フレッシュイン東芝 ヤング・ヤング・ヤング(フレッシュインとうしば ヤング・ヤング・ヤング)は、ニッポン放送で、1961年(昭和36年)11月1日から1973年(昭和48年)9月28日まで、夜の時間帯(22時台・23時台)に放送されていたラジオ番組である。東京芝浦電気(現・東芝)の一社提供番組。
概要
12年通してメインパーソナリティを務めた前田武彦がパートナーを相手に、当時の若者たちの話題を中心としてトークを展開した番組である。元々放送作家だった前田は、当番組がスタートした1960年代始め辺りから徐々にタレントとしての活動が本業となっていった。本番組は宣弘社も制作として加わっており、最初に付けたタイトルは『ヤング・ヤング』だったが、宣弘社プロデューサーの松本美樹が「これじゃパンチが足りない、ヤングをもうひとつ付けよう」と提案して『ヤング・ヤング・ヤング』となった[1]。
毎日20分の番組で、収録は週一回行われていた[2]。ニッポン放送では最初23:10〜23:30の枠でスタート、その後10分ずつ放送時間が繰り上がっていき、1965年10月から22:30〜22:50 の枠で定着した。土曜日編成がスタートした1972年4月からは土曜日の放送が無くなり、金曜日までの放送になった。前田曰く、当時テレビよりはるかに多かったという制作費をバックに本番組では日本各地で取材を行い、ゲストも中曽根康弘、手塚治虫、江崎玲於奈等々多くの著名人を迎えていた[2]。ニッポン放送でプロデューサーを務めていた上野修(ドン上野)は、この番組を1960年代における「『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』と並ぶ二大ヤング看板番組」だったとしている[3]。
番組は1973年9月28日の放送をもって終了。この頃、前田のレギュラー番組は夜のヒットスタジオ(フジテレビ)、(東芝ヒットパレード)(TBSラジオ)など終了・降板が相次いでおり((前田武彦#共産党応援とテレビ局の報復)の節も参照)、前田は自著『マエタケのテレビ半生紀』で「これもバンザイ事件の影響だったのかな」と言ったことを述べている[4]。
番組のテーマ曲は、ポール・スミスの『バット・ノット・フォー・ミー(But not foe me)』(アルバム『デリケート・ジャズ(Delicate Jazz)』収録)。
出演者
放送時間
- ニッポン放送での放送時間
ネット局
- STVラジオ:22:00 - 22:20
- 岩手放送:22:30 - 22:50 (1969年当時)
- 東北放送:22:00 - 22:20 (1969年当時)→ 22:10 - 22:30 (1973年当時)
- ラジオ福島:22:10 - 22:30 (1969年当時)
- 新潟放送:22:40 - 23:00 (1973年当時)
- 静岡放送
- 東海ラジオ放送:22:30 - 22:50
- 京都放送(1964年当時。近畿広域圏内のネット局が毎日放送に移行したのと共にネット終了)
- ラジオ関西(1964年当時。近畿広域圏内のネット局が毎日放送に移行したのと共にネット終了)
- 中国放送:22:40 - 23:00 (1973年当時)
- RKB毎日放送:22:20 - 22:40
- 長崎放送:22:00 - 22:20 (1973年当時)
- 南日本放送:22:30 - 22:50 (1973年当時)
- 毎日放送:22:30 - 22:50 (1966年当時)→ 23:50 - 24:10 (1973年当時)
- (1965年または1966年頃から。京都放送、ラジオ関西から近畿広域圏のネット移行)
脚注
ニッポン放送 月曜 - 金曜 23:10 - 23:30 → 22:30 - 22:50 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
魅惑のコーナー | フレッシュイン東芝 ヤング・ヤング・ヤング (1961年11月 - 1973年9月) | (マイマイカンパニー) |
ニッポン放送 土曜 23:10 - 23:30 → 22:30 - 22:50 | ||
魅惑のコーナー | フレッシュイン東芝 ヤング・ヤング・ヤング (1961年11月 - 1972年3月) | (土曜の夜はテレフォンジャングル) (22:00 - 24:00) |