織田 浄祐(おだ じょうゆう)は、室町時代中期の武将。管領・斯波氏の被官。受領名は主計。通称は与三。浄祐は法名であり、名は重治か?[1]。重治である場合、「重」の字は斯波義重より偏諱を受けたものである。子に(織田与二郎)か。
略歴
古文書で最も古い時期に織田と署名していることが確認できている人物[1]であるが、初期織田氏として登場する藤原信昌、藤原将広、織田教広、織田常松、織田常竹、(織田教継)[注釈 1][2]との関係は不明。
織田伊勢守家、織田大和守家とは異なり、尾張国に関する活動は行っておらず、斯波氏の許で申次として主に東寺との取り次ぎを行っていたことが(東寺百合文書)から分かる[1]。
また、遠江国原田荘細谷郷、越前国河口荘新郷の代官としての活動も見られる[1]。
応永8年(1401年)3月13日の吉田家日次記に、織田与三として初出[1]。これは織田教広や織田常竹が古文書に登場するより1年早い。
応永13年(1406年)7月26日の東寺百合文書に、重治と読める署名がある[1]。
康富記の文安4年(1447年)10月7日条に登場していることから、この時期までの生存は確認される[1]。
康富記の文安6年(1449年)2月7日条には、「織田主計跡与二郎」との記載があることから、これまでに死去または代替わりしたと見られる[1]。
脚注
注釈
- ^ 応永26(1419)年10月8日付妙興寺文書に、「織田左兵衛尉敎繼」の寄進状が含まれている。