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在ペルー日本大使公邸占拠事件

在ペルー日本大使公邸占拠事件(ざいペルーにほんたいしこうていせんきょじけん)は、1996年(平成8年)12月17日(現地時間)に、ペルー首都リマで起きたテロリストによる駐ペルー日本国大使公邸襲撃および占拠事件。翌1997年(平成9年)4月22日にペルー警察が突入し人質解放されるまで、4か月以上かかった[1]在ペルー日本大使公邸人質事件ともいう。

在ペルー日本大使公邸占拠事件
作戦時のペルー軍兵士と救出される人質。
場所 ペルー リマ 在ペルー日本特命全権大使公邸
標的 在ペルー日本国大使館
日付 1996年12月17日 - 1997年4月22日
攻撃手段 人質立てこもり
攻撃側人数 14名
武器 拳銃自動小銃手榴弾など
死亡者 17名(人質1名、ペルー軍2名、犯人14名)
負傷者 8名
行方不明者 なし
犯人 トゥパク・アマル革命運動(MRTA)
コマンド・エドガル・サンチェス
動機 逮捕された仲間の解放などの要求を通すため
対処 ペルーの特殊部隊による突入、犯人全員を殺害
謝罪 なし
賠償 なし
(テンプレートを表示)

概要

襲撃・占拠

 
突入作戦の訓練用に造られた、在ペルー日本大使公邸のレプリカ(現在は事件の記念館として使用)

1996年(平成8年)12月17日夜、ペルーの首都リマの日本大使公邸では、青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた[1]。午後8時過ぎ、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入し、制圧・占拠した[1]

一団は、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人で、その場にいた青木大使をはじめとする大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を人質にした[1]

その後セルパは、「逮捕、拘留されているMRTA構成員全員の釈放」、「国外に退避するまでの人質の同行とそれに対するセーフ・コンダクト」、「アルベルト・フジモリ政権による経済政策の全面的転換」、「身代金の支払い」という4項目の要求を提示した。さらに公邸敷地内に対人地雷を設置するなど、及び警察による武力解放作戦に備えた。

当初MRTAは、ペルー政府と軍の要人や日本大使館員程度の少数の人質確保を目的としていた。しかし、600人以上という予想以上の多数の人質を確保してしまったため、MRTAは人質になっていたミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて、早期にフジモリ大統領の母・ムツエを含む女性や老人(高齢者)、子供など200人以上の人質を解放し、その後も継続的に人質を解放した。またアメリカ人の人質も早期解放されたが、これは単純にMRTAがアメリカ人を特定の目的としていないためであったが、アメリカ政府が自国民救出を理由に特殊部隊を投入する事を、MRTAが恐れたからではないかとの見方もあった。

しかし、元々人質として確保しようとしていたペルー政府要人や軍人、そして多くの日本大使館員や日本企業のペルー駐在員らが、人質として大使公邸に残された[2]。なお人質となったのは男性のみで、女性は全員解放された。

事件報道の過熱

事件の発生を受けて、日本の外務省警察庁から数名の応援部隊がリマへ向かったほか、多くの新聞テレビの取材陣、ジャーナリストがリマに向かい、日本のテレビ放送はこの事件報道一色になった。また青木盛久大使の息子は、過熱したマスコミの取材攻勢から遠ざけることと、国内での不慮の事態に備えて勤務先から自宅待機を命じられた。

2つの方法

ペルーのアルベルト・フジモリ大統領ブラディミロ・モンテシノス国家情報局顧問は、事件発生翌日には武力突入を検討していた。これに対し、事件直後に日本の首相橋本龍太郎の命を受けてペルー入りした外務大臣池田行彦が「平和的解決を優先してほしい」と勧めたことにより、即時の武力突入を断念した。

なおこの頃、橋本首相は、本事件の対処のため外務省に設置された対策本部に、銀座木村屋總本店で自ら購入したあんパン130個を差し入れたことから、後に「あんパン総理」と揶揄される。だが実際は、ペルーとの暗号化された安全な連絡手段(ホットライン)が外務省にしかなく、そのために外務省に赴かなければいけないということを誤魔化すことが目的だったとも言われている。

事件発生から1か月ほど経った1997年(平成9年)1月下旬、事件が膠着状況に陥ったことによる国内外からの批判の高まりや、内政の不安定を嫌ったフジモリ大統領の意を受けて、ペルー警察当局は、武力突入計画の立案を始めた。警察当局は、大使公邸と同じ間取り・建材を使ったレプリカを造り、特殊部隊が突入するシミュレーションを重ねていた。また、派遣は現実的でなかったものの、日本の警察の特殊急襲部隊(SAT)も大使公邸の間取りを一部再現して、突入訓練を実施していた。

テレビ朝日・広島ホームテレビの行動

事件から3週間ほど経った1997年(平成9年)1月7日、テレビ朝日のニュースネットワーク(ANN)の一員として取材に当たっていた広島ホームテレビの取材チームが、ANN代表として「MRTA側の声明を取材し全世界に発信する」という目的でペルー大使館に突入を試みた。

このテレビ朝日の申し出は当然MRTA側から拒絶された。人質に危害が加えられることはなかったが、人質のみならず関係者の安全を無視した行動として、日本・ペルー両政府のみならず、世界各国のマスコミから多くの非難が寄せられた。当初、テレビ朝日側は「テロリストとの対話を行おうとした」と主張し批判を無視し続けたものの、後に同社の伊藤社長が正式に謝罪した。

トンネル掘削

2月1日に、橋本首相とフジモリ大統領が事件発生後初めてカナダトロントで会談し、橋本首相は改めて事件の平和的解決と事件解決への全面的支援を訴え[1]、フジモリ大統領もこの訴えに対して一定の理解を示した。

しかし、1月7日に、ペルー警察当局はフジモリ大統領の発案による公邸周辺の家屋より公邸地下までのトンネル掘削を開始していた(合計7本)[1]。なおトンネル掘削に伴う騒音を隠すために、大音量で軍歌を流し続けるなどのカモフラージュ作戦を行い、1月27日には発砲の小競り合いも起きた[1]。トンネルの存在はメディアによってスクープされてしまい、犯人側にも知られるところになったが、MRTAはこれを人質達の脱出用トンネルと考えて人質を2階に集めるようになり、これは突入作戦の実行のためには好都合であった。

直接交渉の開始

2月11日にはペルー政府とMRTAの間で直接交渉が開始され、ペルー政府側代表のドミンゴ・パレルモ教育相と、中立的な立場から交渉をサポートする保証人委員会の委員として、ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表とフアン・ルイス・シプリアーニ大司教、アントニー・ビンセント駐ペルーカナダ特命全権大使が選ばれ、寺田輝介駐メキシコ日本特命全権大使も保証人委員会のオブザーバーとして参加した。

なお、シプリアーニ大司教は犯人と政府との間の交渉役としてだけでなく、人質への医薬品や食料の差入れ役としても活躍したものの、後にペルー政府側の意を汲んで、密かに人質となったペルー海軍のルイス・アレハンドロ・ジャンピエトリ提督(2006年に副大統領に就任)らに対して無線機などを手渡していた他、差し入れた医療器具やコーヒーポット、さらには聖書などの中にも多数の盗聴器が仕込まれていたことが明らかになった。

キューバ亡命案

また、これとあわせて同時期には、ペルー国内の刑務所に服役中の2人を含むMRTA構成員全員のキューバ亡命による「平和的な事件解決」という案も検討され、この案の可能性を探るためにハバナを訪れたフジモリ大統領と会談したキューバフィデル・カストロ首相も犯人グループの条件付受け入れを承諾する姿勢を見せた[1]

これを受けてセルパもキューバへの亡命を他のMRTA構成員に申し出たが、他の構成員により却下され、この案による平和的な解決の道は閉ざされることになった。なお、この会話は盗聴器によってペルー政府側に盗聴されていた。

人質生活

事件直後から五月雨式に続いた解放により、人質の数は、1997年の始めには100人、4月の事件解決時には70人程度となった。なお上記のように女性は先に解放されたため、男性のみとなっていた。

最終的な人質の構成は、数名の閣僚ペルー軍将校を含むペルー政府関係者と、駐ペルー日本大使館員、松下電器日産自動車三井物産などの日本の大手企業の駐在員などが中心となっていた。

人質たちは暇を潰し、お互いのコミュニケーションを促進するため、積極的に日本語スペイン語の相互レッスンや、トランプリバーシ麻雀などのゲームを行い、その中には人質との間にコミュニケーションを取るようになっていたMRTA構成員が入ることも珍しくなかった。

リマ市内の日本料理レストランからは毎日、日本料理やインスタントラーメンなどが届けられ、ペルー人の人質やMRTA構成員にも振舞われたとの証言もある。また、多数の日本の報道陣がリマに詰めかけ、リマ市内のあらゆる日本料理レストランから膨大な量の日本料理の出前を取ったため、日本料理レストランの多くは「特需」とも言われるような盛況を享受したと言われている。

チャビン・デ・ワンタル作戦

 
チャビン・デ・ワンタル作戦での突入訓練用の大使公邸模型。

これらの状況を受けて、事件発生から127日が経過した4月22日、ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES/Fuerza de Operaciones Especiales)を中心とした軍・警察の合同特殊部隊が公邸に突入し、最後まで拘束されていた72人の人質(日本人の人質は24人)のうち71人を救出した。同年2月より掘削を進めていた公邸地下のトンネルを利用したことに特徴があり、作戦名も古代の大規模な地下通路で有名な世界遺産チャビン・デ・ワンタルに由来する。作戦の実行に際し、公には突入作戦を避けることを主張していた橋本首相への事前通告はなかったとされている。

作戦当日の午後、MRTAが日課となっていたインドアサッカーを始め[1]、このために1人を除くMRTA構成員全員が1階にいたことが、密かに持ち込まれた無線機を使用したペルー海軍のジャン・ピエトリ中将からの連絡により判明した。この連絡を受けて突入作戦の実行が決定され、その連絡を受けたピエトリ中将らは2階にいた人質の多くを急いで奥の部屋に押しとどめた。

人質が2階に集結したことを受けて15時23分に突入作戦は開始された[1]。掘削を進めていた作戦用トンネルの終着地となる1階の床の数箇所が爆破され、その穴と正門から部隊が突入した。日本人の人質達は、部屋に留まるように言われていたが、突入があることまでは知らされておらず、後に解放された人質の一人は、当時暇潰しに麻雀に興じていた者の中には、突入時の混乱の中で「伏せろ」という声を聞き、麻雀牌を伏せることと勘違いした者もいたと語っている[3]。作戦は成功し、ほとんどの人質は無傷で解放されたが、脱出時に落下したり銃弾を受けたフランシスコ・トゥデラ外務大臣や青木大使ら複数の重軽傷者を出した他、人質のカルロス・ジュスティ最高裁判事と、特殊部隊のフアン・バレル中佐、ラウル・ヒメネス中尉の計3名が殉職し、MRTA構成員は14人全員が死亡した。

なおこの作戦は、大使館周辺に事件の報道のために集結していた世界各国のテレビ局のカメラによって世界中に生中継で放送され、日本のテレビ局も通常の番組を中断して現場からの生放送を行った[4][5][6]。映像には特殊部隊による突撃や人質の脱出、屋上に掲げられていたMRTAの旗(大使館の国旗掲揚台ではない)が引きずり下ろされる映像が記録されている。この際、協力関係にあったイギリスの特殊部隊SASから突入訓練を受けたペルー海軍特殊作戦部隊が、FN P90を使用して話題になった。

その後

殉職した特殊部隊隊員のバレル中佐とヒメネス中尉のもとには、マスコミや市民団体を経由して日本人から義捐金が寄せられた。また、脱出時に怪我を負い車椅子を使うこととなった青木大使は、事件直後こそ代理の者を葬儀に向かわせざるを得なかったものの、2人とカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前に向かい冥福を祈った。その後、ペルーを訪れる日本の国務大臣は、必ず3人の墓前を訪れている。

 
移転後の在ペルー日本国大使館(2012年)

大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に移転した。新公邸は二重の塀に四方の監視塔、防弾仕様のゲートなどセキュリティーが大幅に強化されており、事件当時のようなパーティやレセプションもほとんど行われなくなった。事件現場となった旧公邸は取り壊され、2011年に地元の不動産業者へ売却された[7]が、2022年現在も更地のままである。なお外周の塀と扉はそのまま残されており、事件当時についた弾痕を見ることができる。突入訓練用に造られた大使公邸の実物大レプリカは事件後も残されており、「チャビン・デ・ワンタル博物館」として当事件の資料が展示されている。

フジモリ大統領がこの事件の解決時に果たした決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賞賛を贈った。しかし後になって投降したMRTA構成員を射殺した疑惑が発覚し、フジモリ大統領も訴追された。

  • 2000年(平成12年)11月19日 - フジモリがペルー与野党内での反フジモリ運動の高まりから日本に事実上の亡命。
  • 2001年(平成13年)3月 - MRTA構成員の墓を掘り起こして再検死。
  • 2002年(平成14年)5月 - 特殊部隊の指揮官ら12人に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1人を拘束。
  • 2003年(平成15年)3月 - ペルー政府からの依頼を受けた国際刑事警察機構が、フジモリを人道犯罪の容疑で国際手配。日本政府は引き渡しを拒否。
  • 2003年(平成15年)5月27日 - ペルー政府側の嘱託を受けた東京地方裁判所が、MRTA構成員の生きたままの拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。

この事件によってペルー国内だけでなく世界各国からの非難を受けたMRTAは、その主要構成員の多くをこの事件によって失っただけでなく、国内外からの支援も途絶えたために事実上の活動停止状態に追い込まれた。2007年(平成19年)4月21日には、禁固32年の刑で服役中の指導者ビクトル・ポライは事件の武力解決10周年を期に共同通信へ書簡を寄せ、自らの武力革命路線の敗北を認め武闘路線の放棄を表明した。

本事件では、テロリストグループが人質に対して次第に同情的になり、本来処刑予定だった人質を殺すことができず、ほとんどの人質が脱出した。このことから、人質が犯人側に同情的になるストックホルム症候群の逆パターンとして、事件現場となったリマにちなみリマ症候群という心理学用語が生まれた。

文献

  • 青木盛久『人質 ペルー日本大使公邸の126日』クレスト社、1997年10月、(ISBN 4877120599)
  • 石川荘太郎『テロリズムへの敗北 ペルー日本大使公邸占拠事件の教訓』PHP研究所、1998年1月、(ISBN 456955914X)
  • 伊藤千尋『フジモリの悲劇 日本人が問われるもの』三五館、1997年11月、(ISBN 4883201279)
  • 伊藤千尋『狙われる日本 ペルー人質事件の深層』(朝日文庫)朝日新聞社、1997年3月、(ISBN 4022611936)
  • 梅本浩志『国家テロリズムと武装抵抗 鏡としてのペルー・ゲリラ事件』社会評論社、1998年5月、(ISBN 4784503722)
  • NHKスペシャル「ペルー人質事件」プロジェクト『突入 ペルー人質事件の127日間』日本放送出版協会、1998年3月、(ISBN 4140803657)
  • 太田昌国『「ペルー人質事件」解読のための21章』現代企画室、1997年8月、(ISBN 4773897139)
  • 小倉英敬『封殺された対話 ペルー日本大使公邸占領事件再考』平凡社、2000年5月、(ISBN 4582824358)
  • 共同通信社ペルー特別取材班編『ペルー日本大使公邸人質事件』共同通信社、1997年6月、(ISBN 4764103842)
  • 齋藤慶一『人質127日 ペルー日本大使公邸占拠事件』文藝春秋、1998年7月、(ISBN 4163542701)
  • 新川啓介『人質たちの1世紀 ペルー日本大使公邸人質事件と日系人』集英社、1998年4月、(ISBN 4087831213)
  • 平山和充『突入 ペルー・リマ日本大使公邸人質事件もうひとつの真実』新声社、1998年1月、(ISBN 4881993933)
  • アルベルト・フジモリ『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』(中公新書ラクレ中央公論新社、2002年2月、(ISBN 4121500350) 原著: Alberto Fujimori, Mis armas contra el terrorismo
  • ルイス・ジャンピエトリ 『日本大使公邸襲撃事件 占拠126日と最後の41秒間』、(沢田博訳 イースト・プレス、2009年) 著者は掃討指揮官

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 『ペルー人質救出作戦』歴史群像82号、六角堂出版、2007年、176-186頁。 
  2. ^ 峰岸純夫『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』文藝春秋、2000年4月。ISBN (4163561803)。 
  3. ^ 2015年4月5日TBS系列放送の『テレビ史を揺るがせた100の重大ニュース 今夜一挙公開』に出演した人質だった味の素現地法人社長(当時)の証言。
  4. ^ ニュース - NHKクロニクル
  5. ^ ニュース - NHKクロニクル
  6. ^ ニュース - NHKクロニクル
  7. ^ “ペルーの大使公邸跡マンションに 人質事件から15年、売却へ”. 全国新聞ネット (2011年12月12日). 2013年4月4日閲覧。

関連項目

外部リンク

  • ペルー日本大使公邸人質事件 - (NHK放送史)

座標: 南緯12度5分29秒 西経77度2分58.1秒 / 南緯12.09139度 西経77.049472度 / -12.09139; -77.049472

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