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サマセット公

サマセット公: Duke of Somerset)は、イングランド貴族公爵位。爵位名はサマセットに由来する。

サマセット公爵(第4期)
Duke of Somerset

紋章記述

Arms:Quarterly: 1st and 4th, Or on a Pile Gules between six Fleurs-de-lis Azure three Lions of England (being the Coat of Augmentation granted by King Henry VIII on his marriage with Lady Jane Seymour); 2nd and 3rd, Gules two Wings joined in lure the tips downwards Or (Seymour) Crest:Out of a Ducal Coronet Or a Phoenix of the last issuing from flames proper Supporters:Dexter: an Unicorn Argent armed maned and tufted Or gorged with a Ducal Coronet per pale Azure and Gold to which is affixed a Chain of the last; Sinister: a Bull Azure ducally gorged chained hoofed and armed Or
創設時期1547年2月15日
創設者エドワード6世
チャールズ2世(1660年再授与)
貴族イングランド貴族
初代初代公エドワード・シーモア
現所有者19代公(ジョン・シーモア)(英語版)
相続人シーモア男爵セバスチャン・シーモア
付随称号シーモア男爵
(ベリー・ポメロイの)準男爵
現況存続
邸宅(ブラッドレー・ハウス)(英語版)
(ベリー・ポメロイ城)(英語版)
旧邸宅(バルストロード・パーク)(英語版)
モットー義務による信頼
(Foy Pour Devoir)

過去に四回創設されており、現存する第4期のサマセット公爵位は1547年エドワード・シーモアが叙位されたことに始まる。彼は大逆罪で処刑されたため、1世紀以上にわたって爵位が失われたが、曽孫ウィリアム・シーモアの代の1660年に爵位が復活し、以降2016年現在まで続いている。

サマセット公の歴史

皇后マティルダによる創設

ウィリアム・ドゥ・モーン・オブ・ダンスターは、神聖ローマ皇后マティルダヘンリー1世の娘)のお気に入りで、彼女が国王スティーヴンと王位を争った時にもウィリアムはマティルダを支援していた[1][2]。彼はその功績によって1141年にサマセット伯に叙せられた[1][2]。もっともこの称号は、スティーヴンにもヘンリー2世(マティルダの息子)にも承認されなかったため、ウィリアムの子孫はこの称号を使わなかった[1]

ボーフォート家

 
サマセット公爵ボーフォート家紋章

ジョン・ボーフォート(1371年ごろ - 1410年)は、ジョン・オブ・ゴーントキャサリン・スウィンフォードの息子である[3]。彼は1397年2月10日にサマセット伯爵及びサマセット侯爵に叙せられた[註釈 1][3][4][5]。死後、爵位は長男ヘンリー(1401年 - 1418年)が継承するが夭折してしまったため、次男ジョン(1404年 - 1444年)が継承する[6]1443年8月28日にジョンはサマセット公爵及び(ケンダル伯爵)に叙せられる[7]。しかし翌1444年に急死(自殺説もあり)、公位もケンダル伯位も消滅してしまう[4][7]

サマセット伯爵位は急死したジョンの弟エドマンド(1406年 - 1455年)が継承した。エドマンドは既に1442年にはドーセット伯爵に、1443年にはドーセット侯爵に叙せられていたが、新たにサマセットの所領も継承し、1448年3月31日にサマセット公爵に叙せられている[8][9][10]。エドマンドがサマセット公の時にヨーク公リチャードがランカスター朝の国王ヘンリー6世に反旗を翻し、国内を二分する薔薇戦争が勃発する[11][12]。エドマンドはヘンリー6世の側近かつヨーク公の政敵であることから当然ランカスター派に与したが、1455年第一次セント・オールバンズの戦いで戦死した[13]

爵位は息子ヘンリー(1436年 - 1464年)が継承する[14]。ヘンリーは1461年3月のタウトンの戦いの敗戦でスコットランドに逃走し、1461年11月4日ヨーク朝エドワード4世から反逆罪を理由に私権剥奪され、爵位も所領も没収される[14]1463年3月にスコットランドから戻ったヘンリーは、エドワード4世と和解して爵位・所領共に返還されているが、間もなく再びランカスター派に復帰し、1464年5月のヘクサムの戦いで捕らえられ、処刑された[14][15]。ヘンリーにはチャールズ・サマセットという子供がいたが、ヘンリー自身未婚だったため嫡子として認められず、サマセット伯を継がせることはできなかった[註釈 2][14]

議会はヨーク朝に反逆したサマセット公の爵位消滅を議会法によって宣言したが、ランカスター派ではヘンリーの弟エドマンド(1439年ごろ - 1471年)を第4代サマセット公とした[10][16]。彼は1471年テュークスベリーの戦いで敗退し、そこで処刑された。彼の死によってボーフォート家の家系は途絶えてしまった[16][17]

ボーフォート家以降

1499年ヘンリー7世は彼の息子(エドマンド)がまだ幼い洗礼の際に、サマセット公に指名した。だがエドマンドはわずか1歳で亡くなってしまったため、恐らくは公式に叙せられたわけではない[10]

ヘンリー8世の私生児ヘンリー・フィッツロイ(1519年 - 1536年)は1525年6月18日にリッチモンド公爵サマセット公爵及びノッティンガム伯爵に叙せられた[10][18]。彼は1536年7月22日に亡くなった時に跡継ぎがいなかったため、爵位は消滅した[18]

ロバート・カージェームズ1世の寵臣であり、1611年3月25日にロチェスター子爵に叙せられたほか、枢密院議員に任ぜられた[19]1612年ソールズベリー伯ロバート・セシルが亡くなると国王の秘書役を務め始め、1613年11月3日にサマセット伯爵に叙せられた[10][19]1645年に妻フランセスとの間にできた一人娘を残して亡くなると、爵位は廃絶した[19]

シーモア家

 
初代サマセット公エドワード・シーモア
 
6代公チャールズ・シーモア。『高慢な公爵』と呼ばれた。
 
12代公(エドワード・シーモア)(英語版)。フランスの旧家サンモール家末裔と称した。
 
18代公パーシーと一族の邸宅(ブラッドレー・ハウス)(英語版)
 
公爵家邸宅の一つ(ベリー・ポメロイ城)(英語版)

エドワード・シーモア(初代)(1506年ごろ - 1552年)は一介のナイトの息子であったが、妹ジェーン・シーモアが国王ヘンリー8世のお手付きとなり、1537年に3番目の王妃となって、その間に皇太子エドワード(エドワード6世)を儲けたことで急速に出世する[20]。ジェーンが王妃となったのを機として1536年6月5日ビーチャム子爵(Viscount Beauchamp)に叙され、ついで皇太子エドワード誕生を機として1537年10月18日ハートフォード伯爵(Earl of Hertford)に叙された[20][21]。そして1547年1月に甥エドワード6世が9歳で即位すると、護国卿(1547年 - 1549年)として後見することになり、1547年2月16日サマセット公爵及びアッシュのシーモア男爵(Baron Seymour of Hache)に叙せられた[20][21][22]。しかし後に政敵ウォリック伯ジョン・ダドリー(後の初代ノーサンバーランド公)との政争に敗れ、1552年1月22日大逆罪で処刑され、爵位は剥奪された[23][21]

その息子であるエドワード・シーモア(1539年–1621年)は、1559年1月13日にハートフォード伯爵とビーチャム男爵(Baron Beauchamp)を新規に与えられている[24]。彼は1560年(キャサリン・グレイ)(英語版)ジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したことで知られる[25]

その孫である第2代ハートフォード伯ウィリアム・シーモア(1588年-1660年)は、1640年6月3日ハートフォード侯爵(Marquess of Hertford)に叙された。彼は王政復古直後の1660年9月13日の議会の制定法によって曽祖父の爵位サマセット公爵位とアッシュのシーモア男爵位の復権が認められた[10][21]

長命だった2代公の死後、子供たちは長男・次男・三男まで既に死去していたため、爵位は三男の子のウィリアム・シーモア(第3代)(1654-1671)が継承した。だがこの3代公も早世してしまったため、爵位は叔父(先代ウィリアムの四男)のジョン・シーモア(1646年以前 - 1675年)が継承した[26]1675年に4代公が死去すると、ハートフォード侯の爵位は消滅した[21]

サマセット公爵位を継承したのは、4代公の従兄弟にあたる第3代(トローブリッジのシーモア男爵)(英語版)フランシス・シーモア(1658年 - 1678年)である。しかし彼も1678年に未婚のままイタリアで暗殺された[26][21]

爵位は弟のチャールズ・シーモア(第6代)(1662年 - 1748年)が継承する。彼は高慢な性格で威張り散らしたので「高慢な公爵(The Proud Duke)」とあだ名された[27][28]。政治的野心も強かったが、トーリー党ホイッグ党双方のこうもりをしていたため、どちらの党派からも信用されず、(主馬頭)(英語版)以上には出世しなかった[28]。しかし彼は男子後継者のいない第11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーの跡取娘エリザベス・パーシーと結婚してパーシー家の広大な所領を手にすることに成功した[29][30]。エリザベスが死去すると彼は再婚したが、彼が1748年に86歳で天寿を全うすると、爵位は先妻エリザベスとの子であるアルジャーノン・シーモア(第7代)(1684年 - 1750年)が継承した[31]

7代公はそれ以前の1722年1月21日に母方の家系に伝わっていた(パーシー男爵)(英語版)に叙せられていた[21]。64歳と当時にしては高齢でサマセット公爵位を継承したが、その時点で彼の長男は死去しており、男子の爵位継承者が残っていなかった。そこで彼は翌1749年に所領の大分割を行い、娘エリザベスとその婿ヒュー・スミソンに遺産の多くを与えた[32]。それに合わせて同年10月2日には特別継承権で娘婿ヒュー・スミソンに継承可能なノーサンバランド伯とノーサンバーランド州におけるワークワース城のワークワース男爵(Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)に叙され、さらに同年10月3日に妹の子供のチャールズ・ウィンダムに継承可能なイグリモント伯爵カンバーランド州におけるコッカマス城のコッカマス男爵(Baron Cockermouth, of Cockermouth Castle in the County of Cumberland)に叙せられた[21][33]

こうして1750年にアルジャーノンが亡くなると、残った所領がルールに従って継承された。ハートフォード伯爵位とビーチャム男爵位とトローブリッジのシーモア男爵位は消滅し[21]、サマセット公爵位は初代公爵にさかのぼっての分流である第6代ベリー・ポメロイ準男爵エドワード・シーモア(第8代)が継承した[31]

8代公の死後、爵位は長男のエドワード・シーモア(第9代)(1717年 - 1792年)が継承したが、未婚のまま亡くなったために次男のウェッブ・シーモア(第10代)(1718年 - 1793年)が継承した。10代公も間もなく死去し、爵位は長男で有名な数学者の(エドワード・アドルファス・サンモール(第11代))(1775年 - 1855年)が継承する[34]。彼は洗礼を受けて名前をシーモアからサンモール(St. Maur)に変えているが、その後もシーモアはしばしば使われる。

1855年に11代公が死去すると、爵位は長男の(エドワード・アドルファス・サンモール(第12代))(1804年 - 1885年)が継承する。彼は自分が単にサマセット公の子孫であるだけでなく、フランスの旧家サンモール家の末裔にもあたると主張してヴィクトリア女王にその爵位を求め[35]1863年6月19日デヴォン州におけるベリー・ポメロイのサンモール伯爵(Earl St Maur, of Berry Pomeroy in the County of Devon)に叙せられた[21][36]。この時以降、長男(エドワード・アドルファス・フェルディナンド・サンモール)[註釈 3]はサンモール伯を儀礼称号としている。

1885年に12代公が81歳で死去した時、既に息子たちに先立たれていたために、サンモール伯爵位は廃絶し[21]、一方サマセット公爵位は弟の(アーチボルド・ヘンリー・アルジャーノン・サンモール(第13代))(1810年 - 1891年)が継承した。しかしこの際に12代公は自分の長男の非嫡出子2人と自分の娘3人に巨額の財産を残したため公爵家の財産は散逸した[38]

13代公が死去するとその弟(アルジャーノン・パーシー・バンクス・サンモール(第14代))(1813年 - 1894年)が継承した。3年後にアルジャーノンも亡くなると、その息子の(アルジャーノン・サンモール(第15代))(1846年 - 1923年)が爵位を継承した[39]

1923年に15代公が死去すると、彼にも子供がいなかったために遠縁にあたる(エドワード・ハミルトン・シーモア(第16代))(1860年 - 1931年)が爵位を継承した。エドワードは第8代サマセット公の末子の子孫であり、実に170年前に枝分かれした家系である[註釈 4][10]。エドワードの爵位は息子の(エバリン・フランシス・シーモア(第17代))(1882年 - 1954年)が継承し、その子(パーシー・ハミルトン・シーモア(第18代))(1910年 - 1984年)へと引き継がれた[21]

現在、サマセット公爵位は1952年に生まれた(ジョン・マイケル・エドワード・シーモア(第19代))が保有している。また、法定推定相続人は1982年に生まれたシーモア男爵(セバスチャン・シーモア)である[21]

家訓は「義務による信頼(Foy Pour Devoir)」[21]。所有邸宅は南デヴォンにある(ベリー・ポメロイ)(英語版)[21]サマセット(メイデン・ブラッドレイ)(英語版)にある(ブラッドレイ・ハウス)(英語版)である[41]

現当主の保有爵位/準男爵位

現当主の第19代サマセット公爵(ジョン・シーモア)(英語版)は以下の爵位・準男爵位を保有している[21]

  • 第19代サマセット公爵 (19th Duke of Somerset)
    (1547年2月15日勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • アッシュの第19代シーモア男爵 (19th Baron Seymour of Hache)
    (1547年2月15日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • (デヴォン州におけるベリー・ポメロイの)第17代準男爵 (17th Baronet, styled "of Berry Pomeroy, co. Devon")
    (1611年6月29日の勅許状によるイングランド準男爵位)

シーモア男爵位が法定推定相続人儀礼称号である。他の公爵家が(マンチェスター公を除いて)儀礼称号に侯爵もしくは伯爵を用いるのに対して、サマセット公だけは他に従属称号を持たないため、最も低い称号を儀礼称号として用いている。

かつての従属爵位

かつての主な従属称号は以下の通り。

爵位 主たる爵位 創設年 廃絶/分離年[註釈 5] 備考
(ケンダル伯爵)(英語版) サマセット公爵(第1期) 1443年 1444年
サマセット伯爵 1397年 1461年剥奪
サマセット侯爵
ドーセット伯爵 1442年
ドーセット侯爵 1443年
ロチェスター子爵 サマセット伯爵(第3期) 1611年 1645年
アッシュのビーチャム子爵 サマセット公爵(第4期) 1536年 1552年剥奪
ハートフォード伯爵 1537年 1750年[註釈 6]
(アッシュのビーチャム男爵)(英語版) 1559年 1750年
ハートフォード侯爵 1640年 1675年
(トローブリッジのシーモア男爵)(英語版) 1641年 1750年 分家筋だったが宗家相続ののち廃絶。
(アニックのパーシー男爵)(英語版) 1722年 1750年分離 ノーサンバーランド伯爵家へ分離。
コッカマス男爵 1749年
イグリモント伯爵 1749年
サンモール伯爵 1863年 1885年


サマセット伯、サマセット公一覧

サマセット伯爵 (第1期;1141年)

  • 初代サマセット伯爵(ウィリアム・ドゥ・モーン)(英語版) (? - 1155年ごろ)

サマセット伯爵 (第2期;1397年)

サマセット公爵 (第1期:1443年)

サマセット公爵 (第2期;1499年)

サマセット公爵 (第3期;1525年)

サマセット公爵 (第4期;1547年)

サマセット伯爵 (第3期;1613年)

サマセット公爵 (第4期;1547年)

サンモール伯爵(1863年)

  • 初代サンモール伯爵(第12代サマセット公爵)(エドワード・アドルファス・サンモール)(英語版)

家系図

サマセット公爵家系図
 
 
 
イングランド王
エドワード3世

(1312–1377)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クラレンス公
ライオネル・オブ・アントワープ

(1338–1368)
 
初代ランカスター公
ジョン・オブ・ゴーント

(1340–1399)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サマセット伯, 1397年
サマセット侯, 1397年
(1399年に侯爵位取り消し)
 
 
 
 
 
 
初代サマセット伯
ジョン・ボーフォート

(1373–1410)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サマセット公, 1443年
 
 
 
サマセット公, 1448年
 
 
 
 
 
 
2代サマセット伯
ヘンリー・ボーフォート

(1401–1418)
 
3代サマセット伯
初代サマセット公
ジョン・ボーフォート

(1404–1444)
 
 
 
2代サマセット公
4代サマセット伯
エドムンド・ボーフォート

(1406–1455)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マーガレット・ボーフォート
(1443–1509)
m.(2) 初代リッチモンド伯
 
3代サマセット公
ヘンリー・ボーフォート

(1436–1464)
 
4代サマセット公
エドムンド・ボーフォート

(1439ごろ–1471)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ボーフォート公爵
 
(マージェリー・ウェントワース)(英語版)
(c.1478–1550)
m. (ジョン・シーモア)(英語版)
 
 
 
 
 
ヘンリー7世
(1457–1509)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハートフォード侯, 1537年
サマセット公, 1547年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サマセット公, 1499年
初代サマセット公
エドワード・シーモア

(1500ごろ–1552)
処刑・爵位剥奪
 
ジェーン・シーモア
(1508ごろ–1537)
 
 
ヘンリー8世
(1491-1547)
 
メアリー
(フランス王妃)

(1496–1533)
m.(2) 初代サフォーク公
 
初代サマセット公
エドムンド王子

(1499–1500)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リッチモンド公
サマセット公, 1525年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード6世
(1537–1553)
 
初代リッチモンド公
初代サマセット公
ヘンリー・フィッツロイ

(1519–1536)
 
フランセス・ブランドン
(1517–1559)
m. 初代サフォーク公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハートフォード侯, 1559年
 
 
 
 
 
 
 
(エドワード・シーモア)(英語版)
(1528ごろ–1593)
 
 
 
初代ハートフォード伯
エドワード・シーモア

(1539–1621)
 
 
 
 
(キャサリン・グレイ)(英語版)
(1540–1568)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(初代準男爵
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1563ごろ–1613)
 
 
 
 
 
 
(ビーチャム卿
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1561–1612)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハートフォード侯, 1641年
サマセット公, 1547年
(1660年に公爵位回復)
 
 
 
 
 
(トローブリッジの
シーモア男爵
)(英語版)
, 1641年
(2代準男爵
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1580ごろ–1659)
 
 
 
初代ハートフォード侯
2代サマセット公
ウィリアム・シーモア

(1588–1660)
 
 
 
 
 
(初代シーモア男爵
フランシス・シーモア
)(英語版)

(1590ごろ–1664)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3代準男爵
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1610–1688)
 
(ビーチャム卿
ヘンリー・シーモア
)(英語版)

(1626ごろ–1654)
 
(4代サマセット公
ジョン・シーモア
)(英語版)

(1646ごろ–1675)
 
 
 
(2代シーモア男爵
チャールズ・シーモア
)(英語版)

(c.1621–1665)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4代準男爵
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1633–1708)
 
3代サマセット公
ウィリアム・シーモア

(1650–1671)
 
 
 
 
 
3代シーモア男爵
5代サマセット公
フランシス・シーモア

(1658–1678)
 
6代サマセット公
チャールズ・シーモア

(1662–1748)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハートフォード侯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ノーサンバーランド伯, 1749年
(5代準男爵
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1663–1740)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代サマセット公
初代ノーサンバーランド伯
アルジャーノン・シーモア

(1684–1750)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ノーサンバーランド公
 
 
 
6代準男爵
8代サマセット公
エドワード・シーモア

(1695–1757)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ビーチャム子爵
ジョージ・シーモア
(1725–1744)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9代サマセット公
エドワード・シーモア

(1717–1792)
 
(10代サマセット公
ウェブ・シーモア
)(英語版)

(1718–1793)
 
 
 
 
 
(フランシス・シーモア)(英語版)
(1726–1799)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(11代サマセット公
エドワード・サンモール
)(英語版)

(1775–1855)
 
 
 
 
 
フランシス・シーモア
(-1822)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(12代サマセット公
エドワード・サンモール
)(英語版)

(1804–1885)
 
(13代サマセット公
アーチボルド・サンモール
)(英語版)

(1810–1891)
 
(14代サマセット公
アルジャーノン・サンモール
)(英語版)

(1813–1894)
 
フランシス・シーモア
(1788–1866)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(サンモール伯
フェルディナンド・サンモール
)(英語版)

(1835–1869)
 
 
 
 
 
(15代サマセット公
アルジャーノン・サンモール
)(英語版)

(1846–1923)
 
フランシス・シーモア
(1815–1870)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランシス・シーモア
(1853–1883)
 
(16代サマセット公
エドワード・シーモア
)(英語版)

(1860–1931)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(17代サマセット公
イヴリン・シーモア
)(英語版)

(1882–1954)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(18代サマセット公
パーシー・シーモア
)(英語版)

(1910–1984)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(19代サマセット公
ジョン・シーモア
)(英語版)

(1952-)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シーモア卿
セバスチャン・シーモア
(1982-)

脚注

註釈

[脚注の使い方]
  1. ^ この年の9月9日にはサマセット侯に、9月29日には(ドーセット侯)に叙せられている。だが政権がランカスター朝に移った1399年には当時の国王で異母兄に当たるヘンリー4世によって侯位は無効とされている。
  2. ^ その後清教徒革命イングランド内戦期に、当時の国王チャールズ1世がチャールズ・サマセットの子孫であるウスター侯エドワード・サマセットにアイルランド軍の支援の代償としてサマセット公への復帰を約束している。しかし1649年にチャールズ1世が処刑、イングランドが共和制に移行するとエドワード自身が国外追放になるのでそれどころではなくなり、1660年王政復古と共に帰国したエドワードはチャールズ1世の息子チャールズ2世に約束の履行を求めたが、貴族院に拒絶されサマセット公への復帰は果たされなかった。但し、22年後の1682年にエドワードの息子のヘンリー・サマセットがチャールズ2世にボーフォート公に叙爵され、子孫はボーフォート公家として続いていった。
  3. ^ 彼は「フェルディ」の名で知られており、リチャード・サースフィールド大尉という偽名で義勇兵としてガリバルディと共に戦っている。後に家政婦のロジーナ・スワンと恋に落ち、2人の子供をもうけてすぐに亡くなった。もしフェルディとロジーナが正式に結婚していれば、サマセット公の称号継承権はフェルディの子ハロルド(1869年 - 1927年)のものだったので、一時期ハロルドは両親が結婚していたことを証明しようとしたが結局失敗し、爵位の継承はできなかった。ハロルドの子孫は現在でもサマセット公爵位の継承権を主張している[37]
  4. ^ しかしこの際にさらにさかのぼっての分流である第7代ハートフォード侯爵(ジョージ・シーモア)(英語版)が16代公エドワードの曽祖父フランシスとその妻とされるレオノーラは正規の結婚関係になかったと主張した。つまりエドワードは庶子の子孫であるのでサマセット公爵位の継承権がなく、真の第16代サマセット公爵は自分であるという主張であった。この論争と調査は長く続き、貴族院にも持ち込まれたが、2年後にハートフォード侯の主張は退けられ、16代公エドワードの継承が確定した[40]
  5. ^ 特記ない限り、廃絶年を示す。
  6. ^ ビーチャム子爵同様に1552年に剥奪されるも、1559年に再授与されたのち、1750年に廃絶した。

出典

  1. ^ a b c (Hunt, William) (1892). "Mohun, William de (fl.1141)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 32. London: Smith, Elder & Co. p. 112-113.
  2. ^ a b Lyte, Henry (1909). A history of Dunster and of the families of Mohun & Luttrell. The St. Catherine Press Ltd. p. 8 
  3. ^ a b (Tipping, Henry) (1885). "Beaufort, John" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 04. London: Smith, Elder & Co. p. 48.
  4. ^ a b GENUKI. “Genuki: The English Peerage - Extinct Peerages, Non-geographic” (英語). www.genuki.org.uk. 2020年4月9日閲覧。
  5. ^ Michael K. Jones and Malcolm G. Underwood, The King's Mother: Lady Margaret Beaufort, Countess of Richmond and Derby, (Cambridge University Press, 1995), 19-20.
  6. ^ (Pollard, A.) (1901). "Beaufort, John, first Earl of Somerset and Marquis of Dorset and of Somerset (1373?–1410)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). 1. London: Smith, Elder & Co.
  7. ^ a b (Brown, M.H.) (2004年). “Joan (d. 1445)”. Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/14646. 2020年4月10日閲覧。
  8. ^ Cokayne & White 1953, p. 49-52.
  9. ^ Richardson 2011, p. 43.
  10. ^ a b c d e f g Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Somerset, Earls and Dukes of" . Encyclopædia Britannica (英語). 25 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 385–386.
  11. ^ エドマンド・キング 著、吉武憲司、赤江雄一、高森彰弘 訳『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年、355頁。ISBN (978-4766413236)。 
  12. ^ “Wars of the Roses”. Ancient History Encyclopedia. 2020年4月10日閲覧。
  13. ^ テレンス・ワイズ 著、斉藤潤子 訳『ばら戦争―装甲騎士の時代』新紀元社〈オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ〉、2001年、9頁。ISBN (978-4883178490)。 
  14. ^ a b c d   この記事にはパブリックドメインである次の文書本文が含まれている: Pollard, Albert Frederick (1901). "Beaufort, Henry (1436-1464)". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). I. London: Smith, Elder & Co. pp. 157–158.
  15. ^ btilley (2007年10月26日). . (Hexham Courant). オリジナルの2012年2月29日時点におけるアーカイブ。.  
  16. ^ a b   この記事にはパブリックドメインである次の文書本文が含まれている: Pollard, Albert Frederick (1901). "Beaufort, Edmund (1438?-1471)". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). I. London: Smith, Elder & Co. p. 156.
  17. ^ Ross, C.D., Edward IV, Trowbridge 1975, p. 172
  18. ^ a b (Martin, Charles) (1889). "Fitzroy, Henry (1519-1536)" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 19. London: Smith, Elder & Co. p. 204-205.
  19. ^ a b c “Somerset, Earl of (E, 1613 - 1645)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年4月10日閲覧。
  20. ^ a b c (Pollard, Albert) (1897). "Seymour, Edward (1506%3F-1552)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 51. London: Smith, Elder & Co. p. 299-310.
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Heraldic Media Limited. “Somerset, Duke of (E, 1546/7)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。
  22. ^ LoachJennifer 著、BernardGeorge; WilliamsPenry 編『Edward VI』Yale University Press、New Haven, CT、1999年、19-25頁。ISBN (0-300-07992-3)。 
  23. ^ 森護 1987, p. 60-61.
  24. ^ Heraldic Media Limited. “Hertford, Earl of (E, 1558/9 - 1750)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。
  25. ^ 海保眞夫 1999, p. 32.
  26. ^ a b 森護 1987, p. 64.
  27. ^ 森護 1987, p. 64-68.
  28. ^ a b 海保眞夫 1999, p. 96.
  29. ^ 森護 1987, p. 65-67.
  30. ^ 海保眞夫 1999, p. 95.
  31. ^ a b 森護 1987, p. 69.
  32. ^ 森護 1987, p. 70.
  33. ^ “No.8887”. The Gazette 23 September 1749. 2020年4月10日閲覧。
  34. ^ 森護 1987, p. 72-73.
  35. ^ 森護 1987, p. 78.
  36. ^ “No.7338”. The Gazette 23 June 1863. 2020年4月10日閲覧。
  37. ^ 森護 1987, p. 78-79.
  38. ^ 森護 1987, p. 76-78.
  39. ^ 森護 1987, p. 80.
  40. ^ 森護 1987, p. 80-82.
  41. ^ 森護 1987, p. 82.

参考文献

関連項目

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