ジョアン・ジウベルト・プラド・ペレイラ・ヂ・オリヴェイラ(João Gilberto Prado Pereira de Oliveira、1931年6月10日 - 2019年7月6日)は、ブラジルの歌手、ギタリスト。作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンや作詞家のヴィニシウス・ヂ・モライスらとともに、ボサノヴァを創成したとされている。
ジョアン・ジルベルト | |
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ジョアン・ジルベルト(1996年) | |
基本情報 | |
出生名 | João Gilberto Prado Pereira de Oliveira |
生誕 | 1931年6月10日 |
出身地 | ブラジル バイーア州(ジュアゼイロ) |
死没 | 2019年7月6日(88歳没) |
ジャンル | ボサノヴァ |
職業 | 歌手、ギタリスト |
担当楽器 | ボーカル、ギター |
活動期間 | 1950年 - |
共同作業者 | アントニオ・カルロス・ジョビン、スタン・ゲッツ、アストラッド・ジルベルト、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニャ等 |
アストラッド・ジルベルトは元妻。アストラッドとの離婚後、歌手のミウシャと結婚。ベベウ・ジルベルトはミウシャとの間の娘である。
経歴
ブラジル北東部バイーア州ジュアゼイロに生まれ、10歳になるまで、この町で育った。1946年にギターを父から貰い、バンド活動に夢中になる。その後、中等寄宿制学校に通うが、音楽の勉強の為に退学する。1949年にはラジオ番組にキャストとして出演した。
19歳の時にはリオ・デ・ジャネイロでヴォーカルグループ『(ガロットス・ダ・ルア)』にリード・ヴォーカルとして参加し、二枚のSPをトダメリカ・レーベルで録音する。しかし、それも長くは続かず、ガロットス・ダ・ルアを脱退する。
1952年にはコパカバーナ・レーベルより初のソロレコード Quando ela sai を録音するが、ヒットせず、寝る場所と食事を求めて友人の家を転々とする日々が続く。マリファナ中毒となったジョアンを友人が見かねて、1955年にはジョアンの姉の住む街、ジアマンチーナへ移動し、姉の家に居候する生活が始まる。バスルームに一日中閉じこもり、ヴィオラン(クラシック・ギター)を弾きながら歌を歌い続け、その中で、サンバのリズムをギターだけで表現する、バチーダと呼ばれる独特の奏法を発明する。
その後1957年に再びリオ・デ・ジャネイロへ戻る。アントニオ・カルロス・ジョビン[1]と出会い、ジョビンはジョアンの声とギターに惚れ込む。1958年にはエリゼッチ・カルドーゾのアルバム「カンサォン・ド・アモール・ヂマイス(Canção do amor demais)」の中の2曲にギタリストとして参加する。その年の7月10日にはジョビンとヴィニシウス・ヂ・モライスによる「想いあふれて (Chega de Saudade)」を録音する。これが最初のボサノヴァ・ソングと呼ばれるもので、発売当初はなかなか話題にならなかったが、次第にリオの若者たちの間で人気となり、ボサノヴァ・ムーブメントが形成されていった。1959年には初めてのLP、『想いあふれて (Chega de Saudade)』が発売される。
1959年にアストラッド・ジルベルトと結婚。1963年にジャズ・サックス奏者、スタン・ゲッツと共に『ゲッツ/ジルベルト』を録音。1964年には、アストラッドが英語で歌った「イパネマの娘」が、シングルとして発売され、ボサノヴァの有名曲となった[2]。ジョアンのギターを練習する時間は妻も驚くほど長時間にわたったという。しかし、アストラッドとはほどなく離婚してしまうこととなった。
1965年には『ゲッツ/ジルベルト』でグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞し、最優秀男性ボーカル賞にもノミネートされた[3]。同年にミウーシャ(シコ・ブアルキの実姉)と結婚する。しかし、ボサノヴァ・ブームの退潮や軍事政権の台頭の影響からか、1969年にはメキシコシティに移り、そこで2年間住む。
1973年、アルバム『三月の水』を発表。1977年には、トミー・リピューマのプロデュースによりアルバム『イマージュの部屋(Amoroso)』を制作している(アルバムジャケット裏面のポートレートは日本人カメラマン土井弘介による[4][5]。)。1981年には、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニアとの共作『Brasil (海の奇蹟)』を発表。
高齢にもかかわらず活動をつづけ、2000年、全編ギター弾き語りによる初のアルバム『ジョアン 声とギター(João voz e violão)』を、カエターノ・ヴェローゾのプロデュースで発表し、同作はグラミー賞最優秀ワールドミュージック・アルバム賞を受賞した[3]。また2003年には70代での初の日本公演で話題になり、9月12日公演が『ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー』としてアルバム化(翌年に発売)。翌2004年、2006年11月にも日本公演が行われた。
2019年7月6日、ジョアン・ジルベルトはリオ・デ・ジャネイロの自宅で死去した[6]。
代表曲
ディスコグラフィ
- 想いあふれて (Chega De Saudade) - 1959年
- 愛と微笑みと花 (O Amor, O Sorriso E A Flor) - 1960年
- ジョアン・ジルベルト (João Gilberto) - 1961年
- ジョアン・ジルベルト「エン・メヒコ」(João Gilberto en Mexico) - 1970年
- 彼女はカリオカ (Ela É Carioca) - 1970年(曲目は「エン・メヒコ」と同じ)
- 三月の水 (João Gilberto) - 1973年
- イマージュの部屋 (Amoroso) - 1977年
- (海の奇蹟) (Brasil) - 1981年
- ジョアン (João) - 1991年
- ジョアン 声とギター (João Voz e Violão) - 2000年
- Live at Umbria Jazz - 2002年
- ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー (João Gilberto in Tokyo) - 2004年
スタン・ゲッツとともに
脚注
- ^ 「イパネマの娘」「デサフィナード」など多数のボサ曲の作曲者
- ^ Jazz news: 'Getz/Gilberto' Turns 50 ゲッツ・ジルベルト 2021年8月3日閲覧
- ^ a b “João Gilberto - Artist”. GRAMMY.com. Recording Academy. 2023年5月21日閲覧。
- ^ ジルベルト、ダリ、マドンナ、ウォーホルを撮った日本人・写真家 土井弘介のニューヨーク
- ^ (日本語) 写真家 土井弘介トークショー|Photographer Hirosuke Doi talked about New York celebrities on the special event2021年6月20日閲覧。
- ^ “João Gilberto, a pioneer of bossa nova, has died at 88”. CNN 2019年7月7日閲覧。
関連項目
外部リンク
- ワーナーミュージック・ジャパン - ジョアン・ジルベルト