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タガチャル (フーシン部)

タガチャルモンゴル語: Taγačar中国語: 塔察児、? - 1238年)は、13世紀初頭のフーシン部出身で、モンゴル帝国華北方面タンマチ(辺境鎮戍軍)副司令官を務めた人物。『元史』などの漢文史料では塔察児(tǎcháér)と記される。

概要

タガチャルは「四駿」と称されたチンギス・カンの功臣ボロクルの一族[1]で、幼い頃よりケシク(親衛隊)に入って(コルチ)(箭筒士)となり、チンギス・カンに近侍していた。

チンギス・カンの死後、トルイ摂政時代には華北で盗賊が横行し殺人・掠奪を擅にすることが問題となり、トルイの命によって治安維持のためタガチャルが華北に派遣された。タガチャルは盗賊の首魁16名を捕縛・処刑したため、これ以後華北で大規模な盗賊の活動は見られなくなったという[2][3]

1229年にオゴデイが第二代皇帝に即位すると、翌1230年には金朝遠征が開始され、この遠征にタガチャルは「行省兵馬都元帥」の称号を授けられ従軍した。タガチャルの率いる軍団はケシク(宿営)、諸王の軍勢から1〜2名ずつモンゴル兵を抽出して編成された軍団で、同時期にモンゴル帝国の各地に派遣されたタンマチ(辺境鎮戍軍)の一つであった。タガチャルの同僚としてともに派遣された人物にジャライル部のテムデイがいるが、タガチャルとテムデイの関係はチンギス・カン時代に左翼万人隊長を務めたジャライル部のムカリと右翼万人隊長を務めたフーシン部のボロクルの関係をモデルにしたものと見られている[4]。また、『聖武親征録』では金朝遠征で先鋒を務めたのはスブタイ・バートル、テムデイ・コルチ、グユク・バートル、タガチャルの4名であったと記されるが、この内スブタイとグユクがトルイ軍に属する前鋒で、テムデイとタガチャルはオゴデイ軍に属する前鋒であったと考えられている[5][6]。ただし、前線で活躍したのは主にタガチャルのようで、テムデイが実践で功績を挙げたという記録は少ない[7]

タンマチを率いて南下したタガチャルはまず河東一帯を攻略して潼関の金軍を破り、河南一帯に入った。1231年には河中府を攻略し、1232年には白坡を渡ってトルイ軍と合流し、金朝遠征における最大の激戦である三峰山の戦いに挑み、これに勝利した。金朝の主力軍を破ったモンゴル軍は首都の開封を囲み(開封攻囲戦)、金側は質子を出すことで一時和議を結んだ。そこでオゴデイ・トルイは先に河北に帰還しタガチャル軍のみが現地に残っていたが、金の皇帝哀宗蔡州城に逃れたためこれを追撃・包囲し、哀宗の自殺・蔡州城の攻略によって金朝は滅亡した(蔡州の戦い[8]

金朝の征服後、タガチャルとテムデイは引き続き華北に駐屯し今度は南宋軍と対峙するようになった。この頃テムデイとタガチャルのタンマチは駐屯地で徴兵した漢人兵を編入して4万人隊からなる軍団を組織し、この軍団は後に「河南淮北蒙古軍」と呼称されるようになった。「モンゴル兵と現地兵の混成軍である」、「4つの万人隊からなる」、「戦闘の終了後も現地に駐屯し続ける」という要素はイラン方面に派遣されたチョルマグンのタンマチと一致する。「忽神碑」ではタガチャルの発案によりタンマチの華北駐屯が始まったかのように記されるが、実際にはタンマチの征服地での駐屯は全モンゴル帝国の辺境軍事政策の一環としてモンゴル帝国の中枢で立案されたものと考えられる[9]

1236年には南宋の光州・(息州)を攻略し、この功績によって息州の軍民3千戸が与えられた。1238年寿州の戦いでタガチャルは亡くなった[10]が、タガチャルの率いていたタンマチは後に「河南淮北蒙古軍」と改称され、タガチャルの子孫は代々この軍団を指揮するようになる。

子孫

ベルグテイ

父のタガチャルと同様にコルチに任ぜられ、主にモンケ・カアンの治世に活躍した。1252年に父の率いていたタンマチ(この頃は「四万戸蒙古漢軍」と呼称されていた)の指揮権を引き継ぎ、淮水・漢水方面作戦に参加し両淮地方を平定する功績を挙げた。しかし1258年襄陽・樊城の戦いの中で戦死してしまった[11]

スンドゥタイ

南宋征服に従軍して江西の11城を攻略し、広東一帯を制圧する功績を挙げたが、論功行賞に至る前に亡くなってしまった[12]

フーシン部タガチャル家

ヒタイ方面タンマチ(後の河南淮北蒙古軍)司令官

  1. 都行省テムデイ(Temüdei >忒木台/tèmùtái)
  2. 行省兵馬都元帥タガチャルTaγačar >塔察児/tǎcháér)
  3. 行省兵馬都元帥ベルグテイ(Belgütei >別里虎䚟/biélǐhŭdǎi)
  4. 蒙古軍万戸アウルクチA'uruγči >奥魯赤/àolŭchì)

脚注

  1. ^ 『元史』はタガチャルがボロクルの「従孫」であると記すが、『蒙兀児史記』などではボロクルの次男であるとする
  2. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「塔察児、一名奔盞、居官山。……塔察児、其従孫也、驍勇善戰、幼直宿衛。太祖平燕、睿宗監国、聞燕京盗賊恣意残殺、直指富庶之家、載運其物、有司不能禁。乃遣塔察児・耶律楚材窮治其党、誅首悪十有六人、由是巨盜屏跡」
  3. ^ なお、『元史』巻146列伝33耶律楚材伝には「丙戌冬……燕多劇賊、未夕、輒曳牛車指富家、取其財物、不与則殺之。時睿宗以皇子監国、事聞、遣中使偕楚材往窮治之。楚材詢察得其姓名、皆留後親属及勢家子、尽捕下獄。其家賂中使、将緩之、楚材示以禍福、中使懼、従其言、獄具、戮十六人於市、燕民始安」とあり、タガチャルではなく耶律楚材が華北の治安維持を行ったとする。しかし、この頃の耶律楚材の地位はまだ低かったことや耶律楚材自身の著作にこの「功績」が記されてないことなどから、子孫が耶律楚材の伝記を作成する際にタガチャルの功績を剽窃して耶律楚材の功績にしてしまったものと見られている(宮2018,529-531頁)。
  4. ^ 松田1996年、166頁
  5. ^ 『聖武親征録』壬辰三月條「上至南京、令忽都忽攻之。上与太上皇北渡河、避暑於官山、速不歹抜都・忒木歹火児赤・貴由抜都・塔察児等、適与金戦、金遣兄之子曹王入質」
  6. ^ 松田1987年、62頁
  7. ^ 松田1987年、52-53頁
  8. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「太宗伐金、塔察児従師、授行省兵馬都元帥、分宿衛与諸王軍士俾統之、下河東諸州郡、済河、破潼関、取陝洛。辛卯、従囲河中府、抜之。壬辰、従渡白坡。時睿宗已自西和州入興元、由武関出唐・鄧、太宗以睿宗与金兵相持久、乃遣使約期、会兵合進。即詔発諸軍至鈞州、連日大雪、睿宗与金人戦於三峰山、大破之。詔塔察児等進囲汴城。金主即以兄子曹王訛可為質、太宗与睿宗還河北。塔察児復与金兵戦於南薰門。癸巳、金主遷蔡州、塔察児復帥師囲蔡」
  9. ^ 松田1987年、47-48頁
  10. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「甲午、滅金、遂留鎮撫中原、分兵屯大河之上、以遏宋兵。丙申、破宋光・息諸州、事聞於朝、以息州軍民三千戸賜之。戊戌卒」
  11. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「子別里虎䚟、嗣為火児赤。憲宗即位、歳壬子、襲父職、総管四万戸蒙古漢軍、攻宋両淮、悉定辺地。戊午、会師囲宋襄陽、逼樊城、力戦死之」
  12. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「次曰宋都䚟、至元七年、賜金虎符、襲蒙古軍万戸。八年、悉兵再攻襄陽、囲樊城、進戦鄂・岳・漢陽・江陵・帰・峡諸州、皆有功。十二年、加昭毅大将軍、受詔為隆興出征都元帥、与李恒等長駆、而宋人莫当其鋒、戦勝攻取、望風迎降、尽平江西十一城、又徇嶺南・広東。宋亡、還師、未及論功卒」

参考文献

  • 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68号、1987年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
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