略歴
1904年(明治37年)、長崎県北松浦郡生まれ。長崎高等商業学校(旧制。現・長崎大学)卒業後、英語教師となる[1]。在学中より自由律俳句に傾倒し、24歳のとき「層雲」に入会、荻原井泉水に師事。のち「層雲」同人、1942年層雲賞受賞。[2]。1945年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、四人の子供のうち長男、次男、次女の三人を失う。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居、公立学校教員(地方公務員)となり、佐世保市立佐世保第二中学校の英語教師となる。1948年に再婚、生地を離れ長野県千曲市の高等学校に赴任したが、定年退職後また長崎に戻った。
1972年、教え子の支援をうけ、被曝体験を綴った句集『原爆句抄』を私家版で出版。のち版を替えてたびたび再刊されている。集中の「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」が代表句として知られ、1961年に長崎市下之川橋国道沿いに建立された、12人の俳人による原爆合同句碑にこの句が刻まれている(のち長崎原爆資料館の公園に移設)。1983年10月死去、79歳。1988年には長崎平和公園の「祈りのゾーン」に、「降伏のみことのり妻をやく火いまぞ熾りつ」句碑、および『原爆句抄』から「なにもかも-」の句を含む複数の句を刻んだ句碑が設置されている。
参考文献
- 平田周編 『原爆句抄 魂からしみ出る涙』 書肆侃侃房、2015年
- 佐藤文子 現代俳句コラム なにもかもなくした手に四まいの爆死証明 松尾あつゆき 現代俳句協会ウェブサイト、2012年11月1日
関連文献
脚注
外部リンク
- - ウェイバックマシン 47NEWS、2010年7月30日
- 松尾あつゆき直筆原稿など、長崎原爆資料館に託す 読売新聞オンライン、2015年5月17日
- 松尾あつゆき:原爆で妻子亡くした自由律俳人の日記 孫の平田さん、長崎原爆資料館に寄託毎日新聞 2015年05月17日 地方版
- 被爆俳人の家族4代物語 松尾あつゆきの孫が出版 読売新聞オンライン、2015年08月22日
- 松尾あつゆき句碑