大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日[1]) - 1918年(大正7年)4月15日[1][2])は、幕末の出石藩士。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。
経歴
江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる[3]。出石藩士の父、大島貞薫に従い同藩江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と出石の間を往来した[1]。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。
1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる[3]。ついで司法少判事、五等判事[3]、東京上等裁判所判事、高知裁判所長、1881年(明治14年)長崎裁判所長、1886年(明治19年)大阪始審裁判所長に就任する[1]。この頃関西法律学校創立に関与した[1]。1890年(明治23年)東京地方裁判所長を経て、1892年(明治25年)長崎控訴院検事長となり、1898年(明治31年)大阪控訴院検事長となった[3]。1903年(明治36年)退官した[1]。
栄典
- 位階
親族
脚注
出典
参考文献
- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
外部リンク
- 関西大学を築いた人々|関西大学 年史編纂室