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アウディ・クワトロ

クワトロ (Quattro[注釈 1])は、ドイツの自動車メーカー、アウディ1980年から1991年まで製造したクーペ型乗用車である。

複数台のクワトロ

Ur-クワトロ

アウディ・クワトロ
Ur-Quattro
 
シリーズ1
 
シリーズ3 フロント
 
シリーズ3 リア
概要
販売期間 1980年-1991年
ボディ
乗車定員 5[1][2][3]
ボディタイプ 2ドア クーペ[1][2][3]
駆動方式 四輪駆動[1][2][3]
(パワートレイン)
エンジン 2,144 cc 直5 SOHC 10バルブ[4][1](1980-1987年)
2,224 cc 直5 SOHC 10バルブ(1987-1989年)
2,224 cc 直5 DOHC 20バルブ(1989-1991年)
変速機 5速MT[4][1]
サスペンション
前後: ストラット式[1][3]
車両寸法
ホイールベース 2,524 mm[5]
全長

4,404 mm[5]

178.2 in./4,562 mm[6](米国仕様1983-1986年)
全幅 1,723 mm[5]
全高

1,344 mm[5](1980-1989年)
52.0 in/1,321 mm[6](米国仕様1983-1986年)

1,320 mm[7](1989-91年)
車両重量

1,290 kg[5](1980-1983年)
1,300 kg[5](1983-1989年)
3,115 lb/1,413 kg[6](米国仕様1983-1986年)
1,360 kg[8](日本仕様)

1,380 kg[7](1989-91年)
系譜
後継 (アウディ・S2)(英語版)
(テンプレートを表示)

ポルシェからフェルディナント・ピエヒを技術担当責任者に迎え入れて最初の型式であり、1980年[9]3月のサロン・アンテルナショナル・ド・ロト(通称ジュネーヴ・モーターショー)で発表された[10][11]。初代モデルの公式名は単純に『クワトロ』であった。クワトロの名称は当型式以後の同社4WDシステム名または4WD仕様車を指す語として使用頻度を広げたことにより、混乱を避けるため『Ur-クワトロ(ウア・クワトロ)』という呼び方も一般化している他[注釈 2]、アウディジャパンでは『オリジナルクワトロ』と併記される[12]。日本では輸入開始がアウディ・80クワトロと同時期であったため、兄貴分として『ビッグ・クワトロ』と呼ばれることもある[13]

4WDといえば悪路走破の目的でパートタイム式を採用するのが一般的であった中で、悪路に限らず幅広い路面状況下でハイパワーを確実に路面に伝える目的でセンターデフを内蔵したフルタイム式4WDの『クワトロ』システムを採用した[9]ことは画期的であり[14]、その後も高性能4WDスポーツカーが多数発売されるようになるなど、自動車業界全体に大きな影響を与えた[4]

ボディフレームはアウディ・80(B2モデル)のフロアパンを流用した(クーペ)と共用するが、フロントサスペンションは形式こそ同じストラット式であるがメンバーから異なるアウディ・200(C2モデル)用であり、リアサスペンションに至ってはクーペのトーションビーム式[1]に対し、アウディ・200前輪用を前後逆に用いた[信頼性要検証]ストラット式[1]に改められており、クーペとの共通性はベースモノコックのみといってよい。前後ともLアームのコイルスプリングでスタビライザーを備えていた。ブレーキもクーペが前輪がディスク[1]、後輪がドラム[1]に対して前輪がベンチレーテッドディスク[3]、後輪がディスク[1][3]になっている。アウターパネルは幅の広いタイヤと拡大されたトレッドに対応しブリスターフェンダーとされ、大型の前後アンダースカートとサイドスカートを装備していた。リアスポイラーはクーペとデザインこそ共通だが大型化されていた。

市販車

1980年11月にヨーロッパで発売された[10]

当初はアウディ・200から流用した[9]ボアφ79.5 mm×ストローク86.4 mmの直列5気筒で2,144 cc SOHC 10バルブにインタークーラーを備えたターボチャージャーで過給し出力200 PS(147 kW)@ 5,500 rpm、29.1 (kgf·m) @ 3,500 rpm[15][4]のエンジンであった。最高速度は222 km/h[4]

日本仕様は160 PS @ 5,500 rpm、23.5 kgf·m @ 3,000 rpm[1][3]

1983年に内装外装ともマイナーチェンジを受け、シリーズ2となった。外装で眼につくのは片側2灯分離していたヘッドライト一体化と、色つきクリアレンズだったテールライトのスモークカバード化である。

北米での販売は1983年モデルイヤーに並行して製造された旧年モデル(ヨーロッパ仕様の1983年モデルのマイナーチェンジを省いたもの)で始まった。北米仕様の初代エンジンは2,144 cc(コード"WX")で、ECU(電子制御ユニット)やターボチャージャーの過給圧など細かい仕様が変更され、最高出力は172 PS(127 kW)に低下した。

1985年に内装外装ともマイナーチェンジを受けた。

1986年北米での販売を終了した。

1987年秋に排気量を2,224 ccに拡大し、最高出力200 PSを維持しながら低回転域のトルクを向上した。

1988年に内装のマイナーチェンジを受けた。

1989年にはDOHC化された20バルブエンジンに変更され、最高出力は220 PS(162 kW)まで向上した[10]アメリカ合衆国での販売累計は664台である。

1991年に製造終了。総生産台数は11,452台[10]

WRC参戦

1980年にスポーツ部門のアウディ・スポーツ: Audi Sport)を設立[16]、5気筒ターボのエンジンは310PS、42.0kg·m[17]までチューンされ、1981年から世界ラリー選手権(WRC)の(グループ4)(英語版)に参戦した[17]

「4WDのラリー車など構造が複雑で重量が嵩むだけ」と性能を疑問視する批評もあったが、初戦のモンテカルロ・ラリーではハンヌ・ミッコラが2位以下を6本のSSで6分以上離すという圧倒的な速さで独走。最終的にはリタイアを喫するも、その能力を見せつけることとなった[17]。第2戦のスウェディッシュ・ラリーで初優勝を飾り[17]、第8戦サンレモ・ラリーではミシェル・ムートン1981年WRC史上初の女性優勝者となった[17]。この他最終戦のRACラリーでもハンヌ・ミッコラが独走で優勝している[17]

1982年スティグ・ブロンクビストを陣営に加え、ムートンがポルトガルアクロポリス、(ブラジル)で勝利、ミッコラが1000湖RACで勝利、ブロンクビストがスウェディッシュサンレモで勝利し、メイクスタイトルを獲得した[17]。この年3月のポルトガルラリーから状況により全アルミニウム製で15 kgあまり軽量化した330 PSエンジンを使用している[17]

1983年第1戦モンテカルロよりグループB規定に適合させた「クワトロA1」を投入。5月の第5戦ツール・ド・コルスより「クワトロA2」として改修モデルを投入。最低重量制限の変更を狙い5気筒ターボの排気量を2,144 ccに縮小しつつ出力を340 PSに向上した[17]。ミッコラがアルゼンチン1000湖、ブロンクビストがRACを3勝してミッコラがドライバーズタイトルを取得した。

クワトロは4WD車史上初めて好成績を収めたラリーカーと位置づけられ、その後のラリーカーの方向を決定づけた。

スポーツ・クワトロ

アウディ・スポーツクワトロ
Sport Quattro
 
スポーツ・クワトロ ドイツ仕様
概要
販売期間 1983年-1984年
ボディ
乗車定員 2
ボディタイプ 2ドアクーペ
駆動方式 4WD
(パワートレイン)
エンジン 2,133 cc 直5ターボ
変速機 5速MT
サスペンション
ストラット式
車両寸法
ホイールベース 2,204 mm
全長 4,240 mm
全幅 1,860 mm
全高 1,344 mm
車両重量 1,200 kg
系譜
先代 クワトロA2
後継 スポーツ・クワトロS1
(テンプレートを表示)

WRCで優位を保つため開発、1983年9月[15]に発表され、グループBのホモロゲーションを取得するため200台[要検証]が販売された。エンジン排気量はUr-クワトロよりやや小さい2,133 cc[17][注釈 3]のDOHC 20バルブだが、最高出力300 hp @ 6,700 rpm、最大トルク35.7 kgf·m @ 3,700 rpm[15]を達成した。ボディーアウターパネルの多くは樹脂ケブラー繊維の複合材で、ホイールもフェンダーも幅が広く(ホイールは9インチ幅)、ターボ装着による熱量増大に対応するため冷却用オイルクーラーがリアスポイラー下に2つ装備される。フロントガラスは高い視認性を求めるアウディスポーツ・ラリーチームのドライバーの要求に従いアウディ・80より傾斜が立ち上がっており、ホイールベースはUr-クワトロと比較して−320 mmと大きく短縮するため、シートは1列化して定員2名となった。ディファレンシャルギアはUr-クワトロに引き続き3デフ構成で、センターおよびリアはドライバーの操作でデフロックが可能。

1984年の世界ラリー選手権では第9戦1000湖ラリーから競技用のエボリューションモデルが投入された。翌年投入される後継のエボリューションモデルが「クワトロS1 E2」と表されることから、逆算で「クワトロS1 E1」と表されることもある。軽量化でよりスピードがあったにもかかわらずクワトロA2よりもハンドリング面で不利となっていたこともあって、スポーツ・クワトロが投入されたのちも先代のクワトロA2も併用され、WRCでの優勝は1984年の(ラリー・コートジボワール)での1勝に留まった。

   
スポーツ・クワトロドイツ仕様のエンジンルーム
ハンヌ・ミッコラの駆ったスポーツ・クワトロ Gr.B(1985年後半仕様)

スポーツ・クワトロS1

アウディ・スポーツクワトロS1
Sport Quattro S1 E2
 
スポーツ・クワトロS1 Gr.B(1985年仕様)
ボディ
乗車定員 2名
ボディタイプ 2ドアクーペ
駆動方式 4WD
(パワートレイン)
エンジン 2.1L 直5 ターボ
変速機 6速 セミAT
サスペンション
強化型マクファーソンストラット
車両寸法
ホイールベース 2,204 mm
全長 4,240 mm
全幅 1,860 mm
全高 1,344 mm
車両重量 1,200 kg
系譜
先代 スポーツ・クワトロ
(テンプレートを表示)

スポーツ・クワトロの後継として1985年の世界ラリー選手権第5戦ツール・ド・コルスから実戦投入された。

名称のS1は正式にはスポーツ・クワトロのグループB公認後直ちに製作された競技用エボリューションモデル20台の公認名称であり、当モデルはその第2進化モデル20台の「エボリューション2」であることから、正確にはS1-E2である[18]

アンチラグシステムを装備し、1985年から1986年のラリー仕様で476 - 550 PS、1987年のパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムでは公称600馬力を発揮する[19][20][21]直列5気筒エンジンを搭載、シフトノブにクラッチセンサーがあるセミATを装備し、1985年のサンレモ・ラリーで前年のタイトル争いで恵まれなかったヴァルター・ロールが念願[注釈 4]の初優勝を飾る。同年RAC・ラリーから空力面を意識。リアフェンダーのエアインレット拡大化に伴いリアスポイラー下のオイルクーラーはリアバンパー上までアウトレットを拡大、フルカウリング化されたバージョンとなる。

しかし同時期に登場したプジョー・205ターボ16等をはじめとする当時のライバル車がミッドシップ4WDを採用するのに対し、フロントエンジンであったためフロントの荷重が多く、ラジエータも車体後端へ埋め込み移設する等の緩和策は投じられたが、センター・ディファレンシャルギアも取り外されている関係上、スポーツ・クワトロからの懸念である重量バランスやハンドリング面で劣っており[注釈 5]、その後は目立った成績を残すことはできなかった。

同時期WRC仕様車をベースにヒルクライム仕様に改造され、1985年のパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにミシェル・ムートンのドライブで参戦・優勝し、当時の新記録も樹立した。1986年はこの大会の常連であるボビー・アンサーが駆り、1987年にもヴァルター・ロールが駆り優勝、記録更新している。

   
ミシェル・ムートンが2006年のグッドウッド・フェスティバルでドライブしたスポーツ・クワトロ(1985年パイクスピーク仕様)
ヴァルター・ロールが2005年のパイクスピークでドライブしたスポーツ・クワトロS1(1987年仕様)

スポーツ・クワトロRS002

 
RS002イメージイラスト

アウディはこれまでどおりスポーツ・クワトロS1で参戦していたが、フロントエンジン車のスポーツ・クワトロS1では競合他社の4WD車の戦力を前にこれまで築いてきた優位性が縮まりつつあった。そこでアウディは更なる優位性を保つため、1985年、グループBをさらに先鋭化させたグループSの立ち上げが決定されると同時に、グループS用車両として『RS002』を開発した[22]

並行し、こちらもスポーツ・クワトロS1のエンジンレイアウトをミッドシップ化した発展版であるグループB用『ミッドシップ・クワトロ』の開発に着手した。両車ともエンジンをミッドシップとし、RS002は更に6気筒(初期段階では300馬力)化され、炭素繊維を主体としたシャシーでのパッケージングとなる。実際に試作車が何台か製作され、まず、パッケージング思想が同様であるミッドシップのハンドリングテストをヴァルター・ロールの協力のもとドイツ国内で行い、まずまずの感触を掴んでいたが、1986年の第5戦ツール・ド・コルスでのヘンリ・トイヴォネンらの事故死をきっかけにグループBの廃止が急遽決定されると同時にグループS構想も実現することなく消滅した。

開発途上であったRS002および、ミッドシップ・クワトロでのWRC参戦は実現されず[注釈 6][23]、第4戦サファリまではスポーツ・クワトロS1で積極的に参戦していたが、以降のWRCへのエントリーは消極的となっていった。

1987年シーズングループAによる200クワトロでの参戦を最後に撤退した。それ以降現在まで「クワトロショック」と呼ばれるほどに至ったグループ4〜グループB全盛期まで続いたアウディシュポルトファクトリーチーム(アウディのワークス・チーム)による参戦は行われていない。

また、グループS構想の発足でその存在が知られるようになったRS002は現在、ドイツのジンスハイム自動車技術博物館、および(アウディ・ミュージアム)(ドイツ語版、英語版)にも展示されている[24]

注釈

  1. ^ イタリア語で「4」の意。カナ表記では「クアトロ」とも。
  2. ^ "Ur-" という接頭辞はドイツ語で『オリジナル』の意。
  3. ^ 出場規則によるターボ係数を掛けて自然吸気3L相当になるよう計算されている。
  4. ^ ロールの前年まで所属していたランチアが中盤戦でメイクスタイトルがアウディ優勢となるとチーム方針で後半戦のコートジボワールまで参戦としなかったため、翌年アウディへ移籍した。
  5. ^ そのため、中-高速域での路面追随性上のアンダーステアを活かしアクセルワークの分割でパワーでねじ伏せるスタイルの走りが主となった中、フロントに車体を進ませる分の挙動中、コーナー経過角度をFF車的な前輪主体の制御をしなければならなかったことにも起因し、後年各社の前・後輪の差動装置の研究課題となる。
  6. ^ 一説によると1985年シーズン前半に『ミッドシップ』のオーストリアでのテスト中に雑誌カメラマンによってプロジェクト自体のリークの恐れがあったためピエヒがプロジェクトを中断したとされる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『外国車ガイドブック1985』pp.208-209。
  2. ^ a b c 『外国車ガイドブック1986』pp.206-207。
  3. ^ a b c d e f g 『外国車ガイドブック1987』pp.200-201。
  4. ^ a b c d e 『ジャーマン・カーズ 夢のSUPERドイツ車ファイル』p.61。
  5. ^ a b c d e f Jan-Henrik Muche, Audi Quattro - auf allen vieren zum erfolg, Koenigswinter: HEEL Verlag GmbH, 2005, pp. 142-149
  6. ^ a b c R. M. Clarke ed., Audi Quattro Gold Portfolio 1980-1991, Cobham, Surrey: Brooklands Books Ltd., 1995, p. 95
  7. ^ a b Jan-Henrik Muche, Audi Quattro - auf allen vieren zum erfolg, Koenigswinter: HEEL Verlag GmbH, 2005, p. 82
  8. ^ 木原寛明編 『名車アーカイブ アウディクワトロのすべて』 三栄書房、2015年、112頁。
  9. ^ a b c 『ワールド・カー・ガイド11アウディ』p.135。
  10. ^ a b c d 25 Years of Audi Quattro Audi Media Site(英語)
  11. ^ 『80年代輸入車のすべて』三栄書房p.63。
  12. ^ “Audi prologueショーカー – デザイン新時代に向けて発表”. Audi Japan Press Center - アウディ. 2022年7月25日閲覧。
  13. ^ “アウディ・ビッグ・クアトロ試乗 世界のクルマの潮流を変えた1台!!【徳大寺有恒のリバイバル試乗記】”. 自動車情報誌「ベストカー」 (2018年6月14日). 2022年4月9日閲覧。
  14. ^ 『世界の名車グラフィティ フォルクスワーゲン』p.86。
  15. ^ a b c 『ワールド・カー・ガイド11アウディ』p.139。
  16. ^ “サブブランド Audi Sport を導入”. Audi Japan Press Center - アウディ. 2022年5月3日閲覧。
  17. ^ a b c d e f g h i j ワールド・カー・ガイド. 11『アウディ』pp.157-160。
  18. ^ Alexander von Wegner, 30 years of Audi Sport - 30 years of quattro, Ingolstadt: Audi AG Communications Motorsport, 2010, P. 47
  19. ^ 河野亜希子編 『サンエイムック Rally and Classics Vol.2 よみがえるグループB』 三栄書房、2010年、83、86、91頁
  20. ^ Jan-Henrik Muche, Audi Quattro - auf allen vieren zum erfolg, Koenigswinter: HEEL Verlag GmbH, 2005, p. 147
  21. ^ Alexander von Wegner, 30 years of Audi Sport - 30 years of quattro, Ingolstadt: Audi AG Communications Motorsport, 2010, p. 49
  22. ^ “Audi Quattro RS 002” (英語). Direita3. 2012年11月30日閲覧。
  23. ^ “Der geheime Quattro-Mittelmotorprototyp” (ドイツ語). urQuattro Club Österreich. 2012年12月3日閲覧。
  24. ^ “ドイツ旅行者による写真” (英語). sjmautotechnik.com. 2012年11月29日閲覧。

参考書籍

  • 『ワールド・カー・ガイド. 11 アウディ』ネコ・パブリッシング、1993年。ISBN (487366103X)。 pp.136-139, pp.157-160
  • 岡崎宏司『世界の名車グラフィティ フォルクスワーゲン』(ISBN 4-10-132005-5)
  • 『ジャーマン・カーズ 夢のSUPERドイツ車ファイル』 2009年8月号
  • 『外国車ガイドブック1984』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1985』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1986』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1987』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1987』日刊自動車新聞社

関連項目

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