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アルタクシアス1世

アルタクシアス1世ギリシア語: Αρταξίας Α΄紀元前230年頃 - 紀元前160年[1])は、(アルタクシアス朝)(フランス語版)の始祖であるアルメニア王国の君主。名はアルメニア語ではアルタシェス (Արտաշես)、ペルシア語ではアルタクセルクセス (𐎠𐎼𐎫𐎧𐏁𐏂𐎠) となる[2]

アルタクシアス1世
アルメニア
在位 紀元前189年ないし紀元前188年
- 紀元前160年ないし紀元前159年

出生 紀元前230年
死去 紀元前160年
(アルタヴァスデス1世)(フランス語版)
王朝 (アルタクシアス朝)(フランス語版)
父親 (ザリアドレス)(ドイツ語版)
(テンプレートを表示)

アケメネス朝およびセレウコス朝の下でサトラップ(地方太守)としてアルメニア一帯を治めていた(オロンテス朝)(アルメニア語版)の一族であり、シュニクの豪族であった(ザリアドレス)(ドイツ語版)の息子[3]。アルメニアへのパルティアの進出を警戒したセレウコス朝のアンティオコス3世に支持されて、紀元前200年頃に父とともにオロンテス朝に対する反乱を起こし、セレウコス朝から大アルメニアのステラテゴン(総督)としての地位を与えられた[4]。その後、紀元前190年にセレウコス朝がマグネシアの戦い共和政ローマに敗れると、紀元前189年(ないし紀元前188年)、アパメイアの和約によって正式にアルメニアの王号を与えられた[5]

こうして史上最初のアルメニア人による独立国家アルメニア王国を打ち立てたアルタクシアスは、独立直後から領土の拡張に乗り出し、東はメディア、北はセヴァン湖北西、西はエルズルムまでを支配下に入れた[6]。そして、これらの領域ではアルメニア語が共通語として使用されるようになった(ただし、公的な書き言葉にはペルシア語とギリシア語が使用されていた)[6]。父ザリアドレスが治めていた(ソフェーネ王国)(ロシア語版)の併合も試みたが、これには失敗している[5]。さらにアルタクシアスはオロンテス朝の影響を脱すべく、アラクス川左岸(今日の(ホル・ヴィラプ)(英語版)近郊)に、ヘレニズム様式に基づく新首都アルタハタを建設した[5]

紀元前165年には、シリア沿岸とメソポタミアの奪還を狙うセレウコス朝からの攻撃を受け、アルタクシアスはアンティオコス4世に敗れた[5]。しかし貢納と引き替えに解放され、アルメニアの支配を続けた[7]。その後、紀元前160年(ないし紀元前159年[8])に王位は(アルタヴァスデス1世)(フランス語版)へと受け継がれた[7]

脚注

  1. ^ Hovhannsiyan, P. “Artaxias I”. Institute for Armenian Studies of Yerevan State University. 2017年4月15日閲覧。
  2. ^ 北川 (2004) 140頁
  3. ^ 北川 (2004) 139頁
  4. ^ ブルヌティアン (2016) 59頁
  5. ^ a b c d ブルヌティアン (2016) 60頁
  6. ^ a b 藤野 (1991) 37頁
  7. ^ a b ブルヌティアン (2016) 62頁
  8. ^ 佐藤 (1988) 93頁

参考文献

  • (北川誠一)「アルメニア王国 - ローマとペルシャのはざま」『「オリエント」とは何か - 東西の区分を超える』藤原書店〈別冊『環』 (8)〉、2004年、138-145頁。ISBN (978-4894343955)。 
  • 佐藤信夫『新アルメニア史 - 人類の再生と滅亡の地』泰流社〈泰流選書〉、1988年(原著1986年)。ISBN (978-4884706678)。 
  • (ジョージ・ブルヌティアン)(英語版) 著、小牧昌平監訳、渡辺大作 訳『アルメニア人の歴史 - 古代から現代まで』藤原書店、2016年(原著2012年)。ISBN (978-4865780574)。 
  • 藤野幸雄『悲劇のアルメニア』新潮社新潮選書〉、1991年。ISBN (978-4106004056)。 
先代
なし
アルメニア国王
紀元前189年(または紀元前188年) - 紀元前160年(または紀元前159年)
次代
(アルタヴァスデス1世)(フランス語版)
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