ヴァレリヤン・ウラジーミロヴィチ・クイビシェフ(ロシア語: Валериа́н Влади́мирович Ку́йбышев, 1888年6月6日 - 1935年1月25日)は、ロシアの革命家。ロシア内戦中は赤軍の上級政治委員。ソ連の著名な政治家。
生い立ち
クイビシェフは1888年、オムスクの軍人の家庭に生まれ、オムスク幼年団(陸軍幼年学校)で学んだ。1904年にロシア社会民主労働党へ参加。1905年、軍事医学アカデミーへ入学したが、1906年に退学させられた。1906年から1914年の間、彼はロシア帝国内各地においてボリシェヴィキのために活動し、シベリアの(ナリュム)に追放された。1914年12月、ロシア社会民主労働党ペトログラード委員会委員となる。
革命期
1917年の二月革命後、彼はサマラに移り、地方ソビエトの議長となった。同年10月、サマラ革命委員会議長となり、市内のボリシェヴィキの武装蜂起を指揮した。1918年からサマラ県執行委員会議長。当時、「左派共産主義」に加わり、ブレスト=リトフスク条約の締結に反対した。
ロシア内戦時、陸軍・海軍革命軍事会議議員となる。1918年10月、党サマラ県委員会議長となり、アストラハンの防衛を組織した。1919年10月、全ロシア中央執行委員会トルケスタン委員会副議長兼トルケスタン戦線革命軍事会議議員。ザカスピエ攻勢時に政治委員となり、領内の粛清を指揮した。1920年5月、トルケスタン戦線政治局長。9月からブハラ人民ソビエト共和国全権代表。
1920年12月、全ソ労働組合中央評議会幹部会議員。1921年4月、全ロシア人民経済会議幹部会議員、11月、電気総局長。1921年から党中央委員会委員候補、1922年~1923年と1926年以降、中央委員。1922年4月~1923年4月、党中央委員会書記。1922年~1923年と1934年~1935年、中央委員会組織局員。1923年4月~1926年8月、党中央監督委員会議長。1923年~1927年、中央監督委員会幹部会議員。1923年7月から、ソ連労農監察人民委員、1926年1月~5月、ソ連人民委員会議副議長を兼任。
革命後
党内の派閥闘争時、クイビシェフは、「党の団結」に賛成し、ヨシフ・スターリンの忠実な支持者となった。また、工業化と集団化の信奉者でもあったクイビシェフは、1926年8月、ソ連(最高人民経済委員会)議長となり、ソ連の全工業を手中に収めた。1927年12月、中央委員会政治局員となり、死ぬまでその地位を保持した。
1930年、グリゴリー・オルジョニキーゼに代わり、国家計画委員会(ゴスプラン)議長を1934年4月まで務めた。1930年11月~1934年5月、人民委員会議副議長、1932年2月~1933年4月、農産物調達委員会議長を兼任。1934年2月からソビエト監督委員会議長。1934年5月、クイビシェフのために新設された人民委員会議第一副議長職に任命。
彼は大粛清の推進者の1人であったが、弟で赤軍の軍団長だったニコライと最初の妻のエウゲニヤを粛清によって処刑されている(両人とも死後に名誉回復)。セルゲイ・キーロフ暗殺事件の捜査に着手して数日後、心臓発作で急死。遺骸はクレムリンの壁に葬られた。
パーソナル
彼は熱心な音楽家であり詩人であった。
クイビシェフは二度結婚したが、子供はいなかった。
顕彰
サマラ市(ロシア、サマラ州の州都)、ヴォルガール(ロシア、タタールスタン共和国)、及び(ハガルツィン)(アルメニア)は、彼の死後に改名され、1935年から1991年まで「クイビシェフ」と呼ばれた。ロシア・ノヴォシビルスク州の(クイビシェフ)と、アルメニアのクイビシェフの二都市は、いまだ彼の名を冠している。サマーラ近くのヴォルガ川上に1957年完成した水力発電所は、クイビシェフ水力発電所と命名された。