選手でトゥルーリが生まれる前年に亡くなったヤーノ(ヤルノ)・サーリネンにちなんで命名した。このフィンランド風の名前は彼がグランプリデビューした当時、イタリア人らしくないとしてある種の混乱を引き起こした。彼の父親の熱中は他の多くの成功したレーサー同様に、彼を幼年時からカートレースへ参加させた。イタリアおよびヨーロッパカート・チャンピオンのほか、1991年には世界カート選手権を制するなど、カート界で急速に頭角を現す。

1996年にドイツF3選手権チャンピオンとなった。また1996年のF3マカオグランプリでは、首位のラルフ・ファーマンがクラッシュしたため2位を走っていたトゥルーリが首位で(チェッカーフラッグ)を受けた。トゥルーリの優勝かと思われたが、(赤旗)ルールが適用され、クラッシュしたファーマンが優勝者となった。

F1での経歴

1997年 - 1999年 ミナルディ〜プロスト

1997年、ミナルディからF1デビューを果たした。この時のチームメートである片山右京とは、以後も深い親交が続いている(デビュー当時、好タイムを出すと「ウキョウが教えてくれた通りに走った」とコメントするのが常であった)。ミナルディではマシンの戦闘力が低く、決勝最高位は9位に留まるが、パドックの関係者からの評価は高く、7レースに出場後、第7戦カナダGPでクラッシュにより大怪我を負ったオリビエ・パニスに代わり、第8戦フランスGPよりプロストから参戦することとなった。第14戦オーストリアGPではレース中盤までトップ走行を見せるなど印象的な活躍を見せたが、次戦第15戦ルクセンブルクGPからはパニスが復帰したためシートを譲ることになる。この時、チームオーナーであり元ワールドチャンピオンであるアラン・プロストは、パニスのチームメイトであった中野信治のシートをすぐにトゥルーリに変更したいほどその才能を評価していたが、エンジン供給元である無限の意向によりそれは不可能だった。トゥルーリは翌1998年にプロストのレギュラーシートを獲得することになる。

しかし1998年のプロストのマシンには前年見せたような速さは無く、プジョーエンジンの信頼性不足やタイヤとのマッチング不足によるパワー不足と困難な操縦性に苦闘を強いられた。この年の成績は波乱のベルギーGPで辛うじて1ポイントを拾ったのが唯一で、チームメイトのパニスも無得点に終わるなどプロスト・プジョーは不振を極めた。

1999年も苦しい戦いを強いられたが、雨による混乱のレースとなったヨーロッパGPではF1初の表彰台となる2位入賞を果たした。

2000年 - 2001年 ジョーダン

 
2001年カナダGP

2000年は、前年に引退したデイモン・ヒルが、自身の後任に強く推薦したこともあり、ジョーダンのシートを獲得。第7戦モナコGPの予選では見事2位を獲得した。迎えた決勝ではトップのミハエル・シューマッハに離されながらも2位をキープしていたが、マシントラブルによりリタイアした(シューマッハもマシントラブルでリタイアしたため,初優勝のチャンスでもあった)。なおこの年、新人であり後のチームメイトとなるジェンソン・バトンとは幾度も接触事故をおこしている(ほぼすべてバトン側に非があった)。

2001年もマシンの信頼性の低さに悩まされ、予選では多くのグランプリでシングルグリッドを獲得するも、入賞は5回に終わった。そして、ジャンカルロ・フィジケラと入れ替わる形で2002年にはルノーへ移籍することになった。

2002年 - 2004年 ルノー〜トヨタ

2002年、ルノーが投入した111度のワイドバンク角エンジンのトラブルに悩まされ続け、全17戦中リタイアは9回を数え、入賞は僅か4回にとどまった。

2003年、この年からチームメイトはフェルナンド・アロンソとなった。第12戦ドイツGPでは移籍後初、そして4年ぶりの表彰台を獲得した。この年は10度の入賞で33ポイントを挙げ、ランキングは8位となった。

 
2004年アメリカGP

2004年は第6戦モナコGPでポールポジションからスタートしF1初優勝を果たすなど、前半戦は僚友アロンソを圧倒して好調であった。だが徐々にチームとの関係が悪化すると共に成績も降下していった。モナコGPでの優勝の際にはルノーの会社マークにキスをしたことが話題になり、ルノー関係者からの評価も高かった。しかしルノーの母国である第10戦フランスGPでは、最終ラップでルーベンス・バリチェロにパスされ表彰台を逃し、それ以降情勢が変化していった。こうした中、同年9月にはトヨタへの移籍を発表するに至るが、チームがアロンソを優遇していると非難するなどチームとの関係はさらに悪化し、ついに第15戦イタリアGPを最後にチームを離脱した。その後、第17戦日本GP以降はトヨタから参戦した。


トヨタ

2005年

2005年は正式にレギュラードライバーとしてトヨタから参戦。第2戦マレーシアGPで2位表彰台を獲得した。このGP前に友人を亡くしており、亡き友に捧げる2位となった。その後の第3戦バーレーンGPでも2位、第5戦スペインGPでも3位と相次いで表彰台を獲得。第9戦アメリカGPではトヨタに初のポールポジションをもたらした。期待された決勝レースではミシュランタイヤに問題が発覚し、ミシュラン勢は全車がレースを棄権したため、記録上はリタイアとなった。シーズンを通して開幕前の予想を覆す活躍を見せ、チーム初のコンストラクターズランキングの4位獲得に貢献した。しかし前半から中盤にかけてはチームメイトのラルフシューマッハを圧倒する速さを見せ、ランキングでも上回っていたが、ベルギーGP以降失速し、確実に入賞を重ね、最終戦で3位表彰台を獲得したラルフにランキングで逆転され、シリーズ7位となった。

2006年

トヨタでの2シーズン目、この年に投入された「TF106」は成功作とはいえず、序盤には入賞すらできなかった。その結果、第7戦モナコGPからは改良型「TF106B」が投入された。得意とするモナコGPでは終盤3位を走行する活躍を見せたものの、表彰台を目前にしながら結果はリタイアに終わった。第10戦アメリカGPでは、予選後のパーツ交換によるペナルティをうけ最後尾スタートとなったが、4位でゴールするという力走を見せた。また第12戦ドイツGPでは、トヨタと2009年までの契約延長が発表された。

 
2007年モンツァテスト

2007年

予選ではQ3進出の常連となったが、決勝のスタートでは出遅れることが多く、また予選と比較してレースペースが遅い・安定しないということもあり、入賞は僅かに4回にとどまった。また、このシーズンはチームラジオ(無線)でマシンバランスなどについて訴える場面が度々国際映像で取り上げられている。

2008年

 
2008年フランスGP

開幕戦オーストラリアGPでは、予選で6番手を獲得するもリタイア。しかしその後、第2戦マレーシアGPで4位、第3戦バーレーンGPで6位、第4戦スペインGPで8位と3戦連続入賞を果たす。第8戦フランスGPでは3位に入賞し、自身3年ぶりの表彰台を獲得。このグランプリの前にチームトヨタF1の初代代表オベ・アンダーソンがラリーで事故死し、彼に捧げる3位となった。最終戦ブラジルGPでは予選2番手に入る速さを見せた。しかし、天候の変化によるタイヤ交換の際にキミ・ライコネンに先行され、その後も6位走行中にハーフスピンを起こし、スクーデリア・トロ・ロッソセバスチャン・ボーデとチームメイトのティモ・グロックにも抜かれ、最終的に8位入賞にとどまった。
最終的にこの年は31ポイントを獲得し、ドライバーズランキング9位でシーズンを終えた。

2009年

 
2009年日本GP

2009年シーズンはトヨタのマシンTF109の性能が非常によく、開幕戦オーストラリアGPではペナルティで予選タイム抹消、ピットスタートになったもののトゥルーリ3位、チームメイトのグロックも4位に入り、絶好調のスタートを切った。 第4戦バーレーンGPでは、予選トヨタ1-2でトゥルーリが2005年アメリカGP以来のポールポジションを獲得した。しかし、決勝は戦略によって後退、3位となった。また、このレースで参戦206戦目にして自身初のファステストラップを記録した。中盤戦はなかなか入賞できずにいたが、トヨタの母国第15戦日本GPでは予選2位で、スタートではハミルトンに抜かれたが、最後のピットでハミルトンを逆転してトヨタの母国で初めて2位表彰台そしてトヨタF1の最後の表彰台を獲得した。この年限りでトヨタが撤退したため5年間所属していたチームを離れることになった。32.5ポイントを獲得し、ドライバーズランキングは8位。

2010年 ロータス

 
2010年スペインGP

2010年は新規参入チームであるロータス・レーシングに移籍。マクラーレンから移籍してきたヘイキ・コバライネンとタッグを組む。冬季テストでは信頼性はあるが、速さは見せ付けていない。この年はマシンの戦闘力が不足していたため、主に新規参入した3チームの中でのトップを目指すシーズンとなった。シーズンを通した成績は予選結果ではチームメイトのコバライネンに対し11勝8敗と勝ち越したものの、決勝ではコバライネンの後ろでフィニッシュすることが多く、両者が完走してトゥルーリが前でフィニッシュしたのは第10戦イギリスGPのみであった。マシントラブルでのリタイアも多く、全19戦中完走は11戦で最高位は第16戦日本GPの13位であった。また、F1参戦14年目にして自身初のノーポイントのシーズンだった。

2011年

 
2011年マレーシアGP

前年から引き続き既存チームに追いつける程の速さは無い状況は変わらなかった。チームメイトのコバライネンに対して予選では18戦中2戦でしか上回れず、Q2進出も1度も無く、まったく速さを示すことが出来なかった。決勝に於いては前半は互角の結果を残したものの、後半は負け続けてしまった。ただし13位に2回入ったためランキング上はチームメイトを上回り、コンストラクターズ選手権に於いても10位になることに貢献した。

ドイツGPではリザーブドライバーのカルン・チャンドックに1戦のみとはいえシートを奪われてしまった。他のグランプリでも交代の噂が出てしまったり、2012年もチームとの契約があるにもかかわらずシートを奪われる噂が絶えないなど、ランキング以外ではあまり良いところのない一年となってしまった。

2012年

 
2012年ヘレステスト

チームは新たにロータスからケータハムへ名称が変更されたが引き続きレギュラードライバーとして残留した。新車CT01のテストでは最終日を担当し117周を走行した。2月17日にチームはトゥルーリに代わりヴィタリー・ペトロフの起用を発表、トゥルーリはシートを失った。チーム代表トニー・フェルナンデスはこの決定を「ヤルノの代わりにヴィタリーを入れるというのは簡単な決断ではなかった。だが、チーム全体に刺激を与えるためにも、また現実的に世界的な経済マーケットを見据えた時にこれは必要な判断だった」と語った。[2] また、トゥルーリのシート喪失に伴って、40年ぶりにF1からイタリア人ドライバーが姿を消すことになった。その後2017年アントニオ・ジョヴィナッツィザウバーから代役参戦でデビュー、2019年に同チームからのフル参戦が決まり、彼以来8年ぶりにイタリア人レギュラードライバーが誕生する[3]

F1引退後

フォーミュラE

2014年6月、同年9月より開催されるフォーミュラE選手権にチーム代表兼ドライバーとして参戦することを発表した。これはすでに参戦を表明していたドレイソン・レーシングより参戦権を譲り受けたものである[4]。チームの運営はスーパーノヴァ・レーシングが受け持つ[5]。またチームメイトとしてイタリアの女性ドライバーミケーラ・セルッティを起用した[6]

2014-15シーズン

唯一のF1優勝経験者として紹介され期待されていたが、初戦からセルッティ共々後方グループに沈むことが多く全く見せ場の無いレースが続いた。第4戦ブエノスアイレスGPでついに4位入賞を果たしたが、その後も入賞圏外やリタイアが続いた。この間に第5戦からチームメイトはセルッティに代わり、元F1ドライバーのビタントニオ・リウッツィに交代している。

そんな中、第8戦ベルリンGPでは突然ポールポジションを獲得。F1時代から数えると2009年バーレーンGP以来6年ぶりのポール獲得であり、周囲を大きく驚かせた。しかし決勝ではスタートこそ良かったものの、1周目であっさり2位スタートのルーカス・ディ・グラッシにかわされ、さらにチームメイトのリウッツィに抜かれた上にその後もペースが全く上がらず続々と後続に抜かれていき、最終的に2周遅れの20位最下位(後に優勝したディ・グラッシが車両規定違反で失格になったため、19位に繰り上がっている。)でフィニッシュしている。その上フォーミュラEにおける初の全車完走だったため、図らずもフォーミュラE史上最低順位を記録してしまった。

その後の終盤戦も見せ場を作れず、最終的なドライバーズランキングは20位。これはフル参戦ドライバーの中では最下位であり[7]、また自身のチームもセカンドドライバー共々ポイントを稼げずランキング10位で最下位となり、F1優勝経験者としては寂しい結果で初年度のシーズンを終えた。

2015-16シーズン

チームはそのまま継続して『トゥルーリ・フォーミュラEチーム』の名称のまま参戦するが、ドライバーはリウッツィと前シーズンアムリン・アグリから参戦していた(サルバドール・デュラン)の2名を起用し、自身は出走しないと発表されていた。しかし第2戦ではデュランに代わり出走することが発表されたが、2戦とも車検を通過することができず、欠場となった。そして第3戦の直前、2戦連続で車検不通過になったことが原因で様々な問題があることを考慮しフォーミュラEからの撤退を発表。チームの幕を下ろした[8]

実業家

その後はレース業界から離れ、1999年から副業していたワイン造りのオーナーに注力する。2018年、日本の酒商主催のイベントに出席するため、7年ぶりに来日した[9]

エピソード

  • 予選ではチームメイトよりも比較的上位のグリッドを獲得することが多い。しかし決勝ではレースペースが落ち、しばしばレース中に彼を先頭にした渋滞を巻き起こすことがある(しばしば、「トゥルーリ・トレイン」「トゥルーリドライビングスクール(ヤルノ教習所)」などと揶揄される)。唯一の優勝であるレースも抜きどころが少ないモナコGPで、この時はポール・トゥ・ウィンを果たしている。
  • マシンバランスやセッティングなどの状態に非常に左右されやすく、自身の好みから僅かでも外れていると途端に最大限の力を発揮できなくなる。逆にしっかりと好みに合った時には、類稀な速さを発揮する。
  • シーズン前半は好調でも、シーズンが進むに従って調子・成績が下降していくという傾向が見られる。
  • F1で3つの日本製エンジンメーカー(無限ホンダ、ホンダ、トヨタ)を経験した事がある数少ないドライバー。ちなみに、他にはプロスト時代のチームメイトのパニス(3つとも同じ)とミカ・サロ(無限ホンダ、ヤマハ、トヨタ)。
  • F1ドライバーである傍らアドリア海に面したアブルッツォにあるブドウ園「ポデレ・カストラニ(podere castorani)」でワインの生産を手がけている。ブドウ園の名称は最初のオーナーであるラファエル・カストラニに由来する。かつてワイン醸造を手がけていた父親のエンツォ・トゥルーリがブドウ園のマネージャーであり、トゥルーリの個人マネージャーであるルチオ・カヴートがマーケティングを手助けしている。トゥルーリはブドウ園を「ケーキにかけるトッピングのようなものさ。夢を手に入れた証しといってもいいかな」と述べている。
  • フォーミュラEにおいては所属チーム名に自身の名前「トゥルーリ」を冠したため、レース中継で呼称されるときはいちいち「『トゥルーリ』の『ヤルノ・トゥルーリ』」と呼ばなくてはならず、やや面倒になっている。テレビ朝日の中継においても「こちらはトゥルーリの……えー、…ヤルノ・トゥルーリです」と詰まるシーンが多々ある[10]
  • 特に予選など短時間での速さは驚異的である。ロス・ブラウン曰く、「5ラップの勝負であればすべてのレースに勝っただろう」というのがF1界の共通認識であった[11]

レース戦績

ドイツ・フォーミュラ3選手権

チーム エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 DC ポイント
(1995年) (KMS) オペル A HOC
1

HOC
2

AVU
1

AVU
1

NOR
1

8
NOR
2

DSQ
DIE
1

DSQ
DIE
2

6
NÜR
1

4
NÜR
2

2
(ALE
1
)
8
(ALE
2
)
4
MAG
1

5
MAG
2

17
HOC
1

1
HOC
2

1
4位 95
(1996年) (オペル・チームKMS) A HOC
1

1
HOC
2

1
NÜR
1

4
NÜR
1

6
NÜR
2

5
NOR
1

3
NOR
2

1
DIE
1

3
DIE
2

11
NÜR
1

2
NÜR
2

2
MAG
1

11
MAG
2

5
HOC
1

1
HOC
2

1
1位 206

F1

チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 WDC ポイント
1997年 ミナルディ M197 AUS
9
BRA
12
ARG
9
SMR
DNS
MON
Ret
ESP
15
CAN
Ret
15位 3
プロスト JS45 (FRA)
10
GBR
8
GER
4
HUN
7
BEL
15
(ITA)
10
(AUT)
Ret
LUX
JPN
EUR
1998年 AP01 AUS
Ret
BRA
Ret
(ARG)
11
(SMR)
Ret
ESP
9
(MON)
Ret
CAN
Ret
(FRA)
Ret
(GBR)
Ret
AUT
10
GER
12
HUN
Ret
BEL
6
(ITA)
13
LUX
Ret
JPN
12
16位 1
1999年 AP02 AUS
Ret
BRA
Ret
SMR
Ret
MON
7
ESP
6
CAN
Ret
FRA
7
GBR
9
AUT
7
GER
Ret
HUN
8
BEL
12
ITA
Ret
EUR
2
MAL
DNS
JPN
Ret
11位 7
2000年 ジョーダン EJ10 AUS
Ret
(BRA)
4
(SMR)
15
(GBR)
6
ESP
12
(EUR)
Ret
MON
Ret
(CAN)
6
(FRA)
6
(AUT)
Ret
10位 6
EJ10B GER
9
HUN
7
BEL
Ret
ITA
Ret
(USA)
Ret
JPN
13
(MAL)
12
2001年 EJ11 AUS
Ret
MAL
8
BRA
5
SMR
5
ESP
4
AUT
DSQ
MON
Ret
(CAN)
11
(EUR)
Ret
(FRA)
5
(GBR)
Ret
GER
Ret
(HUN)
Ret
(BEL)
Ret
ITA
Ret
USA
4
JPN
8
9位 12
2002年 ルノー R202 AUS
Ret
MAL
Ret
BRA
Ret
(SMR)
9
ESP
10
AUT
Ret
MON
4
CAN
6
EUR
8
(GBR)
Ret
FRA
Ret
GER
Ret
HUN
8
(BEL)
Ret
ITA
4
USA
5
JPN
Ret
8位 9
2003年 R23 AUS
5
MAL
5
BRA
8
(SMR)
13
ESP
Ret
(AUT)
8
MON
6
CAN
Ret
EUR
Ret
FRA
Ret
8位 33
R23B GBR
6
GER
3
HUN
7
ITA
Ret
(USA)
4
JPN
5
2004年 R24 AUS
7
MAL
5
BHR
4
SMR
5
ESP
3
MON
1
EUR
4
CAN
Ret
USA
4
FRA
4
GBR
Ret
GER
11
HUN
Ret
BEL
9
ITA
10
CHN
6位 46
トヨタ TF104B JPN
11
BRA
12
2005年 TF105 AUS
9
MAL
2
BHR
2
SMR
5
ESP
3
MON
10
EUR
8
(CAN)
Ret
USA
DNS
FRA
5
GBR
9
GER
14
HUN
4
TUR
6
ITA
5
BEL
Ret
BRA
13
7位 43
TF105B JPN
Ret
CHN
15
2006年 TF106 BHR
16
MAL
9
AUS
Ret
SMR
Ret
EUR
9
ESP
10
12位 15
TF106B MON
17
GBR
11
CAN
6
USA
4
FRA
Ret
GER
7
HUN
12
TUR
9
ITA
7
CHN
Ret
JPN
6
BRA
Ret
2007年 TF107 AUS
9
MAL
7
BHR
7
ESP
Ret
MON
15
CAN
Ret
USA
6
FRA
Ret
GBR
Ret
EUR
13
HUN
10
TUR
16
ITA
11
BEL
11
JPN
13
CHN
13
BRA
8
13位 8
2008年 TF108 AUS
Ret
MAL
4
BHR
6
ESP
8
TUR
10
MON
13
CAN
6
FRA
3
GBR
7
GER
9
HUN
7
EUR
5
BEL
16
ITA
13
SIN
Ret
JPN
5
CHN
Ret
BRA
8
9位 31
2009年 TF109 AUS
3
MAL
4
CHN
Ret
BHR
3
ESP
Ret
MON
13
TUR
4
GBR
7
GER
17
HUN
8
EUR
13
BEL
Ret
ITA
14
SIN
12
JPN
2
BRA
Ret
ABU
7
8位 32.5
2010年 ロータス T127 BHR
17
AUS
DNS
MAL
17
CHN
Ret
ESP
17
MON
15
TUR
Ret
CAN
Ret
EUR
21
GBR
16
GER
Ret
HUN
15
BEL
19
ITA
Ret
SIN
Ret
JPN
13
KOR
Ret
BRA
19
ABU
21
21位 0
2011年 T128 AUS
13
MAL
Ret
CHN
19
TUR
18
ESP
18
MON
13
CAN
16
EUR
20
GBR
Ret
GER
HUN
Ret
BEL
14
ITA
14
SIN
Ret
JPN
19
KOR
17
IND
19
ABU
18
BRA
18
21位 0
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ。((key))
  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。
  •  : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。

フォーミュラE

チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2014年-2015年 (トゥルーリGP) スパーク-ルノー・SRT 01E (BEI)
Ret
(PUT)
16
(PDE)
4
(BNA)
Ret
(MIA)
15
(LBH)
Ret
(MON)
11
(BER)
19
(MOS)
18
(LON)
15
(LON)
Ret
20位 15
2015年-2016年 スパーク-(モトマティカ・JT-01) (BEI) (PUT)
DNP
(PDE) (BNA) (MEX) (LBH) (PAR) (BER) (LON) (LON) NC* 0*

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “ヤルノ・トゥルーリの息子、エンツォが日本で武者修行へ。TOM’S育成入りしSFL参戦が発表|TOM’S2023フォーミュラ体制発表”. motorsport.com (2023年2月21日). 2023年5月23日閲覧。
  2. ^ “ペトロフがケータハムに加入”. ESPN F1. (2012年2月17日). http://ja.espnf1.com/caterham/motorsport/story/70560.html 2012年2月17日閲覧。 
  3. ^ “ザウバーF1、アントニオ・ジョビナッツィとの契約を発表!2019年のキミ・ライコネンの相方が決定”. F1ニュース速報/解説【Formula1-Data】. 2018年12月23日閲覧。
  4. ^ “トゥルーリが代表兼ドライバーでフォーミュラEに参戦”. AutoSports web. (2014年6月18日). https://www.as-web.jp/past/%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%aa%e3%81%8c%e4%bb%a3%e8%a1%a8%e5%85%bc%e3%83%89%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%90%e3%83%bc%e3%81%a7%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%a9e%e3%81%ab 2014年9月13日閲覧。 
  5. ^ “トゥルーリGP、スーパーノバにチーム運営を委託”. AutoSports web. (2014年7月2日). https://www.as-web.jp/past/%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%aagp%e3%80%81%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%8e%e3%83%90%e3%81%ab%e3%83%81%e3%83%bc%e3%83%a0%e9%81%8b%e5%96%b6%e3%82%92%e5%a7%94%e8%a8%97 2014年9月13日閲覧。 
  6. ^ “フォーミュラE:トゥルーリGP、ミケーラ・セルッティを起用”. F1-Gate.com. (2014年7月1日). http://f1-gate.com/formula_e/trulligp_24230.html 2014年9月13日閲覧。 
  7. ^ スポット参戦ドライバー含む全35人の中で20位。その中でフル参戦ドライバーは12人。
  8. ^ “トゥルーリ、フォーミュラE撤退を正式発表”. F1-Gate.com. (2015年12月15日). http://f1-gate.com/formula_e/trulli_29482.html 2015年12月23日閲覧。 
  9. ^ “トゥルーリがF1引退以来7年ぶりの来日。自身が手掛けるワインをPR”. AutoSports web. (2018年12月3日). 2018年12月4日閲覧。
  10. ^ 解説の片山右京は元チームメイトということもあり、実況中に本人を指すときは基本的に「ヤルノ」と呼んでいる。
  11. ^ “F1=ブラウン氏、機械学習による最速ランキングに言及”. Reuters. (2020年8月20日). 2021年2月15日閲覧。

関連項目

外部リンク

  • ヤルノ・トゥルーリ公式サイト
  • トゥルーリの経営するワイン農園のサイト(伊・英語)
  • The Official Formula 1 Website - DRIVER PROFILE
タイトル
先代
ノルベルト・フォンタナ
ドイツF3チャンピオン
1996年
次代
ニック・ハイドフェルド


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