神吉城(かんきじょう)は播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった日本の城。平城。別名、真名井城(まないじょう)、奈幸子城(なこしじょう)とも呼ばれる。一部遺構として土塁、空堀が残る。
神吉城 (兵庫県) | |
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神吉頼定の墓石 | |
別名 | 真名井城、奈幸子城 |
城郭構造 | 環郭式平城 |
築城主 | (赤松範次) |
築城年 | 南北朝時代 |
主な改修者 | (神吉氏) |
主な城主 | (神吉頼定) |
廃城年 | 天正6年(1578年) |
遺構 | 土塁 空堀 |
位置 | 北緯34度47分42.4秒 東経134度49分45.8秒 / 北緯34.795111度 東経134.829389度座標: 北緯34度47分42.4秒 東経134度49分45.8秒 / 北緯34.795111度 東経134.829389度 |
地図 | 神吉城 |
沿革
赤松氏一族の(神吉氏)が築城、初代城主は赤松則村(円心)の子孫で播磨明石郡の(神出城)主(赤松範次)(神出左衛門範次)が印南郡神吉の庄を領して神吉城を築き、範次の子・(元頼)が神吉城主となり神吉氏を称した。神吉城は神吉の集落全体が城域で、中の丸・東の丸・西の丸・二の丸の4つの曲輪を持つ縄張りの城で、中の丸には低層ながらも天守閣が建てられていたといわれる。
現在、城跡は中の丸が法性山(常楽寺)、西の丸が(真宗寺)となっている。なお、常楽寺の本堂裏にある墓地には城主神吉頼定の墓がある。わがまち加古川60選のNo.48である。
秀吉の播磨攻め
天正6年(1578年)2月、加古川城での毛利討伐の軍議で別所氏と羽柴秀吉が決裂し三木合戦が始まった際、城主(神吉頼定)は同じ赤松氏一族の別所氏についた。このため、神吉城も秀吉と戦うこととなる。周辺の(野口城)・志方城・(高砂城)と共に守りを固め、頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。
しかし、秀吉は周囲から落とす作戦に切り替え、まず4月6日に野口城が落城し、続いて6月23日(グレゴリオ暦7月27日)に神吉合戦が始まった。頼定は兵約2000人で籠城し、対する秀吉勢は織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻め、秀吉勢は頼定の叔父(神吉貞光)(藤太夫)を佐久間信盛を通して謀略で味方に引き入れ頼定を暗殺、7月16日(8月19日)に神吉城は落城したとされる。
また、秀吉は神吉城を攻める際に、生石神社に対し陣所に貸与せよと申し出たが、陣所には貸さぬと拒否されたため焼き討ちにしたとされる(時の生石神社宮司は頼定の弟とされる)[1]。
関連項目
脚注
- ^ “”. 2014年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月9日閲覧。
参照文献
外部リンク
- “神吉氏系譜”. 風雲戦国史 -戦国武将の家紋-. 2013年12月11日閲覧。
- 加古川観光協会. “神吉の常楽寺(神吉城跡)”. 2021年4月9日閲覧。