経歴
『尊卑分脈』によると、重遠の父・源重実は鳥羽院武者所の四天王の一人とまで言われる人物。
1160年-平治の乱では、源義朝陣営に加わり敗れることになる。美濃国子康森において落武者狩りに遭い重実は自刃。これにより、重遠は美濃国から尾張国春日井郡浦野村(現・愛知県春日井市)に遷され、浦野を名乗るようになった。[2]
また、養父(祖父)重宗の追討に関与した源義家(八幡太郎)の娘を妻とした。
1185年(文治元年)4月-近江国に住む前に出羽守となっており、重遠はすでに80歳を超えていたが、源頼朝のもとに参上。頼朝は累代の家人である重遠の志に感嘆し、重遠の舎弟十郎、並びに僧の蓮仁らに扶持を与えた。この時、重遠は平治の乱の後も源氏譜代の家人として平家に従わず、頼朝が平家打倒の兵を挙げたのを喜んだが、京の東国武士の乱暴は平家時代以上に酷く、そのために生活が苦しい旨を頼朝に訴えた。頼朝は彼の訴えを認め、その権利や財産を安堵した。[3]
事跡に不明瞭な部分が多いものの、後に尾張を本拠とする豪族として史料上に現れる山田氏や小河氏(水野氏)、高田氏、三河の足助氏などは全てこの重遠に系譜を連ねている。