ニッポン号(にっぽんごう)は、第二次世界大戦前期における日本の民間航空機。1939年(昭和14年)に日本製の航空機で初めて四大陸と二大洋を連続周航した。機体記号は「J-BACI」。
開発
1937年(昭和12年)の東京朝日新聞による(神風号)の東京-ロンドン間長距離飛行に刺激された毎日新聞社(大阪毎日・東京日日)は、これに対抗して世界一周飛行を企画した[1]。大日本帝国陸軍の機体だった神風号に対抗して、毎日新聞社は大日本帝国海軍の機体の払い下げを希望した[1]。当初は新鋭機の払い下げを渋った海軍だったが、山本五十六中将の許可で払い下げられた三菱重工業製の九六式陸上攻撃機二一型第328号機が、長距離飛行のために改装されることとなった。
設計
ニッポン号に使用された九六式陸上攻撃機は、銃座や爆弾槽を取り外し座席を取り付けた(三菱式双発輸送機)を長距離連絡運輸用のために改装した機体である。当時最新の自動操縦機能を装備したほか、外翼内に容量1,400Lの燃料タンクが増設されており、長距離に耐えるように燃料5,200Lを積み、24時間飛行が可能だった。
長距離飛行
乗員は中尾純利機長・下川一機関士・佐藤信貞通信士・吉田重雄操縦士・佐伯弘技術士・八百川長作機関士に毎日新聞社の大原武夫航空部長を親善使節として加えた総勢7名であった。
ニッポン号は1939年(昭和14年)8月26日午前10時27分に東京市蒲田区(現 東京都大田区)の羽田飛行場(現 東京国際空港)を離陸し、東回りで太平洋→北米大陸→南米大陸→大西洋→アフリカ大陸→(ユーラシア大陸)のルートで巡り、55日後の10月20日に帰国した。総飛行距離52,886 km(52,860 kmとも)。羽田から千歳まで約3時間、千歳から北太平洋を渡り、アラスカまでの4,340kmを15時間48分で飛行した。国際親善を目的としたニッポン号がアメリカ国内を飛行中、皮肉にもドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発したため、コースの変更を余儀なくされた[1]。それでも、各寄航地では日本移民等により熱烈な歓迎を受けた。
飛行後は「暁星(明星とも)」と改名し、毎日新聞が中国大陸との連絡に使ったが、終戦の1945年(昭和20年)8月に行った大阪から所沢のフライトを最後に、進駐軍によって接収、破棄された。
飛行ルート
地名および国名は現在の名称
- 予定
- 東京→根室→(太平洋)→ノーム(米国)→ホワイトホース(カナダ)→バンクーバー(カナダ)→シアトル(米国)→オークランド(米国)→サンフランシスコ(米国)→ロサンゼルス(米国)→シカゴ(米国)→ニューヨーク(米国)→ワシントンD.C.(米国)→マイアミ(米国)→サンホセ(コスタリカ)→グアヤキル(エクアドル)→リマ(ペルー)→アリカ(チリ)→サンティアゴ(チリ)→ブエノスアイレス(アルゼンチン)→サンパウロ(ブラジル)→リオデジャネイロ(ブラジル)→ナタール(ブラジル)→(大西洋)→ダカール(セネガル)→カサブランカ(モロッコ)→マドリード(スペイン)→パリ(フランス)→ロンドン(イギリス)→ベルリン(ドイツ)→ローマ(イタリア)→バグダッド(イラク)→カラチ(パキスタン)→ジョードプル(インド)→バンコク(タイ)→台北(台湾)→東京[2]
諸元(三菱式双発輸送機)
- 全長:16.5 m
- 全幅:25.0 m
- 全高:4.5 m
- 主翼面積:75.0 m2
- 全備重量:9,200 kg
- エンジン:三菱 金星 空冷複列星型14気筒(900 hp) × 2
- 最大速度:340 km/h
- 巡航速度:280 km/h
- 実用上昇限度:8,000 m
- 航続距離:3,500 km
- 乗員:6名
- 乗客:4名
関連作品
楽曲
毎日新聞社は本機の飛行に際して壮行歌の歌詞を一般から募集しており、入選した歌詞を元にした楽曲は、1939年8月6日に「世界一周大飛行の歌」(作詞:(掛川俊夫)、作曲:橋本国彦)として発表された[4]。
記念碑
ニッポン号の世界一周飛行記念碑が東京国際空港の毎日新聞社格納庫前に現存する[1]。
切手
2000年(平成12年)3月、郵政省は「20世紀デザイン切手」第8集で神風号とニッポン号をあしらった2枚組50円切手を発行した[5]。
参考文献
- 毎日新聞ウェブページ・ニッポン号:世界一周の快挙から70年
- (野沢正) 『日本航空機総集 三菱篇』 (出版協同社)、1961年、235・236頁。(全国書誌番号):(53009883)。
脚注
外部リンク
- 『ニツポン世界一周大飛行』 大阪毎日新聞社/東京日日新聞社編 大阪毎日新聞社 , 昭15 近代デジタルライブラリー
- ニツポン世界一周大飛行記録図
- 国産飛行機「ニッポン号」世界一周 - (NHK放送史)