チカーノラップはメキシコ系アメリカ人たちが制作したラップ・ミュージックである。
概要
チカーノ(メキシコ系アメリカ人)ラップの音楽性は、ギャングスタ・ラップ、特にドクター・ドレー[注釈 1]や(イージーE)等のGファンク[注釈 2]に影響を受けていた。
黒人のギャングスタ・ラップとの相違点は、オールディーズのサンプリング多用が挙げられる。サンプ・レコード[注釈 3]などのローライダー文化の中で連綿と受け継がれてきたオールディーズ愛好の伝統は1980年代からのチカーノラップにも受け継がれ、オールディーズをサンプリングした曲を使うチカーノ・ラッパーも見られた。
ラップをする際には、英語、スペイン語を用いることが多い。(2メックス)はアンダーグラウンド・シーンで活動しており、メキシコ系アメリカ人であってもチカーノラップの文脈で語られることはまずない。
歴史
チカーノラッパーのオリジネイターであり、最も有名なチカーノラッパーの一人とされているのが、(キッド・フロスト)(現フロスト)である[1]。彼が1990年に発表したデビューアルバム「Hispanic Causing Panic」の先行シングルとしてリリースされた「La Raza」(ラ・ラーサ)は、スペイン語と英語のバイリンガルスタイル、いわゆるスパングリッシュを使用し話題になった[2]。フロストのラップ曲は、同じスタイルで一足先にリリースされていた(メロウ・マン・エース)(彼はキューバ生まれ)の「Mentirosa」(メンティローサ)とともに、リスナーはチカーノにとどまらず、ラップを好む他の人種の人々にもファンを拡大した。。
その後、1990年代前半には、(ライター・シェイド・オヴ・ブラウン)の「On A Sunday Afternoon(1992年)」と「Hey D.J.(1994年)」、(N2ディープ)の「Back To The Hotel(1993年)」などのヒット曲が生まれた。また、サイプレス・ヒルやスロウ・ペイン、ALTなどもチカーノである。チカーナ・ラッパーとしては、JVなどがいる。1990年代後半~2000年代初頭には、チカーノラップのレーベルの多くがこの時期に生まれた。
地元ヴァレーホ[注釈 4]からのヒューストンに移住したベイビー・ビーシュ改め(ベイビー・バッシュ)が2004年に「シュガ・シュガ」をヒットさせるのと平行して、先述のレーベルに所属するラッパーたちがにわかに注目され始めた。ロウ・プロファイルを代表するアーティストの(ミスター・サンチョ)、自らのレーベル、ハイパワーを立ち上げ、オールディーズのアーティストとのコラボレーションもこなした多作家の(ミスター・カポーン・E)、もはやローカリティを感じさせない楽曲を制作するプロデューサー(フィンガズ)がほとんどの楽曲を手がける(リル・ロブ)などが脚光を浴びた。ラップ以外のチカーノ系ミュージシャンとしては、R&Bのティアラやロッキー・パディーヤがいる。サンタナやウォーのメンバーの一部もチカーノである。
他地域のチカーノラップ
下記の州やカリフォルニアのようなメキシコとの国境周辺だけでなく、コロラド州デンバーなどにもチカーノラップのシーンは存在する。
- テキサス州
テキサス州ヒューストンでまず見るべきチカーノラップの潮流としては、SPMと彼のレーベル、ドープ・ハウスがある。SPM((サウス・パーク・メキシカン))は、94年にドープハウスを設立すると、地道にミックステープを売るなどしてファンの基盤を作り、この地域に覇権を築いた。彼自身やドープハウスに所属する他のアーティスト、ラシード、ベイビー・ビーシュ[3]、(グリム)、(ラッキー・ルチアーノ)[注釈 5]、(フアン・ゴッティ)達は、同じ地元のスクリュード・アップ・クリックとの交流を持ち、彼等の音楽性を取り入れつつも自らのチカーノであるというルーツも強調した音楽を作り上げた。この地域の他のチカーノラッパーとしては、(チンゴ・ブリング)などがいる。
- アリゾナ州
この地域のチカーノラッパーはそれほど多くは知られていないが、(NBライダーズ)(元ナスティ・ボーイ・クリック)はカリフォルニアのチカーノたちに匹敵する人気グループである。