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ゲルハルト・ボッセ

ゲルハルト・ボッセ(Gerhard Bosse, 1922年1月23日 - 2012年2月1日)は、ドイツ指揮者ヴァイオリニスト

ゲルハルト・ボッセ
基本情報
生誕 (1922-01-23) 1922年1月23日
出身地 ドイツ ザクセン州ライプツィヒ地区 ヴルツェン
死没 (2012-02-01) 2012年2月1日(90歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 ヴァイオリニスト指揮者
担当楽器 ヴァイオリン

略歴

1922年ライプツィヒの東に位置する(ヴルツェン)(ドイツ語: Wurzenに生まれる[1]1924年ゲーラの南に位置するグライツへ転居。1928年、父よりヴァイオリンの手ほどきを受ける。

1929年、ゲーラのコンサートマスターである(カール・ゲルナー)に師事。1936年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の第1コンサートマスターである教授の(エドガー・ヴォルガント)(ドイツ語: Edgar Wollgandtに師事[1]1941年ライプツィヒ音楽院(ヴァルター・ダヴィソン)(ドイツ語: Walther Davissonにヴァイオリンを[1]ヨハン・ネポムク・ダーフィト音楽理論を、エドガー・ヴォルガントにオーケストラスタディを師事。ライプツィヒ音楽院在学中だった1942年、ゲヴァントハウス管弦楽団の代用メンバーを務める[1][2]第二次世界大戦中だった1943年リンツ帝国ブルックナー管弦楽団に所属し、メンバーとしてハンス・クナッパーツブッシュヴィルヘルム・フルトヴェングラーヘルベルト・フォン・カラヤンカール・ベームなど多くの指揮者の下で演奏する[1]

戦中皮膚炎で長く病院生活をしていた為、兵士として戦闘に参加する事は無く、故郷に近いリンツにおいてアドルフ・ヒトラーが作った(第三帝国)交響楽団の団員となる[3]戦後1946年フランツ・リスト・ヴァイマル音楽大学の講師となる[1][3]。同年、ボッセ弦楽四重奏団を結成。1949年、ヴァイマル音楽大学教授に就任[1]

1951年ライプツィヒ放送交響楽団第1コンサートマスターに就任[1][2]ライプツィヒ音楽大学管弦楽学科長と、室内楽マスタークラスにおける主任教授のポストに就く[1]1952年ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール審査委員となる。同年、プラハの春音楽祭に招かれる。1955年、恩師であるヴォルガントの跡を継いでゲヴァントハウス管弦楽団第1コンサートマスターに就任し、フランツ・コンヴィチュニーヴァーツラフ・ノイマンクルト・マズアらの下で在任[1](ゲヴァントハウス弦楽四重奏団)(ドイツ語: Gewandhaus-Quartettクルト・シュティーラー教授より引き継ぐ。ヴァイマル音楽大学の時の教え子と結婚するも、4人目の赤ちゃんが産まれる際に最初の妻は母子共々亡くなり、その時は後にも先にもゲヴァントハウス・オーケストラを休んだ唯一の時間となった[3]

1961年フランツ・コンヴィチュニー率いるゲヴァントハウス管弦楽団とともに初来日[1][2][4]。1961年に初来日した際には、日本の音楽学生やマナーの良い聴衆を高く評価しており[5]、それからの来日回数は非常に多く、コンサートマスター、指揮者、カルテット、教育者と、ヴァイオリニスト以外の活動も多彩かつ熱心であったため、日本のオーケストラへの客演も数多く行う[1][5]1962年、フランツ・コンヴィチュニーの指揮でブランデンブルク協奏曲全曲を演奏。1963年、(ゲヴァントハウスバッハ管弦楽団)を創立し、リーダーを務める[1]1964年には、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団として来日[1]1968年ヨハン・ゼバスティアン・バッハ国際コンクールの審査委員になる。1977年、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団第1ヴァイオリンの座をカール・ズスケに譲る。1978年、自身が創設したゲヴァントハウスバッハ管弦楽団として来日[1]1987年、ゲヴァントハウス管弦楽団第1コンサートマスターを退任[1][2]。6月14日にゲヴァントハウス管弦楽団、6月22日にゲヴァントハウスバッハ管弦楽団とのフェアウェルコンサートを指揮。

1992年、再婚し2度目の結婚となった際の妻であるウルスラ・ボッセが、がんにより66歳で亡くなる[6][7]。その年のクリスマスは、ウィーンにある大学の研修所を運営していた野村三郎と過ごす[3]。ボッセと野村は両人とも、長年ボッセの通訳を務め、その誠実な人柄を深く信頼していた菅野美智子すがの みちこ[3]、ボッセの再婚相手にと考える[3][6]。美智子は、ボッセからの求婚に驚くも承諾[3]1993年、美智子と再婚し3度目の結婚となる。妻となった美智子には、彼女無くしてボッセの音楽活動や教育活動での活躍は考えられないと言われる程、公私両面で支えられる[3][6][8]。日本に在住するが[4]、日本へ永住する準備の際には、階段から落ち怪我を負う[3]。そのリハビリは、「ボッセ先生を見習いなさい」と医者が他の患者に言い病院の模範とされる程、真剣に取り組む[3]

1994年東京藝術大学の客員教授に就任して後進を育成し、同大学の室内オーケストラ正指揮者にも迎えられ2000年まで務めあげる[1][2][3]1998年神戸市室内合奏団の首席指揮者に就任し、神戸市演奏協会に所属[3][4][6]2000年4月、神戸市室内合奏団の音楽監督に就任[1][3][6]。同年、新日本フィルハーモニー交響楽団首席客演指揮者となる[2][6]2002年、東京藝術大学を退官。新日本フィルハーモニー交響楽団のミュージック・アドバイザーに就任[3]。80歳を過ぎてからは骨折を繰り返し、その度リハビリに取り組む[8]2003年、(東京藝大チェンバーオーケストラ)を指揮。2007年、(神戸国際芸術祭)を指揮。

2009年ジャパンアカデミーフィルハーモニックの音楽監督に就任。いつしか大腸癌が身体を蝕み、2009年夏には北海道で静養するも、体調は次第に悪化[3]2011年、ゲヴァントハウス管弦楽団より名誉団員の称号が贈られる。亡くなる前年の12月に行われた演奏会では、大腸癌による痛みが激しくなり、身体も思うように動かなくなり、妻の美智子に手を引かれ時間をかけ指揮台に着く状態だった[8]。病状の悪化を知り私は高槻市の自宅を訪ねた野村に、身動きもままならないボッセは、かすかに右手を振り、野村からは「90歳の誕生日を一緒に過ごせて嬉しいよ」と励まされる[3]2012年2月1日、大腸癌のため大阪府高槻市の自宅で死去[4]。90歳であった。葬儀や告別式は、妻の美智子が喪主となり家族のみで行われ、お別れの会が後日行われた[1][4]

妻の美智子[注釈 1]は、その後ボッセが音楽監督を務めた神戸市室内管弦楽団においてミュージック・アドバイザーを務めており、2014年秋から大阪文学学校に学生として2年間在籍した際には[注釈 2]、ボッセに関する随想集『雨の歌 ゲルハルト・ボッセ、その肖像のための十八のデッサン』を書き上げ、2019年に出版している[注釈 3]

霧島国際音楽祭

1969年(昭和44年)、熊本で行われたゲヴァントハウス弦楽四重奏団の演奏会において、後に霧島国際音楽祭の創設メンバーとなる鹿児島短期大学の教授・野村三郎と出会う[3][9][10][11]

1975年(昭和50年)11月、ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会で訪日し鹿児島県へ来た際、野村と再開[3][5][11]。野村の家に招かれた際、野村が鹿児島オペラ協会や鹿児島交響楽団の発足に携わり、水準の向上に悩んでいる話を聞かされる[3]。野村に鹿児島県の人口を質問し、約50万人と教えられたボッセは「鹿児島県で講習会を開催し、私が指導するのはどうだろう。但し妻のウルスラと一緒にだけどね」と提案し[3]、ぜひ学生たちを指導して欲しいと野村から依頼され[3][5][11]、鹿児島県で夏休み期間中に行う事に同意[12]社会主義国において、夫婦揃って出国する事は亡命に繋がりかねない難しい問題であるため、ボッセは野村と2人で相談して野村が文案を練り、その文章を日本と東ドイツの関係機関に送り出国[3]。ヴァイオリニストでもあるウルスラは元々、ゲヴァントハウス・オーケストラにおいて(トラ)として演奏しており、その頃はゲヴァントハウス・オーケストラの事務局で働いていた[3]

1977年(昭和52年)、来日したボッセは妻のウルスラと共に、鹿児島短期大学で個人レッスンの講習会を、鹿児島県立鶴丸高等学校で演奏会を開催[11]。「ベルリンへは行った事があるが、外国は初めて」と言うウルスラは、スーパーマーケットに並ぶ品物の多さにも驚く[3]。その際、ボッセ夫妻は野村から霧島にも案内され[3][6]、「さらに鹿児島の音楽文化を発展させたい」という野村の思いを受けたボッセは、涼しく風光明媚な霧島が気に入った事もあり、霧島の豊かな自然の中で毎年自らが、志があっても財政的理由等で留学できない学生のために、優れた音楽家の講師を招いて実技指導と演奏会を行う音楽祭を開催し、同時に人的交流を深める事を提案[3][5][6][11][13][14]。講習会は、1978年(昭和53年)にも鹿児島短期大学で実施[3][5]

1980年(昭和55年)8月2日、霧島に当時あった霧島高原ユースホステルにおいて霧島国際音楽祭を開催[11][12][13][15]。ボッセとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団団員のチェリストであるアーダルベルト・スコチッチの2人は、数回の来日で鹿児島の音楽家とは顔なじみとなり、すっかり鹿児島のファンとなっており、7月に日本各地で独奏会を行った後、この音楽祭に参加[13]。ボッセは音楽監督に就任[2][9]。日本中から音楽家を目指す若者が集まった講習会において[12]、スコチッチやウルスラと共に演奏家こと講師として参加[13]。演奏会場として万全とは言えない不自由な設備の状況下で、昼間は講習会、夜は地域住民も集まってのコンサートを実施[5][12]。8日まで行われ[11][13]、10日には鹿児島県文化センターで行われた「霧島国際音楽祭記念 ボッセ、スコチッチと室内楽の夕べ」で幕を閉じる[13]。妻のウルスラ・ボッセは、演奏会後にドイツ料理を振る舞って地元の人々と交流し、現在の霧島国際音楽祭におけるビュッフェパーティーの基礎を築き、ヴァイオリニストとして金の無い学生に無料でレッスンを行うなど、その後も霧島国際音楽祭に貢献[7][注釈 4]

その後も日本を訪れ、毎年指導にあたる[1][4]。野村の危惧していた通り、霧島国際音楽祭は第1回から大きな赤字が発生し、野村の協力者は皆、手を引く結果となり[3][6]、なお私財を投じ続ける野村の窮状を察したボッセは、「もう止めようか」と野村に言った事もあった[6]。1983年(昭和58年)からは後に妻となる通訳の菅野美智子[注釈 5]を伴って[2][3]音楽家育成に貢献するなど、霧島国際音楽祭のために尽力[1][4][6]。やがて、ボッセはどこのオーケストラで客演しても、霧島国際音楽祭のかつての受講生がいるまでになり[3]、ボッセの名は次第に日本各地に広まり、ヴァイオリニスト、数々のオーケストラの客演指揮者として求められるようになる[3][6]。以降も「霧島国際音楽祭を室内楽の柱とし、鹿児島県のために」というボッセの理念は変わらなかった[6]

ボッセら音楽家は「とにかくこの地に音楽ホールが欲しい」と事あるごとに訴え[10][16]、住民らの熱意もあり1994年(平成6年)には霧島国際音楽ホールこと「みやまコンセール」が完成。芸術・文化団体や工事関係者ら県内外から招待された約500人の開会記念式典では、このホールのために鹿児島短期大学講師の久保禎が作曲した献堂曲「霧島」を、ボッセによる指揮の下、鹿児島県内の有志45人で編成した同ホール開館記念オーケストラが、主ホールで演奏[17]。式の後の祝賀会では、地元の主婦を中心にしたボランティアグループが作った料理も食した[17]

2009年(平成21年)、ボッセは大腸癌により次第に体調が悪化した事で、霧島国際音楽祭の音楽監督を辞めたいと野村に漏らすが、完全に辞めるのでなく春や秋など季節の良いときに行けばどうかと引き止められる[3]。2001年(平成13年)には、霧島国際音楽祭の名誉音楽監督となり、音楽監督には堤剛が就任[9]

ボッセは「自分が死んだら墓は作らず霧島に散骨して欲しい」と言い残す[6][18]。ボッセの没後、その思いを酌み鹿児島市、牧園町、霧島町の霧島国際音楽祭友の会3団体が中心となり募金を呼び掛け、音楽祭に参加した音楽家らも協力し[18]、みやまコンセール敷地内の霧島山が見える丘に、高さ約90センチメートル、横幅約120センチメートルあるボッセの記念碑が建てられる[10][18]。2012年(平成24年)7月29日に除幕式が行われ、妻の美智子、娘、鹿児島県知事らが出席した[18]

生前、ボッセは「参加した受講生から世界の名だたるコンクールに入賞し、各国のオーケストラに入団した人も少なくない」「国内外のオーケストラで『以前、霧島で学びました』と声をかけてくれる人が多いことは創設者として何よりの喜び」「受講生同士が刺激し合い、音楽家としての資質を備えていくという状況が今後も続いて欲しいと願っている」と語っている[2]

受賞歴

関連書籍

  • 菅野美智子 『雨の歌 ゲルハルト・ボッセ、その肖像のための十八のデッサン』(2019年1月25日、アルテス パブリッシング)(ISBN 978-4-86559-196-5)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 大阪音楽大学短期大学部のピアノ専攻でアルント・ドルゲに師事。ドルゲ主催の「ドイチェ・ピアステンシューレ」で早期音楽教育を担当。
  2. ^ 後に、同学校の通信教育部におけるエッセイ・ノンフィクションクラスで講師を行っている。
  3. ^ 美智子は、演奏団体の宣伝用パンフレット、CDのブックレットなどの執筆、音楽関係のドイツ語通訳も行う。
  4. ^ その功績により、2009年には野村らがボッセとウルスラの夫妻を描いた七宝焼を制作[7]
  5. ^ 日本テレマン協会室内合唱団、松陰室内合唱団で歌いながら通訳を務めた。
  6. ^ ゲヴァントハウス四重奏団としての受賞。
  7. ^ 同年11月4日、鹿児島市のホテルで行われた県民表彰祝賀会に出席。
  8. ^ 芸術部門での受賞。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「ゲルハルト・ボッセさん死去」『HMV&BOOKS online』HMV、2012年2月2日。2023年3月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 「特集 第27回 霧島国際音楽祭 2006」(PDF)『広報きりしま 2006年9月号』第18号、霧島市、2-7頁、2023年2月26日閲覧 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 野村三郎 (2012年2月). “”. Melos Wien - 野村三郎公式ウェブサイト. 2017年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 「ゲルハルト・ボッセ氏死去/ドイツの演奏家、指揮者」『四国新聞』、2012年2月1日。2023年3月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 総務省地域力創造グループ地域自立応援課『創造的人材の定住・交流の促進に向けた事例調査』(レポート)、、2012年3月、109-116頁。2023年2月26日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 野村三郎 (2012年3月6日). “”. Melos Wien - 野村三郎公式ウェブサイト. 2017年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月4日閲覧。
  7. ^ a b c 「ボッセ夫人の功績を後世に 夫妻描いた七宝焼を制作 霧島国際音楽祭創設メンバーら」『南日本新聞』、2009年8月6日、13面。
  8. ^ a b c 「指揮者ゲルハルト・ボッセさん 探求心失わず生涯現役(追想録)」『日本経済新聞』、2012年5月11日、夕刊、9面。
  9. ^ a b c 「第40回 霧島国際音楽祭特集」(PDF)『広報きりしま 2019年6月号』第298号、霧島市、2019年6月4日、2-5頁、2023年2月26日閲覧 
  10. ^ a b c 「特集 霧島で最高の音楽を」(PDF)『広報きりしま 2014年6月号』第188号、霧島市、2014年6月10日、2-7頁、2023年2月26日閲覧 
  11. ^ a b c d e f g 「霧島国際音楽祭の誕生と成長 ―産・官・民の地域イベントへの参加―」(PDF)『地域総合研究』第2号、鹿児島国際大学附置地域総合研究所、2019年3月30日、55-65頁、ISSN 09142355、2023年2月26日閲覧 
  12. ^ a b c d 「地域再生の原動力―交流人口の増大は観光から―」(PDF)『想林』第4号、鹿児島国際大学附置地域総合研究所、2013年3月27日、58-60頁、ISSN 21850046、2023年2月26日閲覧 
  13. ^ a b c d e f 平野一郎「ボッセ、スコチッチ氏に聞く―霧島国際音楽祭に寄せて― 室内楽で心を一つに オペラでスタートは「自然」」『南日本新聞』、1980年8月5日、朝刊、6面。
  14. ^ 河津啓介「霧島国際音楽祭牧園友の会会長・池田政晴さん」『毎日新聞』、2004年7月19日。2023年2月26日閲覧。
  15. ^ 「ボッセの言づて 霧島国際音楽祭とともに 深い愛情、地域育てる チェリスト・田中雅弘さん」『南日本新聞』、2012年8月1日、11面。
  16. ^ 「21世紀へ―かごしま文化事情 第2部霧島音楽祭20年―奏の岐路 2・器が欲しい=世論の力、県当局を動かす」『南日本新聞』、1999年7月29日、朝刊、12面。
  17. ^ a b 「みやまコンセール開館」『南日本新聞』、1994年7月23日、朝刊、24面。
  18. ^ a b c d 「週間キーワード 7月28日-8月3日 ボッセ氏記念碑完成」『南日本新聞』、2012年8月5日、朝刊、3面。

外部リンク

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