藤原 登任(ふじわら の なりとう)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・(大和守)。
経歴
長和2年(1013年)六位蔵人、のち主殿頭・(出雲守)などを歴任する。また、『栄花物語』において、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っていたとの記載があり[1]、公任に家人として仕えていたとも考えられる。
永承5年(1050年)に陸奥守として下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏が衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、陸奥守であった登任は、秋田城介・(平繁茂)(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするが、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に、「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。
系譜
脚注
- ^ 『栄花物語』巻第12 たまのむらぎく、巻第21 後くゐの大将
出典
- 『新編 日本古典文学全集 32 栄花物語 2』小学館、1995年