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アレクシス・ジギスムント・ワイセンベルク(ブルガリア語: Алексис Вайсенберг, 1929年7月26日 - 2012年1月8日)は、ブルガリアのソフィア出身のユダヤ人ピアニスト。めざましいテクニックとスタイリッシュなフォルムで人気を博し、1966年の復帰後はカラヤンと共演を続けた[1]。
経歴
幼い頃から作曲家のウラディゲロフに作曲とピアノを学び、ピアニストとしてのデビューは14歳の時であった。第二次世界大戦中は収容所に入れられ、苦難の日々を送るが、イギリス委任統治領パレスチナを経てアメリカに逃れる。
その後、1946年にニューヨークのジュリアード音楽院に入学。(サマロフ)、ランドフスカ、そしてシュナーベルの指導を受け、卒業した時には、ワイセンベルクは各国から招かれるほど有名になっていた。1947年にレーヴェントリット国際コンクールで優勝、同年にジョージ・セル指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと共演してデビュー。
その後、1957年に突然、自分の音楽を鍛えなおすとして演奏活動から身を引き、隠遁生活を送る。1966年、パリでのリサイタルで演奏活動に復帰し、ベルリン・フィルのシーズン・オープンの初日に登場するが、この復帰を全面的にバックアップしたのがカラヤンであった[1]。2人の親しい関係は続き、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、フランクの交響的変奏曲など次々に録音。さらにベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を完成。カラヤンはこの時代、円熟期を迎え、完全主義的なカラヤン美学の投影ともいえる、ソリストとオーケストラの関係が緊密になった演奏を目指していたが、ワイセンベルクもその一人だった[1]。以降、コンサート、レコーディングを精力的に行い、一流ピアニストとしての地位を不動にした。
1972年、28年ぶりに祖国ブルガリアに帰国。政府から(キリル・イ・メソディ賞)を授与され、1975年に名誉市民権を与えられた。
2012年1月8日、スイス連邦のティチーノ州ルガーノにて長期間の闘病生活の末に死去した[2]。82歳没。
ジャズに関心を持つという一面も持ち、シャルル・トレネの「ブン!」などの歌の編曲や、自作曲『ジャズの形式によるソナタ』などを残している。これらのピアノ曲はマルカンドレ・アムランが録音している[1]。
脚注
参考文献
- Alexis Weissenberg Archive | A work in progress