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ディープ・パープル

ディープ・パープル英語: Deep Purple)は、イングランドハードロック・バンド。

ディープ・パープル

ドイツ シュパルト公演(2022年)
基本情報
出身地 イングランド ハートフォード
ジャンル
活動期間
レーベル
公式サイト ディープ・パープル公式サイト
メンバー
旧メンバー

日本ではレッド・ツェッペリンと並びハードロック・バンドの代表格の一つに数えられ、後のハードロック、ヘビーメタル・バンドにも大きな影響を与えた。いくつかの段階に分けられるがバンドとしての結成は1968年である。1976年に一度解散している[4]が、1984年に再結成した。2016年度に「ロックの殿堂」入りを果たした。

概要

ボーカル/ベース/ギター/キーボード(特にハモンド・オルガン)/ドラムというメンバー構成で、ラウドなサウンドを使った演奏を繰り広げるハードロックの有名バンドである。代表曲には「ハッシュ」「ブラック・ナイト」「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「紫の炎」(バーン)、「ウーマン・フロム・トーキョー」「スペース・トラッキン」「スピード・キング」「チャイルド・イン・タイム[5]などがある。アルバムセールスは、全世界で1億枚を突破している。

現ラインナップ

※2023年2月時点

バンドの歴史

結成

本バンドの前身となったのは、サーチャーズ (The Searchers)の元メンバーでドラムとボーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が結成を企図したラウンドアバウトというバンドである。

クリス・カーティスが最初にメンバーとして考えたのは、当時同じアパートに住んでいた[6]ジョン・ロードである。また、この時期の前後に、クリス・カーティスはトニー・エドワーズ (Tony Edwards) にマネージャーの就任を打診した。この当時、トニー・エドワーズはファッション関係の仕事をしていたが、同時にエイシア(Ayshea)という女性シンガーのマネージャーも手がけており、その関係でクリス・カーティスと知己があった。更にトニー・エドワーズの誘いによって、広告関係の仕事に携わっていたジョン・コレッタ (John Coletta) もマネージャーに加わり、ビジネス面での態勢は早くから整いつつあった(この当時、2人は5,000ポンドをバンドに投資しており、以後もビジネス面で様々な貢献を遂げている。今日に至るまで、この2人のマネージャーがバンドに果たした役割は非常に大きいと評価されている[7])。

一方、メンバーの人選は難航した。ジョン・ロードに続いて、当時ハンブルクで主にセッション活動をしていたギタリストのリッチー・ブラックモアにグループ加入を要請したものの、なかなか他のメンバーは定まらず、それでも特にマネージャーの2人が熱心にメンバー探しに奔走したが、ボビー・‘ウッドマン’・クラークがドラマーに選ばれた以外は進展せず、結局4人で活動を開始することになった。しかし、この陣容の人間関係は非常に不安定だったといわれており、更にバンドの発起人であるクリス・カーティスが失踪したことが重なり、ラウンドアバウトは一旦消滅した。しかし数ヵ月後、マネージャーの2人とロード、ブラックモアが再び集結し、ニック・シンパーをベースに、シンガーをオーディションによって選出した結果ロッド・エヴァンスにそれぞれ採用する。またロッド・エヴァンスのオーディションに同行していたのが同じメイズ (The Maze) というバンドにいたイアン・ペイスである。ブラックモアがハンブルクでペイスのプレイに接しており、その力量を十分に把握していたため[7]、バンドは初代ドラマーのボビー・クラークを解雇し、ペイスを迎入れた。

第1期 1968年 - 1969年

 
オリジナル・ラインナップ (1968年)

1968年3月、バンドのマネージメントを担当するヘック・エンタープライズ (HEC Enterprises)が設立され、同時にバンド名をディープ・パープルと改めた。バンド名は、ブラックモアの祖母が好んでいたピーター・デローズ(Peter De Rose)というピアニストの同名の曲(ラリー・クリントンとオーケストラ(Larry Clintonが1939年にヒットさせた。1963年にニノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズのバージョン「夢のディープ・パープル」が全米1位を記録)から、引用し名付けた[8]といわれている。後述のデビュー・シングルや当時のロックの状況から、ドラッグとの関連で名づけられたという説もあるが、ディープ・パープル側は否定しているとされている。

レコード会社との交渉は難航し、結局はブラックモアの人脈から、プロデューサーのデレク・ローレンスを通じてテトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) というアメリカの小さなレコード会社と契約した。

1968年5月、デビュー・アルバムの『ハッシュ』(発売当時の邦題は『紫の世界』)が発売され、6月には、ジョー・サウス (Joe South) の曲をカバーした「ハッシュ (Hush)」がシングル・カットして発売された。このシングルは9月の『ビルボード』誌でシングル・チャート第4位を記録するヒットとなり、新人バンドとしては異例と言われるほどの順調なスタートを切った[注 1]。この時期は、まだハード・ロック・サウンドには、なっていない。

ディープ・パープルの初演は、1968年8月にイギリスで開催された「第8回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル」と記録されている[7]

10月、セカンド・アルバムの『詩人タリエシンの世界』(発売当時の邦題は『ディープ・パープルの華麗なる世界』)がアメリカで発売された。同月には渡米して数々のライブを行い、フェアウェル・ツアーを行っていたクリームの前座も務めている。ハッシュのヒットによって必然的にアメリカでの活動が重視され、一時的な帰国を挟んで翌1969年3月までアメリカ・ツアーが行われた。『詩人タリエシンの世界』からもケンタッキー・ウーマン[注 2]がシングル・カットされて38位まで上昇、アルバム自体も40位まで上昇した。なお、本国イギリスでは同アルバムは翌1969年6月にハーヴェスト・レコードからリリースされている。

バンド内で意見の対立が表面化したのは、1969年の前半からだと言われている[7]。コメントする者の意思や立場によって、状況の説明が著しく食い違うため、第三者による明確な把握は困難とされているが、その中にあって、同年3月頃に、ベースのニック・シンパーとボーカルのロッド・エヴァンスがバンドから「離れる」に至った点、及びニック・シンパーがそれを不服として訴訟を起こしたという点は万人が認める事実となった。また、これと平行してもうひとつの問題が浮上した。アメリカでは1969年6月にサード・アルバム『ディープ・パープル III』(発売当時の邦題は『素晴らしきアート・ロックの世界』)がリリースされたが、その直後にテトラグラマトン・レコードが倒産し、ディープ・パープルはアメリカでのレコードの発売元を失った。この件もまた訴訟沙汰となっているが、同年暮れにワーナー・ブラザース・レコードと契約を結ぶことが出来た。結果として、この事件が幸いとなり、遥かに大きな規模のレコード会社への移籍が出来たことになる[6]

この当時の音楽性は、ヴァニラ・ファッジやクリーム、ジミ・ヘンドリックスに影響されたサウンドで、曲によってはクラシカルなアレンジを施していた。コンサートでは、クラシックをベースとした20分以上もの即興演奏をこなし、後のプログレッシブ・ロックにつながるクラシカルなロックも演奏していた。第1期ディープ・パープルが残した3枚のアルバムは、その独自の世界観を構築していた。この当時のディープ・パープルは、「ハッシュ」というヒット曲を持つコンパクトなロックを演奏するグループという印象で、一般のロック・ファンには人気だったが、ハードロック・ファンにとってはもの足りない部分も存在した[6]

第2期 1969年 - 1973年

 
第2期ラインナップ (1972年)

1969年の中頃、リッチー・ブラックモアのジ・アウトローズ (The Outlaws) 時代からの旧友であるミック・アンダーウッド (Mick Underwood) の紹介によってエピソード・シックス (Episode Six) のボーカリストであるイアン・ギランが新たにメンバーに加わった。また、同行していたベーシスト(兼プロデューサー)のロジャー・グローヴァーも同時加入が決まった[注 3]こうして、ラインナップを一新したバンドは急遽「ハレルヤ/hallelujah」をレコーディングし前述の倒産状態であったテトラグラマトン・レーベルに残す形でリリースする。

この時期、英米のロック・シーンはレッド・ツェッペリンの、当時は斬新だったハードロック・サウンドに注目が集まっていた。これに注目したブラックモアは、よりハードなサウンドをバンドに導入することを提案したが、ロードは「せっかく軌道に乗り始めたクラシックとの協調路線を台無しにする必要はどこにもない」と猛反対し、第1期の流れをくんだ幻想的なサウンドをバンドに要求したと伝えられている[7][注 4]。最初に進むべき方向を提示したのはロードであり、1969年9月24日、ディープ・パープルはロイヤル・アルバート・ホールで作曲家のマルコム・アーノルドが指揮するロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラと共演して、ロードが作曲した「グループとオーケストラのための協奏曲」[9][注 5]を披露し、同年12月にライブ・アルバム『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』をリリースした。このアルバムは翌年の『メロディー・メーカー』誌のアルバム人気投票で9位に選ばれた。なお、ブラックモアは後年、この共演に関して、「物珍しいだけのコケおどしで、二度とやりたくない」と語っている[要出典][注 6]

話し合いでは根本的な解決が困難だと結論したブラックモアは、『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』が完成した後、一度だけハードロックを志向するアルバムを作ってファンの反応をみたいと提案した。ロードはそれを承服し、次回作の主導権をブラックモアに託した[7]。こうして1970年に入って新作アルバムのレコーディングが開始され、本国イギリスで6月20日に、『ディープ・パープル・イン・ロック』というタイトルで発売された[注 7]。このアルバムはイギリスチャート4位に入り、さらにプロモーション用にレコーディングしたシングル曲の「ブラック・ナイト」がイギリスで2位を獲得した。ただし、アメリカでは両方とも売れなかった。日本ではこの曲がラジオでヒットした。なお、日本では「ブラック・ナイト」がシングルとして1971年に発売され、スマッシュ・ヒットしている。

この結果、ディープ・パープルはハードロック路線を進むことが決定し、バンドの楽曲制作はブラックモアが主体となって行うことが自然に決まった。ロードは作曲面では基本的に身を引く形となり[注 8]、逆に『ジェミニ組曲』(Gemini Suite)[9][注 9]や『ウィンドウ組曲』(Windows)[注 10]などのソロ作品に創作意欲を振り向けるようになった。

1971年9月、ハード・ロック・アルバムとしては第2弾となる『ファイアボール』 が発売され、全英で1位を獲得した。ただし、ブラックモアはこのアルバムに対して、スケジュールの厳しさによって録音期間もなければメンバーの健康状態も悪かったと不満の意を表している[7]。そのため、次のアルバムは納得のいく環境で制作することを要求し、1971年12月、スイスのモントルーにあるジェネバ湖(レマン湖)のほとりにあるホテルでゆっくりと英気を養いながら、対岸にある6角形をしたカジノでモービル・ユニットを使って録音する予定だった。ところがディープ・パープルがカジノを使用する直前の12月4日、(フランク・ザッパ)が率いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのコンサートで興奮した観客のひとりが木製の天井に向かって銃(一説では発光弾と言われている)を撃ったので、火災が発生してカジノは全焼してしまった。

不幸な事件だったが、ここでひとつの伝説が生まれた。ホテルの窓から湖の上に煙が立ち込める様子を見ていたギランが、隣にいたグローヴァーに向かって不意に「スモーク・オン・ザ・ウォーター」という単語を発した。それを聞いたグローヴァーは、その時はドラッグを連想するからディープ・パープル向きでは無いと思ったと言われている(発言した方と聞いた方が逆という説もある。DVD『Heavy Metal Pioneers』の中のインタヴューでは、グローヴァーが「朝、起き上がって"Smoke on the Water"とつぶやいた。他に誰もいない部屋の中で、誰に向かって。夢だったかもしれない。で、そのあとイアン(ギラン)にその話をした」と発言している)。しかし、やがて彼らの中で次第にこの言葉が膨らみ始め、ブラックモアが書いた印象的なリフと融合して、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が誕生した。先にベーシック・トラックが完成したこの曲(パヴィリオンでレコーディング)も含めて、12月6日から21日までに宿泊していたホテルの廊下で録音された事でも有名な『マシン・ヘッド』が完成、翌年2月にアメリカで、イギリスでは3月に、ヨーロッパ各国や日本でも順次発売されてヒットを記録した。だが、人気が上昇するにつれてレコーディングとツアーは一段と過酷なものになり、メンバーの健康状態も次第に下降線をたどることになる。5月に予定されていた来日ツアーは延期され、(この時、解散の噂が流れている)その後ようやく全員が健康を回復してツアーが再開されたものの、各自の不安と不満は募る一方だった。

1972年8月には来日を果たし、15/16日に大阪フェスティバルホールで、17日には日本武道館でコンサートが開催された。この日本公演を録音した『ライヴ・イン・ジャパン』は12月に日本限定で発売されたが、その出来の良さが気に入られ、海外でも『メイド・イン・ジャパン』というタイトルでリリースされ、プラチナディスクを獲得している。このアルバムからシングルカットされた「スモーク・オン・ザ・ウォーター」がアメリカで大ヒット(4位)し、ようやくバンドはアメリカでもブレイクした。

一方、『マシン・ヘッド』に続く新作のスタジオ・アルバム『紫の肖像』の制作は難航を極めていた。メンバーの疲労蓄積とスケジュールに対する不満が根底にあるといわれている。それでもイアン・ペイスによってミキシングが行われ、『ライヴ・イン・ジャパン』とほぼ同時期の1973年初頭にリリースされた。しかし評判はそれほど高くなく、最初にシングル・カットされた「ウーマン・フロム・トーキョー」は、「ハイウェイ・スター」ほどのヒットにはならなかった[7]

メンバー間の不仲とツアーの連続による肉体的疲労は、もはや修復が不能な段階まで来ていたといわれている。まずグローヴァーがスケジュールの不満から脱退を口にする様になり、これと平行してブラックモアがギランのボーカルに不満を感じる様になっていた。ギランもマネージメント側に脱退を表明し、ブラックモアもペイスを誘って脱退することを考える。だが今までの成功を失いたくないペイスとロードに説得され、ブラックモアはバンドに留まることを決意する(その説得とは、ギランはまもなく辞めるし、グローヴァーもクビにするから、と言うものだったようだが、真相は明らかでは無い。またブラックモアがグローヴァーに対して音楽的な不満を持っていたという説は、後にグローヴァーがレインボーに加入した点を考慮すると説得力に欠ける。だが事実として、ギランとグローヴァーは1973年6月29日、二度目の日本公演最終日を最後に脱退している。また、後にブラックモアは「ロジャーにはすまないことをした。ロジャーは良い奴だ」とコメントしている)。

第3期 1973年 - 1975年

 
第3期ラインナップ (1975年)

新メンバー探しは1973年の3月頃より始まっていたと伝えられている[7]。まずイアン・ペイスとジョン・ロードが熱心に誘ったのが、トラピーズのベース兼ボーカルだったグレン・ヒューズだった。当初グレン・ヒューズはトラピーズを脱退できないという気持ちに加え、ボーカリストとして自信を持っていたため、勧誘の際にもボーカリストとして認めて欲しいと条件を出した。ただし、この時点でリッチー・ブラックモアは、グレン・ヒューズと発声も歌唱方法も異なる元フリーポール・ロジャースを理想のボーカリストとして考えており[7]、実際にポール・ロジャースに加入も要請した。この食い違いによってグレン・ヒューズとの交渉は難航。さらにポール・ロジャースが最終的に要請を断り、自身のバンドであるバッド・カンパニーを結成して活動を開始したため、ディープ・パープルは一歩間違えれば解散という状態に追い込まれていた。結局、ボーカリストは一般から募集することになり、4000人以上ともいわれる応募者の中から、当時はまったく無名だったデイヴィッド・カヴァデールが選ばれ、第3期ディープ・パープルがスタートする。

1974年2月、このメンバーによる初のアルバム『紫の炎』が発売された。後にリッチー・ブラックモアが「納得して制作できた」とコメントした数少ないアルバムであり、シングル・カットされた「紫の炎」に加え、パープル解散以降もデイヴィッド・カヴァデールやレインボーロニー・ジェイムス・ディオらによって唄い継がれていく「ミストゥリーテッド」などが収録され、成功を収めた。また、第2期のハードロック路線に加えて、グレン・ヒューズの主張が濃いとされるファンキー・サウンドの「ユー・フール・ノー・ワン」やシンセサイザーを大幅に導入した「A200('A' 200)」など、「新メンバーの力量や新要素が巧みに発揮された傑作」とされている。このアルバムの発売直後である4月、ロスアンゼルスのオンタリオ・モーター・スピードウェイで行われた「カリフォルニア・ジャム」に、日没後最初の出演バンド(エマーソン・レイク・アンド・パーマーの前)として登場し、約20万人と伝えられる聴衆の前で演奏を行った。この時の演奏は特に評価が高く、この映像は現在でもDVDソフトとして購入することが可能。

しかし、この好調さも、1974年の8月に制作が開始された『嵐の使者』の頃には失われていた。特にハードロックを志向するリッチー・ブラックモアに対して、新加入のデイヴィッド・カヴァデールやグレン・ヒューズがディープ・パープルにソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素をより多く持ち込もうとしていたことがきっかけとなり[7]、リッチー・ブラックモアは次第にディープ・パープルでの活動に対して意欲を失っていった。このアルバムが発売された10月、予定されていたアメリカ公演が中止となって空白期間が生じたため、リッチー・ブラックモアはかねてより計画していたソロ・シングルの制作を開始。以前から気に入っていた「エルフ」と供に「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー/16世紀のグリーンスリーブス」を完成させるが、これがリッチー・ブラックモアにとって期待以上の出来だったため、脱退してエルフのメンバーと新バンド「レインボー」(当初はリッチー・ブラックモアズ・レインボーと名乗った)を結成することを決意した。「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」はイギリスのバンド、クォーターマスの曲で、この曲をディープ・パープルにてカバーすることをリッチー・ブラックモアが提案したが、カバーはダメだとする他のメンバーとの意見の相違が彼の脱退のキッカケであったとされている。

最初にリッチー・ブラックモアから打ち明けられた当時のマネージャーであるロブ・クックジーも、そしてその後に打ち明けられたメンバーも、当然ながら慰留に努めたが、決意は変わらず、1975年4月7日のパリでのライブを最後に脱退した(1976年、ライブ・アルバム『メイド・イン・ヨーロッパ』が発売され、4月7日の演奏が収録されている。ただし、どの曲かは記載されていない。ちなみに全ての演奏が4月4日 - 4月7日に収録されていると記載されている。

リッチー・ブラックモアの脱退は、それ以後の方針が決定しなかったため6月まで公表されなかったが、一部の音楽マスコミは4月8日の段階でスクープとして報じていた[7]

第4期 1975年 - 1976年

 
第4期ラインナップ (1976年)
  • ジョン・ロード
  • トミー・ボーリン (Tommy Bolin) - ギター、コーラス
  • イアン・ペイス
  • グレン・ヒューズ
  • デイヴィッド・カヴァデール

リッチー・ブラックモアの後任は、過日のデイヴィッド・カヴァデールやグレン・ヒューズ以上に難航し、元ハンブル・パイデイブ「クレム」クレムソン (Clem Clempson) がオーディションを受けたり、セッションは実現しなかったもののジェフ・ベックが候補に挙がるなど混乱を極めていた[7]。結局、デイヴィッド・カヴァデールの発案[6]で元ジェイムズ・ギャング (James Gang) のギタリストだったトミー・ボーリンが加入し、第4期のメンバーが決定した。ちなみにトミー・ボーリンは初めてのアメリカ人メンバーであった。

1975年10月、アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』が発表されるが、その音楽性の変転はファンに戸惑いを感じさせるのに十分だといわれ、多くの批判の声が挙がった。それでも11月のハワイでのコンサートを皮切りに、東南アジアまでを含めた大規模なツアーが敢行され、どこも盛況であったと伝えられている。ジャカルタでは2日で約10万人の観客が集まり暴動にまで発展、スタッフの1人が殺害されるという痛ましい事件も発生したが、ツアーは続行され、1975年12月、3度目の来日が実現した。客席は超満員だったが、トミー・ボーリンが左手を寝違えたため(と、当時はアナウンスされていた[6]が、実際は東南アジアで品質の悪いヘロインを注射したため)にほとんど動かず、ボトルネックギターの演奏に終始するという不本意な結果に終わった。続くアメリカン・ツアーは問題無く終了するも、本国イギリス公演にてマスコミやファンに激しく叩かれた彼らは、やがて空中分解状態となった。

まずデイヴィッド・カヴァデールが「こんな状態では何もできない」と言って1976年5月に辞意をジョン・ロードに伝え(ただし、この時点では正式には発表されていない)、さらに7月8日にトミー・ボーリンが脱退。グレン・ヒューズもトラピーズの再編を含めた別行動の意思を表していた。7月18日に、ジョン・ロードとパープル・オフィス間の話し合いで解散を決定。翌19日、どこで嗅ぎ付けたのか、イギリスの新聞デイリー・ミラーが“ディープ・パープル解散”をスクープ。こうして7月24日、事務所より解散が正式に発表された[10]

解散時に正式なコメントを残していないジョン・ロードは、後に「ディープ・パープルを名乗るべきではなかった」との旨の発言をしている。

解散後のメンバーはそれぞれ別の道を歩み始めた。デイヴィッド・カヴァデールは、念願だったソロ・アルバム2枚の発表の後、ホワイトスネイクを結成。グレン・ヒューズはヒューズ/スロールで活動を開始した。ジョン・ロードとイアン・ペイスは、(ペイス・アシュトン・ロード)を経て、カヴァデールのホワイトスネイクに合流。そしてトミー・ボーリンは、ソロ・アルバムを制作し、自身のバンドを結成して、ライブ活動も展開するが、同年12月4日、ドラッグの過剰摂取により死去した。

こうしてディープ・パープルは、1984年の再結成まで、音楽シーンから姿を消すこととなる(なお、この空白期間中の1980年に、ロッド・エヴァンスが無名のミュージシャンを集めてディープ・パープルと名乗りライブ活動を行うという、いわゆる「偽ディープ・パープル事件」が発生した。詳細はロッド・エヴァンスを参照)。

再結成以降(1984年 - )

第5期(再結成第2期) 1984年4月 - 1989年5月

 
第5期ラインナップでのライブ (1985年1月)
  • ジョン・ロード
  • リッチー・ブラックモア
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

約8年間のブランクを経た1984年、ディープ・パープルは「黄金期」といわれる第2期のメンバーで再結成した。この時期、アメリカを中心に世界的なヘヴィメタル・ブームが起こっており、その中でディープ・パープルはその元祖として歓迎された。なお、前年の1983年にも再結成が計画されたが、メンバーの足並みが揃わず見送られている。レインボーの『ストリート・オブ・ドリームス』の一部の曲は、再結成ディープ・パープルのために作られた曲の流用である。

なお、この再結成によって各メンバーがそれまで関わっていたバンドは相当の打撃を受けた。まず、リーダーであるリッチー・ブラックモア、ロジャー・グローヴァーが抜けたレインボーは解散を余儀なくされ、活動が軌道に乗り始めたばかりのホワイトスネイクもジョン・ロードの脱退で痛手を負う。イアン・ギランはブラック・サバスを、イアン・ペイスはゲイリー・ムーア・バンドを去る。またホワイトスネイクのリーダーで、ディープ・パープル第3期、4期にてヴォーカリストを務めたデイヴィッド・カヴァデールは、この再結成をかなり辛辣に批判し「再結成は金が目当て」と吐き捨てている[7]。(リッチー・ブラックモアは当初、この発言に対しジョークを交えて否定的な対応をとっていたが、90年代後半以降から肯定的な態度をとり、リッチー自身も金が目当ての再結成だったことを認めている)

1984年11月、再結成アルバム第一作『パーフェクト・ストレンジャーズ』(Perfect Strangers)がリリースされた。内容はレインボーと二期パープルの長所を折衷した傑作と高い評価を受ける。更に1987年に『ハウス・オブ・ブルー・ライト』(The House of Blue Light)、1988年にはライブ・アルバム『ノーバディーズ・パーフェクト』(Nobody's Perfect) をリリースし、数年に渡って順調に活動が続いていた。しかし水面下ではブラックモアとギランの関係は悪化しており、『ハウス・オブ・ブルー・ライト』制作前にはギランは脱退寸前であった。ブラックモアは当時アメリカの無名の若手ボーカリストだったジョン・コラビに目をつけ、加入させようとしていたが、ギランが復帰を表明し、ジョンの加入は中止となった。『ハウス・オブ・ブルー・ライト』の発売が延期されたのも、ギランの脱退未遂が影響していた。

第6期 1989年12月 - 1992年8月

 
ジョー・リン・ターナー
  • ジョン・ロード
  • リッチー・ブラックモア
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • ジョー・リン・ターナー (Joe Lynn Turner) - ボーカル

ここでまたメンバー間の不仲が起き、(前作、『ハウス・オブ・ブルー・ライト』のレコーディング前から既にギランとリッチーの確執があった)イアン・ギランが脱退。代わりに元レインボーのジョー・リン・ターナーが加入。彼を迎えたアルバム『スレイヴス・アンド・マスターズ』(Slaves and Masters)は、レインボーの再現的な音楽性になる、との大方の予想を覆す、現代的なハードロック・アルバムとして安心して聴ける佳作に仕上がったと評された。

第7期(再々結成第2期) 1992年8月 - 1993年11月

  • ジョン・ロード
  • リッチー・ブラックモア
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

当初は第6期のメンバーで作成していたものの、ジョー・リン・ターナーが脱退(ジョーと他のメンバーの間に確執が起こり、リッチーもやむ無く了承したためと言われている)。後任のシンガー探しに紆余曲折あったが、バンド結成25周年の名目でイアン・ギランが復帰(これにはマネジメント側の意向が強くあったとされる)。この時点でアルバムはほぼ完成していたが、イアン・ギランとロジャー・グローヴァーが歌メロと歌詞を無理やり書き直し、1993年7月に『紫の聖戦』(The Battle Rages On) をリリースする。この段階でリッチー・ブラックモアとイアン・ギランの不仲は決定的になったと伝えられており、来日公演が翌月に迫っていた11月、リッチー・ブラックモアが脱退した。

第7.5期 1993年12月 - 1994年7月

  • ジョン・ロード
  • ジョー・サトリアーニ (Joe Satriani) - ギター
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

日本ツアーをプロモートしていたウドー音楽事務所の提案で、ブラックモアの代役としてジョー・サトリアーニがサポートとして参加。参加要請から日本公演までわずかの時間しかなかったが、サトリアーニはもともと実力者である上にパープルの大ファンであったため、来日から2日ほどのリハーサルでバンドとフィットできた。日本公演を成功裏に終わらせたバンドは、翌年のヨーロッパ・ツアーにもサトリアーニを帯同させる。そのまま正式メンバーとして迎える案もあったが、すでにサトリアーニはソロ・ミュージシャンのキャリアも積み上げつつあったため、実現しなかった[11]

第8期 1994年11月 - 2002年2月

 
スティーヴ・モーズ
  • ジョン・ロード
  • スティーヴ・モーズ (Steve Morse) - ギター
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

ソロ活動やディキシー・ドレッグスカンサスなどで高い評価を得ていたスティーヴ・モーズが、ディープ・パープル以外の活動を認める、という条件で加入。1996年2月には『紫の証』(Purpendicular)を、さらに1998年6月には『アバンダン』(Abandon)を発表。

なお、1999年、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの共演30周年を記念したコンサートが、当時と同じくロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催され、「グループとオーケストラのための協奏曲」が再演された。フォロー・ボーカルとしてロニー・ジェイムス・ディオが参加して「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を歌った。この模様はDVD化されている。

第9期 2002年3月 - 2022年7月

 
第9期ラインナップ (2004年)
  • ドン・エイリー (Don Airey) - キーボード
  • スティーヴ・モーズ
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

肉体的な問題からジョン・ロードが脱退して(イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァーと対立したという説もある)、オリジナルメンバーはイアン・ペイス唯一人となった。代わりにコロシアムII、レインボーやオジー・オズボーン・バンドなどの活動で有名なドン・エイリーが加入し現在に至る[注 11]

2003年、エイリー加入後のアルバム『バナナズ』(Bananas)、2005年には『ラプチャー・オブ・ザ・ディープ』(Rapture of the Deep)を発表。『ラプチャー・オブ・ザ・ディープ』のツアーは2011年まで続き、2009年の来日公演(イングヴェイ・マルムスティーンとのジョイント・ツアー)ではロードがゲストで参加した。来日公演ではこれが最後であった。

 
2011年のグループショット

2012年、ロードが膵臓癌の闘病中に肺塞栓症との合併症を引き起こし、死去。71歳没。

2013年、19thアルバム『』(Now What?!)をリリース。

2014年4月、武道館公演を含む来日公演が実施された。

2016年5月、日本武道館を含む、全国7か所で来日ツアー公演が決定。Vo.イアン・ギラン、B.ロジャー・グローヴァーは70歳を迎えての来日公演。

2017年、節目の20thアルバム『インフィニット』を発表[12]

2018年10月、The Long Good-Bye ツアー、来日。千葉(幕張メッセ)、名古屋、大阪、広島、福岡で公演。

2020年2月29日、新曲『(Throw My Bones)』がオンライン発売。同時に新アルバムが6月に発売されることも発表された[13]。しかし実際にはCOVID-19の影響により発売は延期された[14]

2020年8月7日、発売が延期されていた新アルバム『(Whoosh!)』((ウーッシュ!))が発売された。

2022年3月31日、病を患っている妻に付き添うため、スティーヴ・モーズがツアーから一時離脱し、同年5月~7月に予定されているヨーロッパツアーにはドン・エイリーの人脈から、サイモン・マクブライドがサポート参加することを発表。この時点ではモーズは妻の健康状態が良くなり次第ツアーに復帰する意向[15]とされていたが、同年7月23日に、前述の事情により今後もバンドへの参加が難しい状況が続くことを理由に正式に脱退することが、公式SNSを通じて発表された[16]

第10期 2022年9月 -

 
第10期ラインナップのライブ (2022年)
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン
  • ドン・エイリー
  • サイモン・マクブライド (Simon McBride) - ギター

2022年9月16日、同年5月のツアーからサポート・ギタリストとして参加していたサイモン・マクブライドが、モーズの後任として正式加入[17]


時期 ボーカル ギター キーボード ベース ドラムス
1968年04月 - 1969年06月 第1 ロッド・エヴァンス リッチー・ブラックモア ジョン・ロード ニック・シンパー イアン・ペイス
1969年06月 - 1973年06月 第2 イアン・ギラン リッチー・ブラックモア ジョン・ロード ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
1973年10月 - 1975年04月 第3 デイヴィッド・カヴァーデイル リッチー・ブラックモア ジョン・ロード グレン・ヒューズ イアン・ペイス
1975年06月 - 1976年07月 第4 デイヴィッド・カヴァーデイル トミー・ボーリン ジョン・ロード グレン・ヒューズ イアン・ペイス
1984年04月 - 1989年04月 第2 イアン・ギラン リッチー・ブラックモア ジョン・ロード ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
1989年11月 - 1992年04月 第5 ジョー・リン・ターナー リッチー・ブラックモア ジョン・ロード ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
1992年04月 - 1993年11月 第2 イアン・ギラン リッチー・ブラックモア ジョン・ロード ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
1993年12月 - 1994年07月 第6 イアン・ギラン ジョー・サトリアーニ ジョン・ロード ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
1994年11月 - 2002年02月 第7 イアン・ギラン スティーヴ・モーズ ジョン・ロード ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
2002年03月 - 2022年07月 第8 イアン・ギラン スティーヴ・モーズ ドン・エイリー ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス
2022年09月 - 第9 イアン・ギラン サイモン・マクブライド ドン・エイリー ロジャー・グローヴァー イアン・ペイス

音楽性と影響

時期によってその音楽性は変転しているが、最も印象深く、商業的にも成功している第2期は、いわゆる「ハードロック」であり、また「ヘヴィメタル」の先駆的な存在であると思われる。クリームジミ・ヘンドリックスなどの先例はあるにせよ、疾走感を伴う曲想と、大きな音量を出すことが可能なアンプ / PAを使用して、観客を圧倒するパフォーマンスを展開するという、言ってみれば「形式としてのハードロック」を構築したのはディープ・パープルであると言われている(音量を参照)。

また、クラシック音楽の導入が特徴とされている。とりわけ国民楽派以降のそれに多大な影響を受けており、和声進行((ハーモニックマイナースケール))を楽式に導入している。代表曲である「ハイウェイ・スター」と「紫の炎」の間奏部分はバッハコード進行を引用したものであるとリッチー・ブラックモアは語っている。

また、リッチー・ブラックモアによるギターの速弾き、印象的なリフは非常に有名で、速弾きの元祖とも言われている。特に「ハイウェイ・スター」や「紫の炎」などに見られる速弾きのテクニックは、その後の多くのギタリストに影響を与えた。また、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフは彼らの楽曲の中ではもっとも有名な楽曲となり、TVCMでそのリフが多用され、ロック・スターを夢見る多くのアマチュア・ミュージシャンに多大の影響を与えている。ストラトキャスター、もしくはそのコピー・モデルを手に入れて、まず「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフを弾くギター・キッズは今も多い。他にも「ブラック・ナイト」のリフが有名。

さらに、イアン・ギランの金切り声を立てる超高音シャウトは当時のロック界を象徴するものであり、レッド・ツェッペリンのロバート・プラントとともに多方面に影響を与えた。なお、プラント自身は「レッド・ツェッペリンはヘヴィメタルでは無い」という意味のコメントを発している。

日本での人気は凄まじく、アルバムや楽譜の売上がローリング・ストーンズを遥かに上回るほどで、レコード会社もレッド・ツェッペリンと並ぶ二大ハードロック・バンドと呼び、ロック雑誌もそれに倣った。後のパープルファミリーであるレインボーなども日本では格別の人気があり、来日時は「ビートルズのような扱いを受けた」とメンバーが語ったと伝えられている。

ロックの殿堂

2012年、2013年の2度ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame)にノミネートされ、一般投票で2位と人気を示したが受賞は逃した。先に受賞したキッスジーン・シモンズラッシュゲディー・リーガンズ・アンド・ローゼズスラッシュメタリカラーズ・ウルリッヒはそれぞれディープ・パープルは顕彰されるべきであるという意見を表明していた。

2015年4月、『ローリング・ストーン』誌の読者投票で「殿堂入りすべきバンド」1位となり、2015年10月に3度目のノミネート、2016年4月に正式に受賞した。受賞者はイアン・ペイス、ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、ロジャー・グローヴァー、イアン・ギラン、ロッド・エヴァンス、デイヴィッド・カヴァデールおよびグレン・ヒューズ、すなわち第1期から第3期の主要メンバーのみとなり、創設メンバーのニック・シンパーと、当時のメンバー スティーヴ・モーズやドン・エイリーらは除外された[18]。またブラックモアは、パープルサイドが共演に難色を示した事情もあり、出席を見送った[19]

特記

音量

  • 1973年度版ギネスブックに"The loudest band in the world"(世界一の大音響バンド)として彼らが認定されている。ロンドンのコンサート・ホールにて最大117デシベルを計測し、しばらく記録を保ち続けたが、1976年5月31日に同じくイギリスのロック・バンド、ザ・フーがロンドンのチャールトンの屋外スタジアムでのコンサートで最大120デシベルを計測したため、彼らの記録は破られた。しかし屋内ステージでの公演における音量としては、未だに世界一を保持している。
  • 第2期の彼らは、全員がマーシャル製のアンプ(ギター用は当時市販されていた「マーシャル・メジャー1967」と仕様が異なる特注品)を使い、PAシステムにも同社のものを使用していた。1972年の初来日公演ではヴォーカル用マイクロフォンシュア#565SD)2本をガムテープで束ねて歌っていたが、これは出力を高めるためではなく、PA用と録音用にそれぞれ1本ずつマイクを使用したためである。

その他

  • 1970年、プランプトン・フェスティバルにおける演奏中、リッチー・ブラックモアがギター・アンプを破壊し、燃え出したアンプを客席に投げつける。
  • 彼らは1974年から1975年頃にかけて特別仕様の専用飛行機ボーイング707を借りてツアーをしていた時期があった。“スター・シップ1号”と名づけられたその飛行機は、ボディ色を金、銀、茶に塗られ、機内にはソファ、暖炉、シャワー室、台所、テレビビデオ、書斎などが装備されたものであった。フランク・シナトラ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディランエルトン・ジョンなども同型のものを使用していた。また1976年にも小型のプロペラ機“ヴァイカウント号”を借りている。
  • 1995年王様という日本のミュージシャンが、このバンドの曲のメドレーを日本語で直訳した歌詞で歌う「深紫伝説」をヒットさせ、同年の第37回日本レコード大賞・企画賞を受賞している。
  • 1973年6月25日、彼ら2度目の来日公演の際、会場である日本武道館でバンド側がアンコールを拒否したために暴動が起きる事件が発生した。一部の観客が椅子や場内設備などを破壊し花火を上げたりして大騒ぎしたため翌日も予定されていた同会場でのコンサートが中止になった。このエピソードは後々まで暗い話題として残り続けた。また、その荒らされた惨状を撮影した写真が海賊版のジャケットなどに使われたりもした。[注 12]

パープル・ファミリーの活動

メンバーの入れ替えも比較的多かったが、各メンバーの脱退後の活動やソロ活動も盛んで、常にロック界をリードしてきた。以下はそのほんの一部である。

  • (ペイス・アッシュトン・ロード)
イアン・ペイス、ジョン・ロードの2人に(トニー・アッシュトン)を加えたバンド。アルバム1枚を出して解散。
  • (ウォーホース)
ニック・シンパーの結成したバンド。ボーカリストの(アッシュリー・ホルト)(リック・ウェイクマンとの活動で知られる)はディープ・パープルのオーディションの最終選考まで残った人物。
第一期のボーカリストであるロッド・エヴァンスが脱退した後に参加したバンド。ロッド・エヴァンス自身はセカンドアルバムを発表した後に脱退するが、バンドはその後も活動を続け、2枚のアルバムをリリースする。
第1-3期、5-7期のギタリストであるリッチー・ブラックモアが、最初に脱退して結成したハードロック・バンド。後にロジャー・グローヴァードン・エイリーもメンバーとして加入する。ロニー・ジェイムス・ディオグラハム・ボネットジョー・リン・ターナーなど、その後もハード・ロック/ヘヴィメタル・シーンで活躍するシンガーを何人も輩出している。また、コージー・パウエルとのコラボレイションも伝説的。なお、1978年の来日公演時、札幌公演で会場の混乱から観客1人が死亡する事故が起き、当時大きなニュースとなった(詳細は(レインボー (バンド)#事故)を参照)。
リッチー・ブラックモアが1997年に結成したデュオ。恋人キャンディス・ナイト(後に結婚)をボーカルにフィーチャー。中世からルネッサンス期の音楽を主なモチーフとし、ブラックモアはアコースティック・ギターを演奏することが多い。現在も活動中。
  • リッチー・ブラックモアズ・レインボー
ブラックモアズ・ナイトと並行する形で2016年から活動を開始。
第3、4期のボーカリストであるデヴィッド・カヴァデールが中心となって結成されたバンド。後に、イアン・ペイスとジョン・ロードも参加する。数多くの著名なギタリストを輩出し、1980年代後半には全米チャートも制覇した。現在でも「紫の炎」「ミストゥリーテッド」といった、カヴァデールのディープ・パープル時代の楽曲を演奏。
デヴィッド・カヴァデールとレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとの1990年代前半のプロジェクト。アルバム1枚と、日本でのライブ・ツアーのみの活動にて解散している。
  • ヒューズ・スロール
グレン・ヒューズと、元パット・トラヴァースなどとともに活動していたギタリストの(パット・スロール)によるプロジェクト。以降、ヒューズはソロ活動中心だが、かつてゲイリー・ムーアのソロ・アルバムやブラック・サバスのアルバムに全面参加するなど、ベーシストとしてばかりではなくボーカリストとしての評価も高く、現在も盛んに活動する。
  • イアン・ペイスは1999年ポール・マッカートニーロックンロール・アルバム『ラン・デヴィル・ラン』に参加し、アメリカやイギリスの、複数のテレビやラジオ番組に出演してライブ演奏した。その一部は日本でも放送された。
  • スティーヴ・モーズディキシー・ドレッグス(後にドレッグスと改める)、第一期スティーヴ・モーズ・バンド、カンサスでキャリアを積んだギタリストであり、スティーヴ・モーズ・バンドを並行して活動させていた。
  • トミー・ボーリンはバンドへ参加する際に、ソロ活動も並行したいと述べた条件が認められ、結果的に2枚のソロ・アルバムをリリースしている。
  • ギラン=グローヴァー
イアン・ギランとロジャー・グローヴァーのユニット。1988年にアルバム『アクシデンタリー・オン・パーパス』を発表。内容はハードロックではなくエレクトロ・サイケデリック・ポップだった。

ディスコグラフィ

結成 - 解散宣言

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

  • ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』 - Concerto for Group and Orchestra (1969年発表)
  • ライヴ・イン・ジャパン』 - Made in Japan (1972年日本公演を収録、1972年発表)
  • 『(イン・コンサート)』 - Deep Purple in Concert (1970年と1972年の公演を収録、1980年発表)
  • 『(カリフォルニア・ジャム 1974)』 - California Jam 1974 (1974年カリフォルニア・ジャムでの公演を収録)
  • 『(ライヴ・イン・ロンドン)』 - Live in London (1975年ロンドン公演を収録、1982年発表)
  • メイド・イン・ヨーロッパ』 - Made in Europe (1975年ヨーロッパ公演を収録、1976年発表)
  • 『(紫の昇華〜ザ・ファイナル・コンサート〜)』 - Mk III: The Final Concerts (1975年ヨーロッパ公演を収録、1996年発表)
  • ラスト・コンサート・イン・ジャパン』 - Last Concert in Japan (1975年日本公演を収録、1977年発表)
  • 『(ライブ・イン・ジャパン1975)』 - This Time Around: Live in Tokyo (1975年日本公演を収録、2001年発表)
  • 『(紫の神技〜ライブ・イン・カリフォルニア・ロング・ビーチ・アリーナ1976)』 - King Biscuit Flower Hour Presents: Deep Purple in Concert (1976年アメリカ公演を収録、1995年発表)
  • 『ジェミニ・スイート・ライヴ』- Deep Purple And The Orchestra Of The Light Music Society Conducted By Malcolm Arnold – Gemini Suite Live [20](1970年ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで録音、1993年発表)

コンピレーション・アルバム

  • 『(ブラック・ナイト= 24カラット)』 - 24 Carat Purple (1975年発表)
  • 『(パワー・ハウス)』 - Powerhouse (第2期の未収録音源、ライブ音源を収録、1977年発表)
  • 『(パープル・ロール)』 - When We Rock, We Rock, and When We Roll, We Roll (第1期から第3期までの発表曲を編集、1978年発表)
  • 『(ディーペスト・パープル)』 - Deepest Purple: The Very Best of Deep Purple (第2期、第3期発表曲を編集、1980年発表)

再結成 - 現在

スタジオ・アルバム

  • パーフェクト・ストレンジャーズ』 - Perfect Strangers (1984年発表、第5期)
  • ハウス・オブ・ブルー・ライト』 - The House of Blue Light (1987年発表、第5期)
  • スレイヴス・アンド・マスターズ』 - Slaves and Masters (1990年発表、第6期)
  • 紫の聖戦』 - The Battle Rages On (1993年発表、第7期)
  • 紫の証』 - Purpendicular (1996年発表、第8期)
  • アバンダン』 - Abandon (1998年発表、第8期)
  • 『(バナナズ)』 - Bananas (2003年発表、第9期)
  • 『(ラプチャー・オブ・ザ・ディープ)』 - Rapture of the Deep (2005年発表、第9期)
  • 『』 - Now What?! (2013年発表、第9期)
  • 『(インフィニット)』 - Infinite (2017年発表、第9期)
  • 『(ウーッシュ!) 』 - Whoosh!(2020年8月、第9期)
  • 『ターニング・トゥ・クライム』 - Turning to Crime(2021年11月、第9期)

ライブ・アルバム

  • 『(ネブワース'85)』 - In the Absence of Pink: Knebwoth '85 (1985年ネブワース公演を収録、1991年発表)
  • ノーバディーズ・パーフェクト』 - Nobody's Perfect (1987年と1988年の公演を収録、1988年発表)
  • 『(ライヴ・紫の閃光)』 - Come Hell or High Water (1993年の公演を収録、1994年発表)
  • 紫神転生〜ライヴ・アット・ジ・オリンピア'96〜』 - Live at The Olympia '96 (1996年の公演を収録、1997年発表)
  • 『(トータル・アバンダン)』 - Total Abandon: Australia '99 (1999年オーストラリア公演を収録、1999年発表)
  • 『(ライブ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール)』 - Live at the Royal Albert Hall (1999年の公演を収録、2000年発表)
  • 『(ライヴ・アット・モントルー2006)』 - Live at Montreux 2006: They All Came Down to Montreux (2006年モントルー公演を収録、2007年発表)

参考文献

  • 『DEEP PURPLEIN BOOK ディープ・パープル全史』2018年 シンコーミュージック・エンタテイメント (ISBN 9784401646722)
  • 吉田弘和編 『ディープ・パープル,ブリティッシュ・ロックの王者:紫神』 シンコー・ミュージック、1976年
  • クリス・チャールズ・ワース 『ディープ・パープル :フォト・バイオグラフィー』 内田久美子・成田寿恵子訳、シンコー・ミュージック、1984年
  • TORU FUJIWARA編: 『天才ギタリスト :リッチー・ブラックモア』 バーン・コーポレーション、1998年
  • Dave Thompson, Smoke on the water: The Deep Purple Story ,Canada:ECW Press, 2004

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ ただし、本国イギリスではアルバム/シングルとも時期遅れの9月にパーロフォン・レーベルより発売され、まったくヒットしなかった。
  2. ^ 作曲はニール・ダイアモンド。
  3. ^ そのため、エピソード・シックスはこの後自然消滅してしまう。
  4. ^ 因みにロードは1991年に発売されたVHS『ヘヴィ・メタル・パイオニアズ』(Heavy Metal Pioneers)で、ジミ・ヘンドリックスに影響を受けたブラックモアの希望を受け入れてハード・ロックの路線に進む事に決め、その為にはエヴァンスとシンパーを誰かに替えるべきだと判断した、という主旨の回想をしている。先に本文で述べられているように、エヴァンスとシンパーの脱退の詳細を第三者が明確に把握することは困難である事に注意。
  5. ^ マネージャーのトニー・エドワーズがロードにロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの共演コンサートの企画を教えたのは、第1期末期の1969年4月であった。この時エドワーズは既にロイヤル・アルバート・ホールを同年9月24日に予約していたので、ロードは僅か半年足らずの間に作曲を終えなければならなかった。彼は第1期の「聖なる歌」と「4月の協奏曲」で室内楽曲を作曲したが、オーケストラ曲を作曲するのは初めてだった。しかし彼はディープ・パープルの新メンバーの人選やコンサートの合間を縫って作曲に取り組み、最終段階でマルコム・アーノルドの協力も得て、コンサートに間に合わせて協奏曲を書き上げた。、
  6. ^ ディープ・パープルは1970年8月25日、ハリウッド・ボウルローレンス・フォスターが指揮するロサンジェルス・フィルハーモニックと共演して「グループとオーケストラのための協奏曲」を再演した。また彼等は同年9月17日に、ロイヤル・フェスティバル・ホールで、マルコム・アーノルドが指揮するオーケストラ・オブ・ザ・ライト・ソサエティ・ミュージック(The Orchestra of The Light Music Society)と共演してロードの新作「ジェミニ組曲」(Gemini Suite)を披露した。後者の録音は1993年に"Deep Purple And The Orchestra Of The Light Music Society Conducted By Malcolm Arnold – Gemini Suite Live"として発表された。
  7. ^ 収録曲の一つである「チャイルド・イン・タイム」は、既に前年9月の「グループとオーケストラのための協奏曲」のコンサートでの彼等だけの部で披露されていた。この演奏は後年、『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』のCDの追加版に収録された。
  8. ^ 「グループとオーケストラのための協奏曲」を除いた第2期の曲は全てメンバー5人の共作であると記されたが、ロードはVHS『ヘヴィ・メタル・パイオニアズ』で、作曲の中心的な役割を担ったのはブラックモアだったと明言している。
  9. ^ 1971年に発表されたロードの初のソロ・アルバムに収録された。『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』と同様にマルコム・アーノルドが指揮するロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラが参加して、ロード、アルバート・リー(ギター)、トニー・アシュトン(ボーカル)、イヴォンヌ・エリマン(ボーカル)、ロジャー・グローヴァー、イアン・ペイスと共演した。
  10. ^ 1974年に発表されたロードの2作目のソロ・アルバムに収録された。このアルバムは、1974年6月1日にミュンヘンで開かれた、作曲家エバーハード・シェーナーが指揮するミュンヘン室内管弦楽団とロードとの共演コンサートのライブ録音。ピート・ヨーク(ドラムス)、トニー・アシュトン(ボーカル、キーボード)、レイ・フェンウィック(ギター)、ディープ・パープルの第3期のメンバーであるデイヴィッド・カヴァデール(ボーカル)とグレン・ヒューズ(ベース・ギター、ボーカル)が客演した。
  11. ^ 余談だが、ジョン・ロードがホワイトスネイクを脱退して再結成ディープ・パープルに参加した時も、ドン・エイリーがホワイトスネイクに後任として招かれている。また、「レインボー」在籍時にもブラックモアやグローヴァーとの関わりもあった。
  12. ^ 1980年リリースのUKハーヴェスト・シングル BLACK NIGHT にも当該写真が使用された。

出典

  1. ^ Deep Purple - Artist Details - オールミュージック. 2023年4月3日閲覧。
  2. ^ a b c Ankeny, Jason. Deep Purple Biography, Songs, & Albums - オールミュージック. 2020年11月14日閲覧。
  3. ^ a b Wasler, Robert (1993). Running with the Devil: power, gender, and madness in heavy metal music. Middletown, Connecticut: Wesleyan University Press. p. 10. ISBN (978-0-819-56260-9) 
  4. ^ http://www.glennhughes.com/dp76_ukprogramme.html
  5. ^ http://www.allmusic.com/song/child-in-time-mt0011416285
  6. ^ a b c d e シンコー・ミュージック刊 『ディープ・パープル,ブリティッシュ・ロックの王者:紫神』吉田弘和編より。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n シンコー・ミュージック刊『リッチー・ブラックモア,狂気の雷舞』より。
  8. ^ “Discogs”. 2023年5月19日閲覧。
  9. ^ a b “musicweb-international.com”. 2023年5月19日閲覧。
  10. ^ メイド・イン・ヨーロッパ国内盤のライナーノーツより。なお、同ライナーノーツでは、イアン・ペイスがグレンとトミーを理解できなかったとコメントしている。
  11. ^ 『DEEP PURPLEIN BOOK ディープ・パープル全史』2018年 シンコーミュージック・エンタテイメント (ISBN 9784401646722) pp282 - 283
  12. ^ ディープ・パープル「新作は前作よりヘヴィで、よりプログレ」 - BARKS
  13. ^ February 27, Martin KieltyPublished:. “Deep Purple Announce New Album ‘Whoosh!’” (英語). Ultimate Classic Rock. 2020年9月7日閲覧。
  14. ^ April 2020, Scott Munro03. “Deep Purple push back release of new album Whoosh!” (英語). Classic Rock Magazine. 2020年9月7日閲覧。
  15. ^ “スティーヴ・モーズ、妻の病によりディープ・パープルのツアーから一時離脱”. BARKS. 2022年4月1日閲覧。
  16. ^ “DEEP PURPLEからスティーヴ・モーズが脱退!”. BURRN! ONLNE. 2022年7月25日閲覧。
  17. ^ “DEEP PURPLEがサイモン・マクブライドの正式加入を発表!”. BURRN! ONLINE. 2022年9月18日閲覧。
  18. ^ D.カヴァデールとG.ヒューズ、殿堂入りセレモニーに出席 - BARKS
  19. ^ リッチー・ブラックモア、ロックの殿堂入り欠席を正式に表明 - Barks
  20. ^ “Discogs”. 2023年5月19日閲覧。

外部リンク

  • 公式サイト(英語)
  • The Highway Star(英語)
  • DPAS(英語)
  • DEEP PURPLE OnLine(英語)
  • Deep Purple / ディープ・パープル | ワーナーミュージック・ジャパン(ワーナーミュージック・ジャパンによる日本語公式サイト)
  • Sony Music Online Japan : ディープ・パープル(ソニー・ミュージックエンタテインメントによる日本語公式サイト)
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