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ウワディスワフ・シュピルマン(Władysław Szpilman、1911年12月5日 - 2000年7月6日)は、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家、ホロコースト生還者。長男のクリストファー・W・A・スピルマンは日本近代右翼思想の研究者で、九州産業大学教授である。
生涯
幼少時からフランツ・リストの弟子であった(ヨセフ・ミスドヴィッチ)と(アレクサンデル・ミハロフスキ)にピアノを学んでいる。ワルシャワのショパン音楽院でピアノを学び、20歳からベルリン音楽大学でレオニード・クロイツァーとアルトゥール・シュナーベルに師事した。しかし、1933年、ヒトラーが政権を掌握したことにより2年でポーランドへ帰国。ワルシャワでポーランド放送のピアニストとして音楽家活動を始める。
この時代、シュピルマンはクラシック音楽の演奏活動のほか数多くの大衆音楽を作曲、自らも演奏した。なかでも彼が作曲し、(カジミェシュ・ヴィンクラー)(Kazimierz Winkler)が作詞した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス』("Czerwony Autobus")がよく知られている。
1939年にヒトラーのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによるユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を目の当たりにする。家族全員が絶滅収容所送りとなり、ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中を、ドイツ軍の将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって命を救われた。
戦後はポーランド放送へ復職。1946年に戦時中の体験をまとめた『ある都市の死』(Śmierć miasta)を出版し、2002年にはこれを原作とした映画『戦場のピアニスト』が公開された。
世界中で2000回以上の演奏活動を行なうとともに、戦前から戦後にかけて、数多くの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲して、ポーランドの大衆音楽史にその名を残した。作曲は一部フランツ・シュレーカーに学んだとも言われている。1972年までに幼児・児童向けの愛唱歌やポップスも含めて約500曲を作曲した。1961年にはオーガナイザーの一人としてポップスの祭典「(ソポト国際音楽フェスティバル)」を初開催した。1963年に結成したジャズ・ポップス・クラシックなど幅広いジャンルを扱う(ワルシャワ・ピアノ・クインテット)[注釈 1]の初代メンバーの1人としては1986年(75歳)まで国内外で精力的に演奏活動をした。
脚注
注釈
- ^ メンバーはブロニスワフ・ギンペル、タデウシュ・ヴロンスキなど。1964年にはコンサートのために来日している。
出典
関連項目
- 戦場のピアニスト - シュピルマンの体験記を元に制作され、2002年公開されたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。