高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)は、1574年(天正2年)と1581年(天正9年)に武田勝頼と徳川家康の間で行われた、現在の静岡県掛川市にあたる遠江国・高天神城における2度の攻城戦を指す。
概要と前史
高天神城は元は今川氏の支城であったが、桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡によって城主・小笠原氏興は徳川氏に付いた。遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点であった。
武田氏は駿河平定後、三河・遠江方面へ手を伸ばし始め、そのため徳川氏とは小競り合いが続いた。元亀2年(1571年)に武田信玄が2万5000といわれる大軍を率いて三河・遠江に侵攻したが、その際に高天神城を攻め同日撤退したといわれる[1]。その翌元亀3年(1572年)の武田氏のいわゆる西上作戦における遠江侵攻において、高天神城と徳川氏の本拠浜松城とを結ぶ遠江の要所二俣城が陥落し(二俣城の戦い)、高天神城は孤立することになった。しかし、この時点ではいまだ徳川氏の拠点として高天神城は機能していた。なお、武田氏が高天神城を奪ったとする異説もある[2][3]。
信玄の死後、後を継いだ武田勝頼もまた、遠江支配強化のために高天神城を狙い、武田氏と徳川氏は遠江支配の要としての高天神城を奪い合うこととなった。
第一次高天神城の戦い
第一次高天神城の戦い | |
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高天神城址碑 | |
戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:1574年5月 | |
場所:高天神城 | |
結果:開城 | |
交戦勢力 | |
武田勝頼 | 徳川家康 |
指導者・指揮官 | |
武田勝頼 | 小笠原信興 |
戦力 | |
25,000 | 籠城軍1,000 織田、徳川援軍約25,000 |
損害 | |
400程 | 600 |
開戦に至るまで
元亀4年/天正元年(1573年)4月12日、武田信玄は「西上作戦」から三州街道を甲府へ帰陣する途中、信濃伊那郡駒場で死去した。信玄の死は一旦は秘匿され、子息の武田勝頼が武田氏当主を継いだ。武田氏が新体制を整える間に、織田信長は反撃に移行した。同年7月18日に降伏した室町幕府将軍の足利義昭を京から放逐すると、朝廷へ改元を働きかけ天正元年とした。同年8月には越前の朝倉義景と近江の浅井長政(信長の義弟)を相次いで滅ぼした。
織田氏と同盟関係にある徳川家康も信玄の死を機に反撃に転じ、長篠城の奪回や、武田方の作手亀山城主奥平貞能を寝返らせるなど三河における失地回復を進めていた。
経過
天正元年(1573年)、高天神城攻略の足掛かりとして、武田勝頼は馬場信房を遠江に派遣し、諏訪原城の築城を始めた。これをしかし兵力に劣る徳川氏は黙認するしかなかった。
天正2年(1574年)5月、武田氏は2万5000人を動員し小山城を経由して、遠州東部における徳川方の拠点である高天神城を攻撃した。城方は徳川軍の小笠原長忠以下1,000であった。
小笠原は武田軍襲来と同時に徳川家に救援を求めた。しかし、信州から南下する可能性がある武田の別働軍に備えねばならなかった上に、そもそも徳川家の総兵力は1万程度に過ぎなかった。徳川家康は織田信長に救援を要請する。
信長は5月5日から京の賀茂祭に出席していたが、領国に課税のことを命じると[4]、5月16日に京都を出立し[5]。5月28日に本拠地の岐阜に帰還した[4]。
この間に高天神城は、武田軍による攻撃で西の丸を失陥し、兵糧が不足して落城の危機に陥っていた。
6月14日、信長の援軍が岐阜を出陣し、17日に三河の吉田城に到着した。だが翌18日、城内で高天神城を本拠とする国衆の小笠原氏助(信興)が武田勝頼に内通して反乱を起こし[6]、長忠は持ちこたえられずに降伏した。
こうして、高天神城は武田軍に占領された、とされる。
ただしここまで述べられた、『信長公記』中で小笠原氏助・小笠原長忠とされる人物は小笠原信興という同一人物であり、これにより経過の記述などにも混乱が見られる。
実際は守将である信興がその他の将と共に籠城したが、5月以降の再三の援軍要請に主君の家康は全く応える気配がない状態のまま、城方は約60日籠城し、しかし武田方の力攻めに郭を次々と落とされ本間氏清や丸尾義清、高梨秀政らが討死し、城は主郭を残すのみとなり、城主らは城兵の生命と引き換えに開城した、という経過である。
開城後に武田勝頼は寛大な処置を行った。誰一人処分することなく将兵は全て助命し、その身柄を拘束することもなく、武田方に降伏を希望した(渡辺信重)・(伊達与兵衛)(宗春[7])・伏木久内・中山是非助・吉原又兵衛・林平六・(松下範久)らの将は配下に加え、徳川に帰還を希望した大須賀康高・渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣・門奈俊武らの将はそのまま退去を許した。武田氏の配下に降った将には、小笠原麾下で姉川の戦いにて活躍し、「姉川七本槍」[8]と呼ばれた著名な豪の者が7本槍の内6名も含まれており、彼らに徳川家が見限られた様子が窺える。守将の小笠原信興もまた徳川を見限り武田氏に降り、駿河東部に1万貫という高待遇で移封されている。松下之綱も解放されたが、こののち旧知であった織田信長家臣羽柴秀吉の家臣となっている[9]。
武田勝頼はこれら寛大な処置により声望を高め、逆に織田徳川陣営は援軍を派遣できなかったことにより、名声を失った。
翌19日、援軍として向かっていた信長の元に城陥落の報が入り、浜松から家康がやってきて礼を述べた。信長は家康に兵糧代として黄金を贈った。2人がかりでようやく持ち上げられる程の量の黄金を詰めた革の袋を2個分、馬に載せて贈ったと伝わる。21日に信長は岐阜に帰還した[6]。
浜松に帰還した大須賀康高は即座に(馬伏塚城)に配属され、同城が対高天神城の最前線となった。康高の下には渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らの同じく帰還組が与力として配属され、彼ら与力はのちに築いた横須賀城に由来する「横須賀衆」「横須賀七人衆」と呼ばれた。
第二次高天神城の戦い
第二次高天神城の戦い | |
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大河内政局が拘留されていた牢 | |
戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:1581年 | |
場所:高天神城 | |
結果:徳川軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
武田勝頼 | 徳川家康 |
指導者・指揮官 | |
岡部元信 † 横田尹松 江馬信盛 † 孕石元泰など | 徳川家康 |
戦力 | |
1000 | 5,000 |
損害 | |
岡部元信 討死、壊滅(戦死688以上) | - |
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫した。これ以降、二俣城・(犬居城)などにおいて徳川方の反攻が始まった。
同年8月、高天神城への重要な補給路であった今福友清や室賀満正の守備する諏訪原城が徳川の攻撃に曝された。体制の立て直しが完了していない武田側の援軍は期待できず、城兵は城を維持し切れなくなり開城し、小山城に退去した。
諏訪原城を接収した徳川家は名目上の城主に今川氏真を据え、城を改修増強し、武田側の大井川沿いの補給路に圧力をかける形勢となった。なお今川氏真は高天神城の守将である岡部元信の旧主君である。
さらに徳川勢は続けて翌9月に(狩野景信)・大熊朝秀らの守る小山城を攻めた。これを武田勝頼が援軍20000(1万3000とも)で救援したため、徳川勢は小山城を落とすことはできなかった。諏訪原城を奪われた武田方は、1576年3月に小山城と高天神城の間に相良城を築くことで高天神城への補給路を維持しようとした。一方徳川方も周辺の城を攻略しようと試み、「高天神城の補給路」を巡る争いが続いた。
徳川勢は大須賀康高を(馬伏塚城)に配し、先の高天神落城を経験した渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らを「横須賀衆」として大須賀氏の与力として加えた。さらに康高に命じて1578年に新規に築城した横須賀城を拠点に、武田氏による高天神城への数度の補給輸送の試みを妨害した。徳川勢は城下の田畑に対して複数回にわたって焼き討ちを行った。補給の失敗もあるため、城の食料備蓄は日々乏しくなっていったと推測される。また小山城にも度々攻撃を加えることで、高天神城への補給を困難にさせた。武田方も横須賀城に攻撃を加えるなどして補給路の確保に努めたが、大須賀康高と横須賀衆がこれを自由にはさせなかった。武田方にとって高天神城の維持はその象徴的な存在という効果の裏で、補給線の長さと困難さから負担の大きなものともなっていた。
天正8年(1580年)8月迄には「高天神六砦」と呼ばれる小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦が完成し、これらに包囲された高天神城への補給路は断たれた[10]。
同年10月[11]、徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。家康は力攻めではなく、城を囲んで周囲に(鹿垣)をつくり、兵糧攻めを行った。
城側から本国に対し、主将の岡部から下の者に至るまでが連名した救援要請の書状が届けられたが、武田勝頼は苦境に陥った高天神城に援軍を送らなかった。勝頼が高天神城を救援できなかった事情について、織田側の史料である『信長公記』は、勝頼は信長の武勇を恐れたためとしている。一方、武田側では事情が異なり、まず挙げられる点として、勝頼は天正6年(1578年)3月の越後国における御館の乱後に上杉景勝と甲越同盟を結んだ、このことにより景勝と敵対する小田原北条氏と武田氏との「甲相同盟」が破綻し、駿河国東部において北条氏政の攻勢を受けていた点が指摘される。逆に北条氏政は織田・徳川氏と同盟を結び、徳川氏は駿河国西部からの攻勢を強めていた。また、勝頼は信長の五男で武田家に人質として滞在していた織田信房(源三郎勝長)を天正8年3月に織田方に返還し、信房を介した信長との和睦を試みていた((甲江和与))。このため勝頼は、高天神城に救援を送ることが織田方との和睦交渉に影響することを懸念していたという可能性も考えられている。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼は高天神城救援の意志を持っていたが、信長を刺激することを恐れた一門の武田信豊・側近の跡部勝資が反対したとする逸話を記しているが、これは確実な史料からは確認されていない。また後述するが、城中にいた軍監の横田尹松は、援軍を送らないように、とする旨の書状を本国に送っている。
天正9年(1581年)1月3日、織田方に武田勝頼出陣の噂が届き、これに備えるべく織田信忠が尾張清洲城に入った[6]。しかし勝頼が出陣した形跡はなく、これは虚報だったようである[12]。
信長はこの城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている[13]。信長は(前回とは逆に)勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。また、書状の中で信長は「武田四郎分際ニては、重而(かさねて)も後巻成間敷(うしろまきなるまじく)候哉」と、勝頼はとうてい救援に来られないだろうと読んでいたようである。天正8年12月に信長は福富秀勝・猪子高就・長谷川秀一・西尾吉次からなる自身の側近衆を高天神城攻囲中の家康の陣に派遣し、陣所を視察させ、戦略の詰めの調整をさせている。
この包囲によって兵糧攻めを受けることとなった城兵は多く餓死したと伝わる。3月25日午後10時頃、江馬信盛ら生存の城兵によるささやかな宴席が設けられたのち、城方の残存武田軍は岡部に率いられて城から討って出て、最も手薄と見られた徳川配下の石川康通の陣に向かい突撃を敢行した。大久保忠世・大須賀康高ら徳川軍がこれに応戦し、激戦ではあったものの衆寡敵せず、岡部元信と兵688は討ち取られ(『信長公記』)、本多忠勝・鳥居元忠・戸田康長らが城内に突入して掃討戦を行い、城は陥落した。前回の落城時の武田方の寛大な処置と違い、名のある捕虜は悉く処断された。
- 城方の一斉突撃の際、先頭は城方総大将の岡部元信当人であったらしく、この先頭の将を迎撃したのは大久保忠世の弟の大久保忠教(大久保彦左衛門)であった。しかし忠教はまさか敵大将が先頭に立って突撃して来たとは思っていなかったため、最初の太刀をつけると後は家臣の本多主水に任せて、他の敵の追討に向かった。本多は岡部に組討ち勝負を挑み、岡部は果敢に応戦したが、急坂を転げ落ちたところを討ち取られた。岡部の享年は70歳に近かったと推測されている。本多主水はしかし討ち取った将がまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検で岡部と分かって驚愕したと伝わる。また大久保忠教は「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助(忠教)が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」(「城側の大将だった岡部への最初の一太刀は自分がやったのだが、あとは家臣の本多主水に討たせた。岡部が自分でそう名乗っていれば、家臣ではなく自分で相手をして討ち取っていたのに、岡部が名乗らなかったから…」)と、自身の回想録『三河物語』中で大敵を逸した悔しさを述べている。
- 迎え撃った大須賀康高勢の横須賀衆の久世広宣は、夜戦急襲で混乱し真っ暗な戦場で、打ち合う剣の火花で敵味方の顔を区別した、という話が伝わる。
なお、軍監として籠城していた横田尹松は脱出に成功し、高天神落城を報告している。徳川家康個人と因縁のあった孕石元泰も脱出したが、翌日に捕縛され処刑された。孕石の切腹に関しては家康の今川家での人質時代に孕石との隣家トラブルがあり、迷惑をかけた側の家康が、苦情を申し立てた孕石を延々と恨んでいたためと伝わる。信濃国善光寺別当家当主の栗田寛久もまた捕縛され処刑されたが、処刑前に家康陣中にいた幸若舞の(幸若義成)による舞を希望し、家康がそれを叶えさせた後に処刑となった、と伝わる。
落城後、7年前に開城を潔しとせず、以降城内の土牢に監禁されていた徳川家臣の(大河内政局)が救い出された、という話が残る。
影響
この戦いが武田氏の威信を致命的に失墜させた戦いである、とする見解がある。前回の落城とは全く逆に、勝頼は岡部元信の救援要請に応じることができず、結果として岡部以下の多くの将兵を見殺しにした。ただし、城将の岡部元信から小者に至るまで連名してまでの援軍の派遣要請に対し、同じく籠城していた横田尹松は勝頼に対し「(兵力の温存のためにも、武田の負担となっていた)高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出している。
翌天正10年2月初頭から行われた織田信長による武田攻め(甲州征伐)の際、多くの武田家臣さらには武田家の御一門衆である木曾義昌や穴山信君、譜代家老の小山田信茂[14]といった大物家臣までもが離反造反したことにより武田氏は崩壊したが、この高天神落城時の顛末が家臣団離反の一因になった、とする見解がある。『信長公記』ではそのあたりが強調され記述されるが、籠城側の降伏を拒否するよう、信長が家康に指示した内容の書簡が残っている。このことから、籠城側が早い時点で降伏開城の意思を家康に伝えていたにも関わらず、籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、「援軍の出せない勝頼」を宣伝し、勝頼の声望を意図的に下げようとした信長の策略だったのではないか、との指摘がある。前回の高天神城落城(第一次)の際に援軍が送れずに見捨てる形となり、声望を低下させたのは徳川家康であり、そして信長その人である。
注釈
- ^ 近年の研究では、元亀2年(1571年)の三河・遠江侵攻は天正3年(1575年)の出来事で、実際には無かった可能性が指摘されている。詳細は(西上作戦#研究史)を参照のこと。
- ^ “【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!”. 2023年5月7日閲覧。
- ^ “家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略”. 2023年5月7日閲覧。
- ^ a b 『信長公記』 巻7
- ^ 『多聞院日記』、『年代記抄節』
- ^ a b c 『信長公記』
- ^ 『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達房実の父。
- ^ 渡辺信重(金太夫)・伊達宗春(宗綱。与兵衛)・伏木久内・中山是非助・吉原又兵衛・林平六・門奈俊武(左近右衛門)
- ^ 翌天正3年(1575年)5月の長篠の戦いの際には、羽柴秀吉の前備として兵100を預けられている - 『山内一豊公紀』
- ^ 「高天神城と六砦」掛川市公式HP
- ^ 『家忠日記』より。『信長公記』には日付がなく、この直前の項の日付が11月17日、次の項が翌年の元旦である。
- ^ その後、信忠は2月19日に上洛し、妙覚寺に宿泊している。(『信長公記』)
- ^ 奥野高広『増訂 織田信長文書の研究』吉川弘文館
- ^ 木曾義昌・穴山信君は信玄の娘婿(ともに勝頼の義兄弟)にあたる。小山田信茂は信玄の従弟(勝頼の祖父武田信虎の妹が信茂の母)にあたるが、『甲陽軍鑑』では御一門衆ではなく譜代家老衆に含まれる
参考文献
- 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年
関連項目
外部リンク
- 今、よみがえる高天神城 - 掛川市による公式ウェブサイト
- 高天神城 武田家の盛衰を映す 朝日新聞
座標: 北緯34度41分54.49秒 東経138度2分6.98秒 / 北緯34.6984694度 東経138.0352722度