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ブルターニュ君主一覧

ブルターニュ君主一覧ではブルターニュの統治者について列挙する。統治者達は時代ごとに様々な称号を有していた。彼等は、ある時は選出され、またある時は征服や謀略、世襲権によって地位を獲得した。世襲の公は時にはブルターニュ女公の称号を有する女性の統治者であった。公国の主要な都市ならびに地域は伯によって統治されており、彼等はしばしば公との争いで自らの地位を手に入れたり、自身が公になったりした。

ローマ帝国の衰退期にガリアにおける最初期のブルトン人の支配者は(コルヌアイユ)(フランス語版)及びドゥムノニア の小王国の"王"と呼ばれていた。これらの何人かの王はアルモリカ半島のあらゆるブリトン住民に対して支配権の形を有していたらしく、リオタムスは年代記家のヨルダネスによって(ブルトン王)(英語版)と呼ばれている。けれどもブルターニュ全体の統治者は明らかではなく、現地の伯の封土に分割されていた。

これらの幾つもの小国に分裂していたブルターニュを840年代に統一したのが(ノミノエ)(フランス語版)であり、彼が統一(ブルターニュ王国)(フランス語版)の初代王となった(実質的な王は息子の(エリスポエ)(フランス語版)が最初である)。王国は領域を拡大したものの、10世紀ヴァイキングノルマン人)によって国土が殆ど侵食されるに至った。

この危機的状況を打開したのが(アラン2世)(フランス語版)である。彼は939年(トランの戦い)(フランス語版)でヴァイキングを撃破して祖国を解放したが、この時の勝利が ブルターニュ公国建国の起源であり、それはブルターニュとノルマンディーの国境である(クエノン川)(フランス語版)にて建国された[1]942年にアラン2世は西フランク国王ルイ4世に臣従を誓ったものの、公国は1123年フランス国王ルイ6世肥満王ナント司教を承認するまでフランス王家が関心を得るところではなかった[2]。けれどもその他のブルターニュ公は、1202年アルテュール1世が国王フィリップ2世尊厳王を自らの君主と認めるまでアラン2世の臣従の儀を繰り返した[3]

領域は大概、公国と呼ばれ、その統治者は独立した主権を有する公と見做されていた。けれどもある歴史家は、12世紀半ば以前のブルターニュ公はよくフランス国王からは伯と呼ばれており、当時、フランス王国は1つの伯領に過ぎないとの見方をしていたとの見解を取っている[要出典]1297年ブルターニュ(フランス貴族)(フランス語版)における公爵に昇格したとしている[4]。この見解はシャルル8世温厚王並びにルイ12世人民王の2代に渡る王が、公国並びに 両王と立て続きに結婚したアンヌ・ド・ブルターニュの権利に近付いたこととは一致しない。大部分の歴史家は、上記の両王の時代及び公位が1532年アンリ2世のもとに組み込まれるまでブルターニュ公国はフランス王権から独立していたと見做している。

初期支配者

  • (コナン・メリアドック)(フランス語版) (4世紀) – 伝説上のブルターニュ初代君主
  • (ブディク2世)(英語版) (6世紀初頭) –アルモリカ
  • (ワロック2世)(フランス語版) (6世紀後半) - (ブロ・ワロック王)(フランス語版)
  • (ユディカエル)(フランス語版) (590頃-657年) - ブリトン上王、ドゥムノニア王; ドゥムノニアと(ブロヨロス)(フランス語版)のブリトン人の王国を統一; ダゴベルト1世(エリギウス)(フランス語版)を承認。
  • (モルマン)(フランス語版) (在位814年–818年)- 自らが封臣として仕えていたカール大帝814年の死去に伴いブリトン人貴族からブルターニュ王と呼ばれた最初の君主。
  • ルイ敬虔王下のフランク王国統治時代 (819年-822年) - モルマンはフランク王国による支配に対して反乱を起こしたもののルイ敬虔王に敗北した。フランク統治時代のブルターニュは同時に(ネウストリア辺境伯領)(フランス語版)に脅かされていた。
  • (ヴィオマルク)(フランス語版) (在位822年–825年) – ブリトン人復権のためのフランク王国に対する反乱を成功に導いた;ブルターニュ辺境伯領の(ナント伯)(フランス語版)(ランベルト1世)(フランス語版)に殺された。

ブルターニュ王

  • (ノミノエ)(フランス語版) (ネヴェノエ) (在位841年–851年)、(ヴァンヌ伯)(フランス語版)、初代ブルターニュ公
  • (エリスポエ)(フランス語版) (在位851年–857年)、ヴァンヌ伯、ノミノエの息子。公として統治し、それから王として統治
    • 教会の祭壇にて陣内にいた従兄弟の(サロモン)(フランス語版)に暗殺された。
    • 娘は(グルヴァント)(フランス語版)と結婚している。
  • (サロモン)(フランス語版) (サラウーン) (在位857年–874年)、(レンヌ伯)(フランス語版)(ナント伯)(フランス語版)
    • (エリスポエ)(フランス語版)に対する反乱を導く
    • 公として統治し、それから皇帝から下賜された王冠と紫色のローブを基に王として統治。(アラン1世)(フランス語版)まで統一したブルターニュを統治した最後の君主
    • (トゥール大司教座)(フランス語版)からの独立を得んとしているドル司教区のために教皇にパリウムを授与せんと試みた
    • 義理の息子であるヴァンヌ伯 (パスクヴェテン)(フランス語版)並びに(エリスポエ)(フランス語版)の義理の息子である(グルヴァント)(フランス語版)の一派によって暗殺された
    • 聖徒の列に加えられて殉教者の段階まで上げられた。
  • 内戦及び第1次ヴァイキングによる侵攻(874年 – 888年)期間の分割統治
    • 南ブルターニュ
      • (パスクイタン)(フランス語版)(パスクヴェテン) (在位874年–877年)、ヴァンヌ伯、(グルヴァント)(フランス語版)と同時代で南ブルターニュを統治
      • (大アラン)(フランス語版) (在位877年-888年) – 兄弟であるパスクイタンの後を継承。(ユディカエル)(フランス語版)と同時代で南ブルターニュを統治。(アラン1世)(フランス語版)を参照のこと。
    • 北ブルターニュ
      • (グルヴァント)(フランス語版) (在位874年–877年)、(パスクイタン)(フランス語版)と同時代で北ブルターニュを統治;
      • (ユディカエル)(フランス語版) (在位877年–888年)、グルヴァルトの後を継承、(大アラン)(フランス語版)と同時代で北ブルターニュを統治。(アラン1世 (ブルターニュ王))(フランス語版)を参照のこと。
  • (アラン1世 (ブルターニュ王))(フランス語版)、または大アラン
    • (在位877年 – 888年)、パスクイタンの後を継承して877年から888年にかけてユディカエルと共同統治。
    • (在位888年 – 907年)、ユディカエルの死によって単独の公として統治。
    • 皇帝カール3世肥満王より王号ないし'rex Brittaniæ' を授けられる
    • 最後のブルターニュ王
  • 第二次ヴァイキングの侵攻ならびに占領 (907年-937年)
    • アラン1世の女婿である(ポーエル伯)(フランス語版)(マテュエドイ)(フランス語版)とその息子である(アラン2世)(フランス語版)はブルターニュから逃亡してイングランド国王アゼルスタンのもとで亡命生活を送った。マテュエドイは「亡命上の王」であるが戴冠したことはなかった。
  • (グルマエロン)(フランス語版)(コルヌアイユ伯)(フランス語版) ( 907年以降、王国の後見人として統治)

ブルターニュ公

ナント家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
アラン2世
狡猾公

(Alan al Louarn)
936年/938年–952年
919年以前
ポーエル伯マテュエドイとアラン1世の娘の子。
(1) ロシーユ・ダンジュー
943年
1女
(2) ロシーユ・ド・ブロワ
949/51年以前
1男
952年頃
ナント
約33歳没
ドロゴ
(Drogon)
952年–958年
949/52年頃
アラン2世の1人息子
未婚 958年頃
アンジェ
5–9歳没
オエル1世
(Hoel Iañ )
960年–981年
930年頃
アラン2世とジュディトの庶子
未婚 981年頃
グエレス
(Gwereg)
981年-988年
933年頃
アラン2世とジュディトの庶子
アランブルジュ・ダンスニ
981年以降
1男
988年頃
アラン
(Alan)
988年-990年
981年頃
グエレスとアランブルジュ・ダンスニの1人息子
未婚 990年頃
9歳没

レンヌ家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
コナン1世
(Konan Iañ)
990年–992年
927年頃
レンヌ伯ジュディカエルとジェルベルジュ(アラン2世の娘とも)の長男
エルマンガルド=ジェルベルジュ・ダンジュー
973年
5人の子
992年6月27日
コンクルイユ
64–65歳没
ジョフロワ1世
(Jafrez Iañ)
992年–1008年
980年頃
コナン1世エルマンガルド=ジェルベルジュ・ダンジューの長子
アヴォワーズ・ド・ノルマンディー
996年
4人の子
1008年11月20日
27–28歳没
アラン3世
(Alan III)
1008年–1040年
エオン1世と共同統治 (1008年–1034年)
  997年頃
ジョフロワ1世アヴォワーズ・ド・ノルマンディーの長子
ベルト・ド・ブロワ
1018年
2人の子
1040年10月1日
ヴィムティエ
42–43歳没
エオン1世
(Eozen I)
1008年–1034年
アラン3世と共同統治
  999年頃
ジョフロワ1世アヴォワーズ・ド・ノルマンディーの次男
オルゲン・ド・コルヌアイユ
6人の子
1079年頃
セソン
79–80歳没
コナン2世
(Konan II)
1040年–1066年
摂政としてエオン1世と共同統治 (1040年–1057年)
1033年頃
アラン3世ベルト・ド・ブロワの1人息子
未婚 1066年12月11日
シャトー=ゴンティエ
32–33歳没
アヴォワーズ
(Hawiz)
1066年–1072年
オエル2世と共同統治
1037年頃
アラン3世ベルト・ド・ブロワの1人娘
1066年
7人の子
1072年8月19日
34–35歳没
オエル2世
(Hoel II)
1066年–1072年
アヴォワーズと共同統治
1031年頃
コルヌアイユ伯アラン・カニアールとジュディト・ド・ナントの長子
1084年4月13日
52–53歳没

コルヌアイユ家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
アラン4世
若公

(Alan IV Fergant)
1072年–1112年
摂政としてオエル2世と共同統治
(1072年–1084年)
  1060年以前
オエル2世アヴォワーズの長子
(1) コンスタンス・ド・ノルマンディー
1086/88年
子を儲けず
(2) エルマンガルド・ダンジュー
1093年
3人の子
1119年10月13日
サン・ソヴール修道院
60歳没
コナン3世
肥満公

(Konan III)
1112年–1148年
  1093年頃-1096年
アラン4世エルマンガルド・ダンジューの長子
モード・フィッツロイ
1112年
3人の子
1148年9月17日
54–58歳没
ベルト
(Berta)
1148年–1156年
ウード2世と共同統治
  1114年頃
コナン3世とモード・フィッツロイの長女
(1) 初代リッシュモン伯アラン
1137/8年
3人の子
(2) ポルオエ子爵ウード2世
1148年
3人の子
1156年頃
41–43歳没
ウード2世
(Eozen II)
1148年–1156年
ベルトと共同統治
  ?
ポルオエ子爵ジョフロワとアヴォワーズの長子
(1) ブルターニュ女公ベルト
1148年
3人の子
(2) ジャンヌ・エレオノール・ド・レオン
1167年8月
2、3人の子
1170年頃

パンティエーヴル家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
コナン4世黒公
(Konan IV)
1156年–1171年
  1138年頃
初代リッシュモン伯アランベルトの1人息子
マーガレット・オブ・ハンティングダン
1160年
1女
1171年2月20日
33歳没
コンスタンス
(Konstanza)
1166年–1201年
ジョフロワ2世と共同統治
(1181年–1186年)
6代チェスター伯ラヌルフと共同統治
(1188年–1199年)
  1161年6月12日
コナン4世マーガレット・オブ・ハンティングダンの1人娘
(1) ジョフロワ2世
1181年7月
3人の子
(2) 6代チェスター伯ラヌルフ
1188年2月3日
子を儲けず
(3) ギィ・ド・トゥアール
1199年10月
2女
1201年9月5日
ナント
40歳没
ジョフロワ2世
(Jafrez II)
1181年–1186年
コンスタンスと共同統治
  1158年9月23日
イングランド王ヘンリー2世アリエノール・ダキテーヌの4男
コンスタンス
1181年7月
3人の子
1186年8月19日
パリ
27歳没
ラヌルフ
(Ranulf)
1188年–1199年
コンスタンスと共同統治[5]
  1172年頃
イングランドポーイス、モンゴメリーシャー
5代チェスター伯ユーグとベルトラード・ド・モンフォールの一人息子
(1) コンスタンス
1188年2月3日
子を儲けず、1199年離婚
(2) クレマンス・ド・フージェール
1200年10月7日以前
子を儲けず
1232年10月28日
イングランド、バークシャー、ウォリングフォード
59–60歳没

プランタジュネ家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
アルテュール1世
(Arzhur Iañ)
1196年–1203年
  1187年3月29日
ナント
ジョフロワ2世コンスタンスの1人息子
未婚 1203年4月3日
ルーアン
16歳没

ジョフロワ2世とコンスタンスの長女でアルテュール1世の唯一の姉妹で同じく未婚であったアリエノールがイングランドの地で1241年に死ぬまで監禁の身にあったことは、彼女が公位を継承するのを不可能なものとした。

トゥアール家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
アリックス
(Alis)
1203年-1221年
ピエール1世と共同統治
(1213年–1221年)
  1200年頃
ギ・ド・トゥアールとコンスタンスの長女
ピエール1世
1213年
3人の子
1221年10月21日
21歳没
ピエール1世
モークレール

(Pêr Iañ)
1213年–1221年
アリックスと共同統治
  1190年頃
ドルー伯ロベール2世とヨランド・ド・クシーの次男
(1) アリックス
1213年
3人の子

(2) ニコル
1230年頃
1人の子
(3) マルグリッド・ド・モンテーギュ
1236年1月以前
子を儲けず

1250年7月6日
ダミエッタ海上
59–60歳没

カペティエンヌ・ド・ドルー家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
ジャン1世
赤毛公

(Yann Iañ ar Ruz)
1221年-1286年
統治者としてピエール1世 と共同統治
(1221年–1237年)
  1217/18年頃
ピエール1世アリックスの長男
ブランシュ・ド・ナヴァール
エーヌ県シャトー=ティエリ
1236年1月16日
8人の子
1286年10月8日
モルビアン県、フェレル、イル城
67–69歳没
ジャン2世
(Yann II)
1286年–1305年
  1239年1月3/4日
ジャン1世ブランシュ・ド・ナヴァールの長男
ベアトリス・ダングルテール
ロンドンウェストミンスター寺院
1260年12月25日
8人の子
1305年11月16日
リヨン
66歳没
アルテュール2世
(Arzhur II)
1305年–1312年
  1262年7月2日
ジャン2世ベアトリス・ダングルテールの長男
(1) マリー・ド・リモージュ
トゥール
1277年
3人の子
(2) ヨランド・ド・ドルー
1292年5月
6人の子
1312年8月27日
モルビアン県、フェレル、イル城
50歳没
ジャン3世
幸運公

(Yann III)
1312年–1341年
  1286年3月8日
メーヌ=エ=ロワール県、シャントソー城
アルテュール2世とマリー・ド・リモージュの長男
(1) イザベル・ド・ヴァロワ
1298年2月18日
子を儲けず
(2) イザベル・ド・カスティーユ
ブルゴス
1310年6月21日
子を儲けず
(3) ジャンヌ・ド・サヴォワ
シャルトル
1330年3月21日
子を儲けず
1341年4月30日
カーン
55歳没
ブルターニュ継承戦争
(1341年–1364年)
ジャンヌ・ド・パンティエーヴル
(Janed)
1341年-1364年
シャルル1世と共同統治
  1319年頃
ギィ・ド・パンティヴェールとジャンヌ・ド・アヴォグールの1人娘
パリ
1337年6月4日
5人の子
1384年9月10日
ガンガン
61–62歳没
シャルル1世
(Charlez Iañ)
1341年–1364年
ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと共同統治
  1319年頃
ブロワ
ブロワ伯ギー1世とマルグリッド・ド・ヴァロワの次男
1364年9月29日
オーレー
44–45歳没

カペティエンヌ・ド・モンフォール家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
ブルターニュ継承戦争
(1341年–1364年)
ジャン・ド・モンフォール(ジャン4世)
(Yann Moñforzh)
1341年-1345年5月
  1293年頃
アルテュール2世ヨランド・ド・ドルーの1人息子
ジャンヌ・ド・フランドル
シャルトル
1329年3月
2人の子
1345年9月26日
エンヌボン、エンヌボン要塞
51–52歳没
ジャン4(5)世
征服公

(Yann IV)
1345/65年-1399年
  1339年頃
ジャン・ド・モンフォールとジャンヌ・ド・フランドルの1人息子
(1) メアリー・オブ・イングランド
オックスフォードシャー、ウッドストック、ウッドストック宮殿
1361年夏
子を儲けず
(2) ジョーン・ホランド
ロンドン
1366年3月
子を儲けず
(3) ジャンヌ・ド・ナヴァール
サレ・プレ・ゲランド
1386年10月2日
9人の子
1399年11月1/2日
ナント
59–60歳没
ジャン5(6)世
賢公

(Yann V ar Fur)
1399年–1442年
  1389年12月24日
モルビアン県ヴァンヌ、エルミーヌ城
ジャン4世ジャンヌ・ド・ナヴァールの長男
ジャンヌ・ド・フランス
パリ、オテル=サン・ポル
1396年9月19日
7人の子
1442年8月29日
ナント、マノワール・ド・ラ・トゥーシュ
52歳没
フランソワ1世
最愛公

(Frañsez Iañ)
1442年–1450年
  1414年5月11日
ヴァンヌ
ジャン5世ジャンヌ・ド・フランスの長男
(1)ヨランド・ダンジュー
アンボワーズ
1431年8月20日
1人の息子
(2) イザベル・デコス
オーレー城
1442年10月30日
2女
1450年7月17日
モルビアン県ヴァンヌ、エルミーヌ城
36歳没
ピエール2世
単純公

(Pêr II)
1450年–1457年
  1418年6月17日
ナント
ジャン5世ジャンヌ・ド・フランスの次男
フランソワーズ・ダンボワーズ
1442年頃
子を儲けず
1457年9月22日
ナント
41歳没
アルテュール3世
正義公

(Arzhur III)
1457年–1458年
  1393年8月24日
ヴァンヌ、シュシニオ城
ジャン4世ジャンヌ・ド・ナヴァールの次男
(1) マルグリッド・ド・ブルゴーニュ
ディジョン
1423年10月10日
子を儲けず
(2) ジャンヌ・ダルブレ
ネラック
1442年8月29日
子を儲けず
(3) カトリーヌ・ド・サン=ポル
1445年7月2日
子を儲けず
1458年12月26日
ナント
65歳没
フランソワ2世
(Frañsez II)
1458年–1488年
  1433年6月23日
クリッソン城
リシャール・デタンプマルグリッド・ドルレアンの長男
(1) マルグリット・ド・ブルターニュ
エルミーヌ城
1455年11月16日
1人の子
(2) マルグリット・ド・フォワ
クリッソン城
1474年6月27日
2人の娘
1488年9月9日
クエロン
55歳没
アンヌ
(Anna)
1488年–1514年
シャルル2世と共同統治
(1491年–1498年)
ルイ1世と共同統治
(1499年–1514年)
  1477年1月25日
ナント城
フランソワ2世マルグリット・ド・フォワの長女
(1) 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世
(代理人による) レンヌ大聖堂
1490年12月19日
子を儲けず
(2) フランス王シャルル8世
ランジェ城
1491年12月19日
4人の子
(3) フランス王ルイ12世
ナント城
1499年1月8日
4人の子
1514年1月9日
ブロワ城
36歳没

カペティエンヌ・ド・ヴァロワ=オルレアン家

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
シャルル2世
温厚公

(Charlez II)
1491年–1498年
アンヌと共同統治
  1470年6月30日
アンボワーズ城
フランス王ルイ11世シャルロット・ド・サヴォワの1人息子
アンヌ
ランジェ城
1491年12月19日
4人の子
1498年4月7日
アンボワーズ城
27歳没
ルイ1世
人民

父公

(Loeiz I)
1499年–1514年br />アンヌと共同統治
  1462年6月27日
ブロワ城
オルレアン公シャルル1世マリー・ド・クレーヴの1人息子
(1) ジャンヌ・ド・フランス
モントリシャール城
1476年9月8日
子を儲けず
(2) アンヌ
ナント城
1499年1月8日
4人の娘
(3) マリー・ダンクルテール
アブヴィル大聖堂
1514年10月9日
子を儲けず
1515年1月1日
パリ、オテル・ド・トゥールネール
52歳没
クロード
(Klaoda)
1514年–1524年

フランソワ1世と共同統治
(1514年–1524年)
  1499年10月14日
ロモランタン=ラントネー
フランス王ルイ12世アンヌの長女
フランソワ1世
サン=ジェルマン=アン=レー城
1514年5月18日
8人の子
1524年7月20日
ブロワ城
24歳没
フランソワ1世
(Frañsez Iañ, roue Bro-C'hall)
1514年–1524年
クロードと共同統治
(1514年–1524年)
  1494年9月12日
コニャック城
アングレーム伯シャルルルイーズ・ド・サヴォワの1人息子
(1) クロード
サン=ジェルマン=アン=レー城
1514年5月18日
8人の子
(2) レオノール・デ・アウストリア
ヴェイエン修道院
1530年8月7日
子を残さず
1547年3月31日
ランブイエ城
52歳没
フランソワ3世
(Frañsez III)
1524年–1536年
  1518年2月18日
アンボワーズ城
フランソワ1世クロードの長男
未婚 1536年8月10日
トゥルノン城
18歳没
アンリ
(Herri)
1536年–1547年
  1519年3月31日
サン=ジェルマン=アン=レー城
フランソワ1世クロードの次男
カトリーヌ・ド・メディシス
マルセイユ大聖堂
1533年10月28日
10人の子
1559年7月10日
プラース・ド・ヴォージュ
40歳没

儀礼上の称号としてブルターニュ公を名乗った人物

名前 肖像画 生誕 結婚 死去
ルイ・ド・フランス
1704年-1705年
  1704年6月25日
ヴェルサイユ宮殿
ブルゴーニュ公ルイマリー・アデライード・ド・サヴォワの長男
未婚 1705年4月13日
ヴェルサイユ宮殿
1歳没
ルイ・ド・フランス
1707年–1712年
  1707年1月8日
ヴェルサイユ宮殿
ブルゴーニュ公ルイマリー・アデライード・ド・サヴォワの次男
未婚 1712年2月18日
ヴェルサイユ宮殿
5歳没
フランソワ・ド・ブルボン
1973年–1984年
  1972年11月22日
マドリッド
ガディス公アルフォンソ・デ・ボルボーンとマリア・デル・カルメン・マルチネス=ボルディウ・イ・フランコの長男
未婚 1984年2月7日
パンプローナ
11歳没

ブルターニュ公家(ナント家~トゥアール家)系図

 
ロシーユ
(ブロワ伯ティボー1世姉妹)
 
アラン2世巻髭公
(c.900-952)
反ノルマンの指導者
ナント占領937年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ドロゴ
 
庶子
オエル1世
 
庶子
グエレス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コナン1世背曲公
レンヌ伯
 
エルマンガルド
(アンジュー伯ジョフロワ1世娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
庶子
ジュディカエル
ナント伯
 
アラン
 
 
 
 
 
 
 
アヴォワーズ
(ノルマンディー公リシャール1世娘)
 
ジョフロワ1世
 
ジュディット
(982-1017)
=ノルマンディー公リシャール2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブディク
ナント伯
 
ジュディット
ナント女伯
 
 
 
 
 
アラン
コルヌアイユ伯
 
 
 
アラン3世
 
ベルト
(ブロワ伯ウード2世娘)
 
ユーグ4世
(-1051)
メーヌ伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アニェス
=エオン1世
 
オエル2世
コルヌアイユ伯
 
 
 
 
 
アヴォワーズ
 
コナン2世
 
メーヌ伯家
 
 
 
エオン1世
パンティエーヴル伯
 
アニェス
(オエル2世姉妹)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コンスタンス
(イングランド王ウィリアム1世娘)
 
アラン4世
 
エルマンガルド
(アンジュー伯フルク4世娘)
 
 
 
ジョフロワ1世
パンティエーヴル伯
 
ブライアン
コーンウォール伯
 
アラン(赤卿)
リッチモンドの領主
 
アラン(黒卿)
リッチモンドの領主
 
スティーブン
リッチモンドの領主
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マティルダ
(イングランド王ヘンリー1世庶子)
 
コナン3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オド2世
ポルオエ子爵
 
ベルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アラン(黒伯)
初代リッチモンド伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コナン4世
 
マーガレット
(ハンティンドン伯ヘンリー娘)
 
ハンフリー3世・ド・ブーン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョフロワ2世
(イングランド王ヘンリー2世子)
 
コンスタンス
 
ギー・ド・トゥアール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルテュール1世
 
アリックス
 
ピエール1世
(ドルー伯ロベール2世子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ドルー家
 

脚注

  1. ^ John Le Patourel, Feudal Empires: Norman and Plantagenet; ed. Michael Jones, (The Hambledon Press, 1984), p. 241.
  2. ^ Michael Jones, The Creation of Brittany, (The Hambledon Press, 1988), 4.
  3. ^ Michael Jones, The Creation of Brittany, 4.
  4. ^ Michael Jones, The Creation of Brittany, 287.
  5. ^ ただしラヌルフはブルターニュ公の称号を終始一貫用いておらず、公国を統治したこともなく、同地で重要な役割を果たしたことは知られていない。

外部リンク

  • BRITTANY, Medieval Lands

関連項目

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