藤原 秀道(ふじわら の ひでみち)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家末茂流、(紀伊守)・藤原総継の子。光孝天皇の外叔父。
経歴
仁明朝末の承和15年(848年)従五位下に叙爵し、(安房守)次いで大炊頭に任ぜられる。文徳朝末の斉衡4年(857年)(越後介)次いで(信濃介)と地方官に転じるが、天安2年(858年)正月には左兵衛佐と早くも京官に復す。
同年8月に清和天皇が践祚すると、秀道は9月には右馬頭に転じ、その後も清和朝で長く左右馬頭を務める一方で、貞観元年(859年)従五位上、貞観11年(869年)正五位下と昇進し、貞観17年(875年)迄に従四位下に至る。貞観19年(877年)陽成天皇の即位に伴って国母の藤原高子が皇太夫人になると、秀道は従四位上・中宮大夫に叙任されて高子に仕えるが、元慶3年(879年)2月10日(卒去)。最終官位は従四位上行中宮大夫。
元慶8年(884年)甥にあたる光孝天皇の即位に伴って蔵人頭に任ぜられ、これを2ヶ月務めて辞任したとする文献もある[1]。
官歴
注記のないものは『六国史』による。
系譜
『尊卑分脈』による。