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キャンディーズ

キャンディーズCandies)は、1970年代に活躍した日本女性3人組のアイドルグループコメディエンヌである。所属事務所渡辺プロダクション。多くの楽曲は、当時(渡辺音楽出版)の社員だった松崎澄夫プロデュースによるものであった。

キャンディーズ
出身地 日本
ジャンル アイドル歌謡
活動期間 1973年 - 1978年
レーベル CBS・ソニー
事務所 渡辺プロダクション
旧メンバー 伊藤蘭(ラン)
藤村美樹(ミキ)
田中好子(スー)

メンバー

略歴

デビュー当時

キャンディーズのメンバーは、3人とも(東京音楽学院)のスクールメイツ出身。最終選抜で3人が選ばれたが、当時のスクールメイツには3人以外に太田裕美ザ・ヴィーナスのボーカルであったコニー (歌手)もいた。

1972年昭和47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。

3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし、『歌謡グランドショー』に出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいる」と目を留めた。松崎が担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。メンバーの愛称は親しみやすく呼びやすいカタカナ表記で「ラン」「スー」「ミキ」とした。

1973年(昭和48年)9月1日に「あなたに夢中」で歌手デビュー。レコードデビュー前から人気バラエティ番組8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演しておりグループ名は知られていたが、楽曲に関してはしばらくはヒットに恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、3人の内で最年少ながら最も歌唱力が高かったスーが起用されていた。

人気歌手へ

当時のマネージャーである諸岡義明は、キャンディーズをスターダムに押し上げるためにはどのようなアプローチをしたらよいか試行錯誤し、ファン層にも着目した。メンバー3人のなかで、ランのファンは、スー、ミキのファンよりも男性の比率が高く、年齢も幅広いことに気づいた。少し色っぽい憧れのお姉さん的な雰囲気をランは醸しており、それが男子学生らを中心に支持を得ていることを確信した諸岡は、1975年(昭和50年)に5枚目のシングル「年下の男の子」をリリースするにあたり、ランをセンターに据えてメインボーカルを取らせる決断をする。この予見は見事に当たり、同曲はオリコンにおいて9位を獲得、念願だった初のベストテン入りを果たす[1]。この大ヒットが起爆剤となり、キャンディーズのファンクラブ会員数は激増した。取り分け大学生の熱心なファンが堂々とファンであることを公言し、親衛隊を名乗り結成する者たちもいた(のちに「全国キャンディーズ連盟に加入したファンも多くいる)[2]

1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。その後1977年(昭和52年)にも「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」など、シングル曲が立て続けにヒットする。それ以降のシングルでは、ミキがセンターでメインボーカルを務めた「わな」以外、全てランがセンターポジションであった。人気歌手グループとなってからも、『8時だョ!全員集合』や『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』などのバラエティ番組への出演は続け、以前と変わらずにコントもこなす親しみやすさで、幅広い人気を獲得した。3人のスタイルの良さも注目され、髪型やメイクを真似る女性ファンも多かった。特にランのヘアスタイルは「蘭ちゃんカット」と呼ばれ、支持された[3]

キャンディーズのデビューから3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したピンク・レディーとは、同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、スーとピンク・レディーのケイこと増田恵子はとても仲がよかった。セールスの勢いは7枚連続1位、5枚連続ミリオンセラーなどで、怪物とまで呼ばれたピンク・レディーには及ばなかったものの、大手プロダクション所属の強みもあって、バラエティーへの対応力など、活動の柔軟性、多彩さではリード、中高生や大学生を中心とするファン層の熱心さもあって、両グループは対照的な形で70年代末のアイドルシーンを牽引した。

人気絶頂時の解散

1977年の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如解散を発表する。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、ランが大勢の観客に向かって「皆さん、今日は本当に、どうもありがとう」と感謝を述べた後、ミキ、スーと寄り添いつつ号泣した。3人は涙を流し続けながら、ランが「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります」、ミキが「ごめんなさい」、スーが「許してください」と、それぞれファンに対して謝罪する。それから「私たち、9月で解散します」と突然の解散を宣言。その時に、ランが泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!!」は非常に有名になり、当時の流行語にもなっている。

翌日の7月18日午後、キャンディーズは銀座メイツ[注 1]において緊急記者会見を行い、また同日夜にはフジテレビ系列『夜のヒットスタジオ』へ生出演の際、改めて陳謝する。当初3人は、2か月後の同年9月末限りで解散する意思を固めていたものの、事前に渡辺プロの正式な了承を得ずに発表したこともあり、渡辺プロからの説得と話し合いの末、解散はその後約半年間先送りされることになった。

上記の「普通の女の子に戻りたい」発言を含めて、当時の人気アイドルがほぼ独断で解散を口にしたことは世間に衝撃を与えた[4]。この電撃的な解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では、最初で最後のオリコン1位を獲得する。それまでのシングルが1位を獲得したことが無かったため、ファンをはじめ関係者が解散までには1位を獲得させたいとする支援の後押しがあった(後述)。キャンディーズは解散によって、さらに人気を盛り上げたと言える。また、キャンディーズのバックバンド・MMPでギタリストを務めた西慎嗣は、次のように回想している。「キャンディーズのコンサートは、解散宣言後から雰囲気が大きく変わったのを感じました。1978年3月18日の福岡のステージを皮切りに全国を縦断した『(ありがとうカーニバル)』では、幕が開いた瞬間から“解散当日に向けて彼女たちを最高の状態で送り出す”というファンの熱意が伝わってきました」[4]

1978年(昭和53年)4月4日、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め[5]、マスコミが「歌謡界史上最大のショー」と呼び、日本でも『ザ・ピーナッツ さよなら公演』以来2例目となるお別れコンサート(『(ファイナルカーニバル)』)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。センター寄りの観客席からはセカンドベース後方に設置された舞台の様子が見えず、26インチ程の街頭テレビが幾台か設置され、観客はそれを見つつ公演を堪能した。なお、このキャンディーズによる後楽園球場でのコンサートは、女性歌手(グループ)初のスタジアムコンサートとなった[4]

この模様は収録され、3日後の4月7日にTBSテレビ系列により全国に録画でテレビ放送され[注 2]平均視聴率32.3%(関東地区)という、単独アーティストによる音楽番組としては歴代1位の高視聴率を獲得している[6]。コンサートの最後に歌われた「つばさ」の曲中にあるセリフパートの最後で3人が叫んだ「本当に、私たちは、幸せでした!!」の口上も有名。この曲は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌としてランが作詞したものである。歌う前にランが「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。

なお、解散直後もTBSテレビ『ザ・ベストテン』内では「微笑がえし」が引き続きランクインしたため、慰労会を兼ねたスタッフとの日本国外でのバカンス中に、電話ではあるがテレビ出演をしたことがある[7]

解散後

解散後は一度も再結成を行わなかった[8]。ただし、プライベートでは時々3人で集まっていたという。

  • ランは、1980年昭和55年)に芸能界へ復帰。俳優歌手水谷豊1989年平成元年)に結婚し、1児の母となる(なお、実娘で女優の趣里は2人の長女である)。現在は主に女優として活動。2019年令和元年)にアルバム『My Bouquet』をリリースし、キャンディーズ解散以来41年を経てソロ歌手としてデビュー。以降、シングル曲、アルバム、DVDなどをリリースし、ソロコンサートも開催している。
  • スーは、1980年に復帰後、主に女優として活動。その間一時ソロ歌手として、音楽活動も行いシングル「カボシャール」などをリリース。1991年(平成3年)に結婚(夫は夏目雅子の兄)。子供はなかった。2011年(平成23年)4月21日に乳がんのため55歳で死去、最期はランとミキの2人に看取られながら息を引き取ったという。
  • ミキは、1983年(昭和58年)にソロ歌手として期間限定で復帰、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表。同年2月10日にTBSテレビ『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に出演。3月14日には日本テレビ『ザ・トップテン』の今週の話題曲のコーナーに出演、4月4日に10位にランクインした。1983年に実業家と結婚したことを機に芸能界を引退、3児の母となる(女優の尾身美詞は実娘である)。芸能界引退後は表舞台に出ていなかったが、2011年4月にスーの葬儀に出席、28年ぶりに公の場へ姿を現した。

年表

  • 1972年昭和47年)4月NHK歌謡グランドショー』のマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)として「キャンディーズ」誕生。
  • 1972年(昭和47年)12月31日:『第23回NHK紅白歌合戦』の冒頭で、多数のスクールメイツメンバーとは別の色の衣装を着て舞台中央で踊る[9]。また橋幸夫が歌唱した『子連れ狼』でバックコーラスを務めた(出場歴に数えず)。出場者入場時に画面に流れたテロップに、「スクールメイツ」と並んで「キャンディーズ」とクレジットされていた。
  • 1973年(昭和48年)4月7日TBS8時だョ!全員集合』のアシスタントとしてレギュラー出演。
  • 1973年9月1日:「あなたに夢中」でレコードデビュー(当時のメインボーカル・センター位置はスー(田中好子)が担当)。
  • 1974年(昭和49年)3月:広島ナタリーCM初出演[10]
  • 1974年(昭和49年)3月17日:代々木・山野ホールで初コンサート(800人)。
  • 1975年(昭和50年)2月21日:シングル「年下の男の子」リリース・初の大ヒットでオリコン9位を記録(メインボーカル・センター位置を同曲以降スー(田中好子)からラン(伊藤蘭)に交代)。
  • 1975年10月19日:『キャンディーズ10000人カーニバル』開催(蔵前国技館 / 8600人)。
  • 1975年12月31日:「年下の男の子」で第26回NHK紅白歌合戦初出場。
  • 1976年(昭和51年)3月1日:シングル「春一番」リリース・オリコン3位を記録
  • 1976年10月11日:『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』開催(蔵前国技館 / 13500人)。
  • 1976年12月31日:「春一番」で『第27回NHK紅白歌合戦』出場(通算2回目)。
  • 1977年(昭和52年)7月17日日比谷野外音楽堂でコンサート中、突然の解散宣言。
  • 1977年11月26日:NHK『男たちの旅路 第3部 墓場の島』で歌手役でゲスト出演する。
  • 1977年12月5日:シングル「わな」リリース(メインボーカル・センター位置はミキ(藤村美樹)が同曲唯一の担当)
  • 1977年12月31日:「やさしい悪魔」で『第28回NHK紅白歌合戦』に出場(通算3回目、最後の紅白出演)。
  • 1978年(昭和53年)2月25日:シングル「微笑がえし」リリース・初のオリコン1位を達成(3月12日付)。
  • 1978年4月4日:『ファイナルカーニバル』(後楽園球場 / 55000人)をもって解散。
  • 2008年平成20年)4月4日:後楽園球場跡地に建つJCB HALLにて『全国キャンディーズ連盟2008大同窓会』開催(参加者2000名)。
  • 2008年9月3日:20枚組ボックスアルバムキャンディーズ・タイムカプセル』リリース(未発表曲「霧のわかれ」、「やさしい悪魔」の通称“木魚版”を収録)。
  • 2011年(平成23年)4月21日:田中好子が乳癌により死去。
  • 2015年(平成27年)11月4日:キャンディーズの伝説的コンサートである『ファイナルカーニバル』をほぼ完全収録した「キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM」が、Sony Musicから5枚組で限定販売された。オリコン音楽DVD週間チャートで初登場第1位を獲得した(CDジャーナル)。
  • 2016年(平成28年)3月18日:「キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM」のDVD発売を記念して、東京・赤坂BLITZにてフィルムコンサートが実施された。
  • 2018年(平成30年)4月4日:解散40周年を記念して、ファン主催による「キャンディーズ・フォーエバー 〜伝説から40年〜 ファン・全員集合!」が旧後楽園球場にほど近い水道橋WORDSにて行われた。イベントは寄付金でまかなわれ、「キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM」のフィルムコンサートが無料で開催された(読売新聞2018年4月5日)。

ディスコグラフィ

シングル

発売日 タイトル 最高順位 規格品番 初出アルバム
1 1973年9月1日 あなたに夢中 36 SOLB-64 あなたに夢中〜内気なキャンディーズ〜
2 1974年1月21日 そよ風のくちづけ 39 SOLB-96 危い土曜日〜キャンディーズの世界〜
3 1974年4月21日 危い土曜日 46 SOLB-131
4 1974年9月1日 なみだの季節 40 SOLB-179 なみだの季節
5 1975年2月21日 年下の男の子 9 SOLB-220 年下の男の子
6 1975年6月1日 内気なあいつ 18 SOLB-274 N/A
7 1975年9月1日 その気にさせないで 17 SOLB-310 その気にさせないで
8 1975年12月5日 ハートのエースが出てこない 11 SOLB-348 春一番
9 1976年3月1日 春一番 3 SOLB-388
10 1976年5月31日 夏が来た! 5 06SH-12 夏が来た!
11 1976年9月1日 ハート泥棒 17 06SH-54 N/A
12 1976年11月21日 哀愁のシンフォニー 12 06SH-92 キャンディーズ 1 1/2〜やさしい悪魔〜
13 1977年3月1日 やさしい悪魔 4 06SH-128
14 1977年6月21日 暑中お見舞い申し上げます 5 06SH-163 キャンディ・レーベル
15 1977年9月21日 アン・ドゥ・トロワ 7 06SH-204 N/A
16 1977年12月5日 わな 3 06SH-245 CANDIES FINAL CARNIVAL Plus One
17 1978年2月25日 微笑がえし 1 06SH-263
18 1978年11月21日 つばさ 16 06SH-416 CANDIES 1676 DAYS〜キャンディーズ1676日〜

スタジオ・アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 あなたに夢中〜内気なキャンディーズ〜 1973年12月05日 12
2 危い土曜日〜キャンディーズの世界〜 1974年06月21日 12
3 なみだの季節 1974年12月10日 12
4 年下の男の子 1975年04月21日 12 初の全曲オリジナル・アルバム
5 その気にさせないで 1975年10月01日 12
6 春一番 1976年04月01日 12
7 夏が来た! 1976年07月21日 12 ムーンライダーズが参加
8 キャンディーズ1+12〜やさしい悪魔〜 1977年04月21日 18 2枚組(うち1枚の片面には3人のサインを刻印)
9 Candy Label 1977年09月01日 16 変則2枚組(30cm盤1枚+17cm盤1枚)
10 CANDIES 1676 DAYS〜キャンディーズ1676日〜 1977年12月05日 58 5枚組(ベスト盤3枚+洋楽カバー1枚+未発表曲・新曲1枚)
11 早春譜 1978年03月21日 20 2枚組

ライブ・アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 キャンディーズ10,000人カーニバル 1975年12月21日 10 同年10月19日 蔵前国技館実況録音
2 蔵前国技館10,000人カーニバルVol.2 キャンディーズ・ライブ 1976年12月05日 18 同年10月11日 蔵前国技館実況録音
3 キャンディーズ ファイナルカーニバル プラス・ワン 1978年05月21日 39 同年4月4日 後楽園球場実況録音、3枚組(うちスタジオ録音1枚)
オリコン1位獲得
1985年3月21日に初CD化、CD化されたキャンディーズのアルバム中最古の作品

ベスト・アルバム(LPのみ)

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1974年版- 1974年11月01日 12 (SQ4CH)収録。既発ヴァージョンとヴォーカルが別テイクになっている
2 キャンディーズ・デラックス 1975年06月01日 24 「年下の男の子」を含む2枚組
3 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1975年版- 1975年11月01日 12 「その気にさせないで」「内気なあいつ」収録
4 Best of Best キャンディーズのすべて 1976年06月01日 24 「春一番」「ハートのエースが出てこない」を含む2枚組第2弾
5 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1976年版- 1976年11月01日 12 「ハート泥棒」「夏が来た!」収録
6 決定盤 キャンディーズ 1977年06月01日 30 「やさしい悪魔」「哀愁のシンフォニー」を含む2枚組第3弾
7 THE BEST / CANDIES' SHOP 1977年11月01日 14 「アン・ドゥ・トㇿワ」「暑中お見舞い申し上げます」収録。
通常のジャケットの上にポスターがかぶさっている
8 THE BEST / 微笑がえし 1978年06月01日 30 解散直後にリリースされた。2枚組第4弾
9 THE BEST / キャンディーズ -1978年11月版- 1978年11月01日 14
10 THE BEST / キャンディーズ -1979年版- 1979年06月01日 14
11 THE BEST / キャンディーズ -1980年版- 1980年11月01日 30 2枚組第5弾
12 THE BEST again / キャンディーズ 1981年11月01日 14
13 THE BEST / キャンディーズ -1982年版- 1982年11月01日 12

CD化されたベスト・アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 THE BEST again / キャンディーズ 1983年11月05日 14 CD化された最古のシングル・ベスト
2 キャンディーズ・ベスト・コレクション 1985年04月01日 15 翌年5月21日に同一楽曲のまま、ジャケットとケースを変更して再発売
3 GOLDEN J-POP/THE BEST キャンディーズ 1997年11月21日 38 リリース時点で未CD化のスタジオ・アルバム収録曲やLIVE音源、シングルB面曲を初収録した高音質2枚組
4 2000 BEST キャンディーズ 2000年06月21日 18 シングルA面18曲収録
5 DREAM PRICE 1000 キャンディーズ 年下の男の子 2001年10月11日 6
6 DREAM PRICE 1000 キャンディーズ 春一番 2001年10月11日 6
7 GOLDEN☆BEST キャンディーズ 2002年06月19日 38 2009年8月19日にはBlu-spec CD盤が完全生産限定でリリース
8 キャンディーズ・スーパー・ベスト 2006年07月21日 16
9 キャンディーズ BEST OF BEST 2006年09月21日 12
10 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1974年版- 2008年09月03日 13 後述のCD-BOXキャンディーズ・タイムカプセル』にてSACDでリマスターされて初CD化。
未発表曲「霧のわかれ」(「哀愁のシンフォニー」の初期ヴァージョン)を収録
11 GOLDEN☆BEST キャンディーズ コンプリート・シングルコレクション 2011年06月08日 18
12 ゴールデン☆アイドル キャンディーズ 2015年04月4日 36 シングルAB面全曲収録

CD-BOX

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 キャンディーズ・バイブル 1994年05月01日 88 同作のリリース時点で未CD化のシングル曲・アルバム収録曲を初CD化した最初のCD-BOX。
デビュー20周年記念作品
2 CANDIES HISTORY 〜Best Selection Box 1973-1978〜 1998年09月09日 第2回「10,000人カーニバル」の未発表LIVE音源、
未発表曲「暑中お見舞い申し上げます Part 2」(「暑中お見舞い〜」の別作曲ヴァージョン)などを収録。
デビュー25周年・解散20周年記念作品
3 CANDIES PREMIUM 〜ALL SONGS CD BOX〜 2004年06月30日 デビュー30周年記念作品
4 キャンディーズ・タイムカプセル 2008年09月03日 スタジオ・アルバム10作、LIVE3作、『1676日』の新録盤を最新マスタリングし、
『ヒット全曲集(1974)』をSACDで初CD化。全作とも紙ジャケットで復刻。
未発表曲「霧のわかれ」を収録。デビュー35周年・解散30周年記念作品
5 キャンディーズ伝説 CD-BOX 2008年12月11日 96

スクール・メイツ時代の楽曲

  1. 愛するハーモニー(英語版)(アナログシングル盤)(1972年)
    • 作詞:長恭子/作曲:R.Davis, R.Greenaway, R.Cock, W.M.Backer/編曲:森岡賢一郎
    • B面「夜明けの海へ」
    • (ザ・ニュー・シーカーズ)(英語版)のカバー。コカ・コーラCM曲。
  2. ベスト・オブ・スクールメイツ〜若いってすばらしい(CDベストアルバム) (2002年8月24日)
    • 上記二作のジャケット写真に、伊藤蘭・藤村美樹・田中好子・太田裕美が写っている。

キャンディーズの曲をカバーした歌手

CDとして発表されたもののみ。

ビデオ・DVD

  • キャンディーズ CANDIES FOREVER 後楽園球場ファイナルカーニバルライブ1978.4.4(CBS-SONY VIDEO/β:FBLA-1、VHS:FVLA-1、収録時間51分、各20000円、リニアトラック記録ステレオ)
※このビデオソフトが「キャンディーズ 後楽園球場ファイナルカーニバル」を日本国内で初めてビデオ化した商品。1982年発売。二重紙箱製、オールカラー16頁小冊子封入付属。
  • CANDIES FOREVER (β / VHS / LD / DVD)
    キャンディーズ・ファイナルカーニバル For Freedom / 1978年4月4日 後楽園球場
※ベータ版とVHS版は初期発売版と廉価版の二種が商品化され、廉価版の発売時にLDが同時発売され、後に同一マスターVTRからDVD化が成された。
  • CANDIES TREASURE(4枚組DVD)
    Disc1 / 1977年9月28日 砂防会館
    Disc2 / 1977年11月20日 千葉県文化会館
    Disc3 / 1978年2月9日 芝郵便貯金ホール
    Disc4 / CANDIES HIT PARADE
  • 歌の妖精(VHS / 第7巻) - 天地真理太田裕美・キャンディーズ
  • タイムトリッパー / キャンディーズメモリアル(徳間書店) - 付録DVDにキャンディーズ出演CM10本を収録
  • キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM(DVD)- 5枚組DVDボックス。ディスク1はレッツゴーヤング、ひるのプレゼント(ともにNHK)、ディスク2は夜のヒットスタジオ(フジテレビ)、キャンディーズ カーニバル Vol.2(1976年10月11日・蔵前国技館での公演で現存する24分間)、ディスク3には8時だョ!全員集合、歌のグランプリ、ザ・ベストテン(全てTBS)での楽曲を収録。ディスク4と5には、解散コンサート「キャンディーズ ファイナル・カーニバル For Freedom」を初めて全曲収録。2015年11月4日発売。

主な出演作品

テレビドラマ

  • 敬礼!さわやかさん 第12話「初春!花の五人娘」(1976年1月5日、NET→現・テレビ朝日
  • バケタン家族 第3話「㊙ギャー!恐怖の狼男あらわる!!」(1976年7月26日、NET→現・テレビ朝日)
  • 男たちの旅路 第3部・第2話「墓場の島」(1977年11月26日、NHK) - 山田太一原作。根津甚八演じる主人公の人気歌手、戸部竜作が突然引退を決意。舞台上でマネージャーを出し抜き引退宣言をするかどうか最後まで迷うという内容のこのドラマの中で当時人気絶頂であったキャンディーズが出演。彼女らが歌う姿が数回はさまれる。

バラエティ番組

音楽番組

  • 歌謡グランドショー(1972年4月 - 1973年3月、NHK) - レギュラー
  • レッツゴーヤング(1976年4月 - 1977年10月、NHK) - レギュラー
  • さよならキャンディーズ(1978年4月7日、TBSテレビ)※ファイナルカーニバルの中継録画

ドキュメンタリー番組

  • BSエンターテイメント わが愛しのキャンディーズ(2006年7月17日、NHK-BS2)[12]
  • ありがとうスーちゃん 永遠のキャンディーズ(2011年4月28日、TBS)※田中好子追悼番組

映画

ラジオ

※「8時だョ!全員集合」終了後にTBSホールへ移動するため、出番は23時ごろからであった。
  • (ヤング・パートナー ブラボー!キャンディーズ)(1975年10月 - 1976年4月、文化放送) - レギュラー
  • GO!GO!キャンディーズ(1976年6月 - 1978年4月、文化放送) - レギュラー
  • キャンディーズ情報局(1976年7月2日-、日本短波放送) - レギュラー

CM

  • 広島ナタリー(1974年)※初CM[10][13]
  • 旭化成工業(現・旭化成)「レオナ66」(1974年・75年)
  • 伊勢半「キスミーシャインリップ」(1976年)
  • バンダイ「キャンディーズ・ステージオンマイク」(1976年)、「キャンディーズ・フラッシュマイク」(1977年)
  • ハウス食品工業(現・ハウス食品)「ククレカレー」(1976年・77年)、「ククレミートマーボ」(1977年)
  • 森永製菓「チョコフレーク」(1976年)、「チョコスナックトリオ」(1976年)、「ラブチャット」(1976年)、「チョコぼうし」(1976年)、「チョコモナカ」(1977年)、「森のどんぐり」(1977年)
  • 三洋電機「ブラックシャーシ」 / 「ズバコン」《カラーテレビ》(1975年・76年)、「ひえひえ」《エアコン》(1977年)
  • 東京電気化学工業(現・TDK)「TDKカセットテープ『D』」(1977年)
  • 郵政省(現・JP日本郵便)「暑中見舞い葉書」(後の通称「かもめ〜る」)(1977年)

ミュージカル

  • 青春の真中(1974年12月24日、東銀座・中央会館) - クリスマスコンサート『クリスマス・イヴの調べ 〜 白いコンサート』の第1部の中で披露された約30分のミニミュージカル
  • 春一番 〜スタンバイOK(1976年3月29日 - 31日、日本劇場
  • ROCKY(1977年7月17日 - 8月31日、日比谷野外音楽堂梅田コマ劇場・日本劇場・他) - コンサートツアー『サマージャック'77』の中でのミニミュージカル。ツアー最終日の1977年9月1日にはミュージカルの上演は無し

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手
1975年(昭和50年)/第26回 年下の男の子 04/24 ずうとるび
1976年(昭和51年)/第27回 2 春一番 03/24 フォーリーブス
1977年(昭和52年)/第28回 3 やさしい悪魔 07/24 西城秀樹
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

エピソード

キャラクター

  • 全盛期当時、既に大学生世代であったメンバーではあるが、週刊誌の対談などでは処女であることを強調していた。1960年代のアメリカで始まり、1970年代に日本にも伝播してきたフリーセックス(性別からの解放運動)に対するアンチテーゼだったという。
  • 3人それぞれのイメージに関しては、作家山口瞳が『週刊新潮』誌上で連載していたエッセイ「男性自身」において「私はスーちゃんを妻にし、ランちゃんを恋人にし、ミキちゃんを秘書にしたい」と評していた。松下治夫の著書には「ランは元気なタイプ、スーは甘えん坊なタイプ」と書かれていた。
  • 各仕事によりかなり違ったキャラクターを見せていた。歌番組やゲスト出演では、お行儀の良い優等生的アイドルらしく、清潔感のあるハキハキした受け答えをすることが多かったが、ラジオ番組ではくだけた言葉遣いで、台本どおりとは言え下ネタも口にするなどかなり弾けたキャラクターの一面を見せていた。バラエティ番組では体当たりでコントに徹するコメディエンヌぶりも厭わず発揮し、番組関係者からの評判も良かった。コンサートでは、客席に向かって「皆さん、ノってくださーい!」「楽しんでいますかー?」と、フレンドリーでありながら砕け過ぎない丁寧な言葉を使っている。これは下積み時代からの方針である。特にわざわざ会場まで足を運んでくれるファン(お客様)に対し、一期一会の気持ちで礼を尽くすよう教育され、本人たちも納得していたという。後楽園球場における『ファイナル・カーニバル』の後半のMCで少々くだけた口調になっていたシーンが唯一例外として挙げられる。最終公演も半ばを過ぎ、緊張が解けてリラックスしたためだという。
  • 3人は公私ともに非常に仲が良い。仕事で常に一緒の行動が多いグループなどでは、宿泊先のホテルの部屋を別にしてもらい個人の時間を確保する向きが多いなか、キャンディーズの3人は一緒に過ごす環境を望んでいたという。ツアー中のホテルではツインルームにエクストラ・ベッドを入れてもらい、同じ部屋で寝ていたという。休日も一緒に過ごすことが多く、まれに連休が取れると、3人で旅行に出掛けた(3人に加え、友人も同行することがあった)。インタビューなどで「ケンカをしないのか?」「ずっと一緒でイラついたり、ストレスを感じることはないのか?」という質問に、ランは「2人の気持ちが分かりすぎるから」と答え、ミキは「感情的に姉妹以上になっている」と語っている。
  • ランの夫の水谷豊が『うたばん』に出演した際、「現在でも年に数回は(キャンディーズのメンバー)3人で集まって、食事や会話をよくしている。ただし、3人揃って外出することは不可能だから、集合場所はいつも決まって水谷家」と話している。2011年に田中が乳癌を患い末期を迎えた際も、伊藤と藤村は病室に駆けつけ、最期を看取ったという[14]

衣装

  • 同じ事務所に所属していた双子のザ・ピーナッツから、着用した舞台衣装をプレゼントされたことがある。その際、同じデザインのものをもう1着作成し、3人分揃えてくれた。感激したキャンディーズはその衣装を身に着けてステージに立ったことが幾度もある。
  • THE ALFEE坂崎幸之助は『ファイナルカーニバル』の際、ミキの衣装の制作を手伝っていた。

コンサート

  • 当時のコンサートでは客席から多数の紙テープが投げられていた。ファンはキャンディーズが怪我を負わないように、予め紙テープの芯を抜いていたが、それでもステージ上に大量に蓄積された紙テープが足に絡まり、細かい切り傷が絶えなかったという。
  • 『ファイナルカーニバル』の舞台となった後楽園球場には、当時大型モニターがなく、客席のほとんどからキャンディーズの3人は点状にしか見えなかったが、このライブはもともとキャンディーズの最後を目に焼き付けるというよりは、ファンも一体となって完全燃焼する趣旨が強く、まさに「カーニバル」の名に相応しいものであった。また、同球場には天井が無かったため、場外でも歓声ははっきりと聞き取れた。
  • 『ファイナルカーニバル』においては、入場できなかったファン数万人が、球場を取り囲み、球場内から漏れる音声を伝手に一緒に歓声をあげていた。当然こうなることは事前に予測できたため、主催者側はカーニバルのプログラムを予め警察に提出していた。ところが実際の進行が予定より大幅に押してしまったため、警察は主催者側に幾たびも予定時間内に終わらせるよう指示を出した。そのため、公演後半に予定していた楽曲「夏が来た!」は、現場での判断により、やむなくカットされてしまった。
  • 解散までの期間に全国をコンサートツアーした(『ありがとうカーニバル』)。これはいわゆる解散記念興行であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行は1975年ザ・ピーナッツが最初と言われる。ザ・ピーナッツ さよなら公演を参照)。リリースするレコードも、刻々と迫る解散を視野に入れた内容になっていった(「わな」はその例である)。この時、ずっとメインボーカルの機会がなかったミキに、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。

ファン

  • 日本初の、全国組織型ファンクラブ全国キャンディーズ連盟」(「全キャン連」)を持ったアイドルとしても知られる。デビューから数曲の間は『8時だョ!全員集合』等で新曲を披露しても殆どメンバーの名前などを叫ぶコール(声援)がなかったが、「その気にさせないで」辺りからコールが激増した。
  • 石破茂はキャンディーズの大ファンであり、ランがお気に入り(推し)だったことを公言しており、キャンディーズの曲を熱唱したことが報じられたこともある[15]。解散後女優に転向した田中が死去した際には「本当の同時代を生きた私たちの青春そのもの。大事な友達を亡くしたような思いだ」とコメントした[16]
なお、1977年6月19日に行われた朝霧高原バスツアーの際に撮影された記念写真において、ミキの隣に若き日の石破が写っている、という話がネット上で語られているが、該当の写真に写っている人物は別人である、と石破本人が否定している[17]当該記事の中で石破は「コンサートには行っていません。僕は陰からそっと見守るほうだった」と答えている。
  • 『ファイナルカーニバル』で見られた「男性の群集が号泣する」というシーンは、当時としてはショッキングな現象と見られている。1978年4月21日付『週刊朝日』では、解散コンサートの記事で「集団で、しかも人目をはばからずに泣くなんて、キミたち、どういう育ち方をしてきたんだい!?」とも記していた。
  • 1980年12月27日、映画「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(マドンナ役:伊藤蘭)と、「土佐の一本釣り」(主演:田中好子)が二本立てで封切りされた。上映館には往年のキャンディーズファンが多く来場し、話題になった。
  • 1978年4月4日の『ファイナルカーニバル』から30年の時を経て、当時の代表的なファンであった全国キャンディーズ連盟の有志が、解散当時キャンディーズのマネージメントをしていた大里洋吉・現アミューズ相談役に協力を仰ぎ、2008年4月4日に『(全国キャンディーズ連盟2008大同窓会)』と銘打って、約2000名の参加者の下、記念の地である後楽園球場の跡地に同年3月オープンしたJCB HALLにてフィルムコンサートを開催した。その様子は、各マスコミにも取り上げられ話題となった。

歌謡界・事務所関連

  • 松下治夫の著書『芸能王国 渡辺プロの真実』には、公式に渡辺プロが手がけた最初のアイドルはキャンディーズであると記されている。また前述のとおり初期のころの売出しにはNHKの『歌謡グランドショー』の協力も大きく貢献しているという。
  • それまで日本の歌謡界では「3人組は当たらない」と言われていたが、それを覆した。また、センターポジションを曲によって入れ替えるということを、最初に行ったのもキャンディーズである。また、秋元康は田中の訃報に際し「キャンディーズがいなければおニャン子クラブAKB48もなかった」とコメントしている。
  • 同じスクールメイツに所属していた太田裕美も、キャンディーズのオーディションに参加していた。
  • キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、レコードデビュー時にトライアングルに改名した。キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったため(あるいは敬意を表して)、「キャンディーズ」の名称を半ば永久欠番扱いとしたため、と諸説ある。
  • 2012年、キャンディーズをプロデュースした酒井政利のプロデューサー活動50周年を記念し、平成のキャンディーズを発掘・プロデュースするプロジェクト"キャンディーズ・カーニバル"が企画され、酒井自らプロデュースを手がける“ニューキャンディーズ”メンバーを選抜するオーディションの決勝大会が同年11月18日に行われた[18]。キャンディーズ解散から35年となる2013年、ラスト・コンサートが行われた4月4日にC@n-dolsのグループ名でクラウンレコードかシングル曲「年下の男の子」をカバーしてデビュー。しかし、僅か8か月後の同年12月12日に活動を終了を報告した[19]

他の作品への影響

  • 1973年4月2日から1985年3月26日まで、朝日放送(現:朝日放送テレビ)で放映された公開恋愛バラエティ番組プロポーズ大作戦』のオープニングクレジット映像のバックに流れたテーマ曲は、キャンディーズが歌う「ラッキーチャンスを逃がさないで」(サブタイトルは「プロポーズ大作戦のテーマ」)である。1978年にキャンディーズが解散してからも番組が終了するまで使用された。
  • 1976年4月4日から同年9月26日までフジテレビで放送されたクイズ番組クイズ!家族ドレミファ大賞』のオープニングテーマ曲は、キャンディーズが歌う「クイズ!家族ドレミファ大賞のテーマ」である。この曲は、1976年10月3日に番組が『クイズ・ドレミファドン!』にリニューアルすると、タイトルも「クイズ・ドレミファドンのテーマ」と改題し、歌手をアップルズ(後の「EVE」)に変更して引き続き使用、司会・高島忠夫のパートナーが石川ひとみに交代した後は、歌手が石川に変更され、1988年4月3日の最終回まで使用された。
  • 1998年に放送されたフジテレビ系のテレビドラマ『ニュースの女』のサブタイトルは全てキャンディーズの楽曲のタイトルを使用している。
  • 2007年に公開された映画『Little DJ〜小さな恋の物語』では、劇中「年下の男の子」が物語の重要なキーとなる楽曲として使用された(サウンドトラックCDにも収録されている)。また、シングルレコードも小道具として用いられた。
  • ドラえもん』にキャンディーズそっくりのグループ「チョコレイツ」が登場している(てんとう虫コミックス25巻、1981年初出)。「(新聞日づけ変更ポスト)」でチョコレイツの解散コンサートを知ったのび太がスネ夫宅でテレビを見ると、前ページに小さく書かれた女性3人組及び、「とつぜんですが・・・ここでみなさんにおしらせがあります」というコマでテレビの枠に3人がそろっているのが唯一の人物描写で、次いで「わたしたち解散します」「ファンの皆さんにはすまないと思いますけど、わたしたち決心したんです」というセリフが書かれている。
  • 同年代のアニメ関係者は後に『魔法の天使クリィミーマミ』(1983年)の主人公・クリィミーマミの衣装をデザインする際、キャンディーズの衣装を参考にしたという(特に78年頃の白のミニドレス)。
  • 15thシングル「アン・ドゥ・トㇿワ」は、作曲者の吉田拓郎がセルフカバーしている。このカバー版では、曲の終わりに「さよなら、キャンディーズ」と歌っている。
  • もとはしまさひでの漫画『(微笑によろしく)』(1979年 - 1980年、週刊少年マガジンに連載)はキャンディーズファンの男子高校生が大学合格を目指すという物語。
  • スーキャット - 1980年に東京12チャンネル)で放送されたテレビアニメ。キャンディーズのメンバーの名前がついたキャラクターが登場している。
  • しゅごキャラ! - 2006年から2010年に連載された漫画作品、およびそれを原作とするテレビアニメ作品。キャンディーズのメンバーの名前がついたキャラクターが登場している。

解散への軌跡

  • メンバーが解散の意思を最初に伝えたのは、当時のマネージャーを務めていた大里洋吉である。1977年4月9日、京都国際会館でのコンサート終了後の食事の席でのことだったという。大里は自身の渡辺プロ退社が既に決まっていたことと、周囲に与える衝撃が大き過ぎるとの判断から「今の話は俺の胸にしまっておくから、これからのことはおいおい話し合おう」と言ってその場を収めた[20]。言葉通り、大里は渡辺プロを退社するまで他の誰にもメンバーが解散の意思を持っていることを知らせなかったという[21]
  • 日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9か月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが「キャンディーズの3人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。
  • 後に、それは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり(後述の穂口雄右の証言によれば、その5年も前からレッスンの場で「一番いい時に解散しようね」と誓いあっていたという)、そのためには今まで獲得していなかったオリコンチャート1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。このような状況下で、事実上のラスト・シングル「微笑がえし」の作詞を担当した阿木燿子は、キャンディーズの集大成となるように、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔、アン・ドゥ・トㇿワなど)を各歌詞の随所に散りばめた。
  • 作曲を担当した穂口雄右はレコーディングの際、「キャンディーズに敬意を表し、アイドルではなくミュージシャンとして処遇したい」と提案し、スタッフもこれに同意した。この穂口案は、「コーラスのパート譜を当日の、しかもレコーディングの時点で譜面台に用意する」、即ち初見でレコーディングを行うというものである。これほど厳しい条件にもかかわらず、譜面を手にした3人はミュージシャンとして難なくこれを歌いこなし、レコーディングは僅か3回のテイクで完了した。この一部始終を見ていた穂口は後年、以下のように懐古する。「あの(「微笑がえし」)コーラスは絶品であった。デビュー当時、音程を掴むのに苦労していた3人がここまで成長した。そこにいた3人はアイドルではなく、まさにプロのミュージシャンだった。あまりの嬉しさに私(穂口)は、涙を拭くことも忘れて3人のコーラスに聴き入った。ふと周囲を見ると、周りのスタッフも全員が泣いていた[22]
  • 「微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連をはじめ、多くのファンがラスト・シングルを1位にしようと、ラジオ番組や有線放送(現:USEN)にリクエストを送り、音楽ランキング番組にリクエストはがきを送った。一部のファンが1人2枚以上の購入を促す動きもあったというが、それを差し引いても「微笑がえし」は春の別れと旅立ちを切なくも清々しく描いた曲であり、一般層にも受け入れられる楽曲であった。解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得した[23]

主な共演者

主な関係者

穂口雄右
「春一番」「年下の男の子」「微笑がえし」等代表曲の作詞や作曲を担当した作曲家。元GSアウト・キャストのメンバー。16歳の時に、プロとしての活動を開始。その後日本大学芸術学部在学中に、作曲・編曲家の森岡賢一郎に抜擢され、19歳で最年少のスタジオミュージシャンとなり多くのレコーディングセッションに参加。23歳で作曲・編曲家に転向。アウト・キャストからの盟友だった松崎澄夫がプロデュースをしていたキャンディーズを偶然見かけてポテンシャルを感じた縁でプロジェクトに参加するようになる。
MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)
キャンディーズ全盛期のライブを支えたバックバンド。リーダーはワイルドワンズでキーボード担当の「チャッピー」こと渡辺茂樹。後の「スペクトラム」のメンバーも数多く在籍していた。
当初は「ロックンロールサーカス」の名前で、伊丹幸雄のバックバンドを務めていたが、あいざき進也のバックを努める際に「ビート・オブ・パワー」と名前を変え、その後編成を変えMMPとなった。大里マネージャーの意向により1975年8月の日劇ウエスタンカーニバルや10月の蔵前1万人カーニバルで一部サポートに起用される。ホーンセクションをフィーチャーしたロックバンドであるMMPは、当時流行していたソウルミュージックのカバーに力を発揮。またオリジナル曲に於いてもフルバンドでは生み出せないノリをもたらした。ライブに於ける、MMPオリジナル曲「SUPER CANDIES」で客席を煽り、「ハートのエースが出てこない」でキャンディーズが登場するメドレーは名物のひとつとなった。
1977年、キャンディーズ解散前にホーンセクションが「ホーンスペクトラム」として独立(ライブのサポートは解散まで継続)。バンド自体はキャンディーズ解散後にシングル「悲しき願い」を発売するなどの活動もあったが、ほどなくして解散。後にリズムセクションの一部とホーンスペクラムの主要メンバーが合流して「スペクトラム」を結成した。
《MMPおよびそのメンバーによる楽曲》「SUPER CANDIES」「ダンシィング・ジャンピング・ラブ」「さよならのないカーニバル」「つばさ」等
諸岡義明
当時渡辺プロダクション社員、現在はワタナベエンターテインメント顧問。
ザ・ピーナッツ担当後、1973年より初代キャンディーズ担当マネージャーに就任。前述のランのセンター指名など、キャンディーズを大ヒットアイドルに育てた。常に3人と行動を共にし、的確に指導を行っていた。また諸岡以下のキャンディーズを支えた裏方達は「花の諸岡班」とも言われていた。マネージャー交代時には伊藤はあまりのショックに相当落ち込んでいたと言われている。
大里洋吉
当時渡辺プロダクション社員、現アミューズ代表取締役会長。
1975年夏より1977年6月に渡辺プロを退社するまで約2年間、2代目キャンディーズ担当マネージャーを務めた。渡辺プロ退社後にアミューズを設立するも、解散時には契約プロデューサーとしてキャンディーズに協力していた[24]。後にサザンオールスターズなどをスターに育て上げた。2008年4月には『全国キャンディーズ連盟2008大同窓会』(ビデオコンサート)のプロデュース(演出・構成)を担当。
上述の通り、キャンディーズが解散を決意したとき、所属事務所の関係者は誰一人その事実を知らない中で、唯一メンバーから相談・報告された人物。その当時、ショービジネスの研究のため渡米していた[25]。大里は事務所のトップの地位にいた渡辺晋・美佐夫妻にキャンディーズのメンバーが直接話ができるように何度もステージの視察を依頼したがついに実現に至らず、「せめて、一度でもキャンディーズと私を食事に誘い、話を聞いてくれていたら流れは変わっていただろう」と後に語っている[26]
吉野金次
キャンディーズの、特に穂口期における歌謡曲離れした洋楽的なサウンドを支えたフリーのレコーディングエンジニアで、穂口いわく「キャンディーズが時代を超えたもうひとつの秘密兵器」[27]
「年下の男の子」ではミキシング前の締め切り寸前の早朝にランを呼んでヴォーカルの1箇所残された不満のある部分を録り直させるという判断を下し、キャンディーズ初の大ヒットに繋げている。
全国キャンディーズ連盟
キャンディーズをサポートしていたファンの団体。アイドルのファン団体としては稀代な組織力を誇り、キャンディーズをバックアップしていた。一部のメンバーは解散後も2009年4月4日に「日本キャンディーズ協会」を発足させている。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 当時渡辺プロが経営していたライブハウス。跡地はライブハウスレストラン「ケネディハウス銀座」となっている。
  2. ^ またキャンディーズの大ファンである佐野史郎によると、同じくこの音声はファイナルコンサート当日の夜にラジオ番組でも放送されたとのこと[4]

出典

  1. ^ “キャンディーズ「微笑がえし」突然の解散宣言からの全キャン連宣言”. Re:minder. 株式会社リマインダー. 2022年8月19日閲覧。
  2. ^ “キャンディーズのどこがすごいのか?~その後に与えた影響から考える”. エンタメウォッチング. NIKKEI STYLE. 2022年8月19日閲覧。
  3. ^ “懐かしいのが新しい!“今っぽレトロ”ヘア”. ホットペッパービューティーマガジン. リクルート. 2022年8月19日閲覧。
  4. ^ a b c d 週刊現代2022年4月16日号週現「熱討スタジアム」第429回「キャンディーズの解散コンサートを語ろう」p136-139
  5. ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1161頁。(ISBN 4-06-203994-X)。
  6. ^
  7. ^ 2005年9月30日の『中居正広の金曜日のスマたちへ』の「ザ・ベストテンの真相」
  8. ^ “キャンディーズ再結成しなかった本当のワケ 酒井政利氏が激白”. ZAKZAK. 株式会社産経デジタル. 2022年8月19日閲覧。
  9. ^ NHK『わが愛しのキャンディーズ』(2006年7月17日放送)にて当時の映像を紹介
  10. ^ a b 水谷豊&伊藤蘭夫妻、平和への想いを広島から発信! - ORICON STYLE“水谷豊・伊藤蘭夫妻、広島市長と懇談 映画「少年H」PRで来広”. 中国新聞 (2013年7月27日). 2013年7月29日閲覧。
  11. ^ このカヴァーにおける表記は「危ない土曜日」
  12. ^ ““わが愛しのキャンディーズ”リマスター版”. NHK (2021年10月10日). 2021年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月13日閲覧。
  13. ^ 中国新聞 1974年4月23日朝刊 14ページ全面広告、1974年4月21日朝刊 4ページ・1974年4月26日朝刊 12ページ部分広告などには、「キャンディーズ(専属タレント)」の表記がされていた
  14. ^ 田中好子さんの最期 蘭さん・美樹さんみとる [1]
  15. ^ 「石破大臣が歓喜のキャンディーズ熱唱-守屋喚問、久間、額賀実名暴露の夜に」『週刊文春』2007年11月29日号、文藝春秋、26-28頁。 
  16. ^ . MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年4月22日). オリジナルの2011年4月26日時点におけるアーカイブ。. 2014年9月21日閲覧。 
  17. ^ HARBOR BUSINESS Online ハーバービジネスオンライン>政治・経済>「激しい批判をする野党の後ろにも国民はいる」。総裁選出馬を決めた石破茂が語る国会・憲法・沖縄>厳しい質問をする野党議員の後ろにも「国民」がいる|インタビュー:菅野完|2018.09.08| ※2018年9月8日閲覧
  18. ^ “来年デビュー「ニューキャンディーズ」のメンバー3人決定”. 音楽ナタリー. ナターシャ. 2022年8月23日閲覧。
  19. ^ “「NEWキャンディーズ」C@n-dols、わずか8ヶ月で活動終了”. ORICON NEWS. オリコン株式会社. 2022年8月23日閲覧。
  20. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、P305-307。
  21. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、P314。
  22. ^ 穂口雄右 - 現実になったビジョン 第6回(最終回)「微笑がえし」[2]
  23. ^ “【1978年4月】微笑がえし/事実上のラストソングで初の1位”. SponichiAnnex. スポーツニッポン社. 2022年8月19日閲覧。
  24. ^ (2002年7月9日時点のアーカイブ)。
  25. ^ おはよう朝日です』「井上公造の芸能デラックス」(2011年4月22日放送分)、『ナベプロ帝国の興亡』P314にも記述あり。
  26. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、P315。
  27. ^ 現実となったビジョン 第2回 「年下の男の子」

参考文献

  • 『ばいばいキャンディーズ キャンディーズ百科』ベップ出版、1978年
  • 『CANDIES HISTORY』(CD-BOX)付録ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント、1998年
  • 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文春文庫、1995年 (ISBN 9784167571016)
  • 野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男 渡辺プロとその時代』新潮社、2006年ISBN (9784104141029)
  • 松下治夫『芸能王国 渡辺プロの真実』(青志社)、2007年 (ISBN 9784903853079)

関連項目

  • (1973年の音楽#デビュー) - 同じ年にデビューした歌手
  • (年代別プロマイド(ブロマイド)売上ベスト10) - 1974年から1976年の3年間ランクイン。

外部リンク

  • キャンディーズ|SonyMusic
  • (2012年11月12日時点のアーカイブ))
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