志道 元保(しじ もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸の毛利氏の家臣。(志道城)主。志道広良の孫で[1]、父は(志道広長)[3]。父が若くして死去したため、祖父の後継となる。
生涯
天文5年(1536年)、毛利氏家臣・(志道広長)の嫡男として生まれる。天文8年(1539年)に父・広長が死去したため、幼少ながら元保が後継となって志道氏を相続した。
天文24年(1555年)、陶晴賢に味方した野間隆実の矢野城攻略に参加し、同年の厳島の戦いで陶晴賢を討った後に始まった毛利元就の防長経略にも従った。弘治3年(1557年)、元保は阿曽沼広秀や(福原貞俊)らと供に長門国且山城を攻撃して、なおも抵抗を続ける内藤隆世を自害に追い込んだ。更に大内義長が籠る長福寺を包囲して、義長を自害させた。
永禄9年(1566年)の月山富田城の戦いにも参加して戦功を挙げ、本領の志道荘だけではなく、安芸国有富、西条八名、周防国高尾、出雲国多久和を知行し、安芸国中麻原代官を務めた。
天正10年(1582年)10月23日に死去。享年47。嫡男の(元規)が後を継いだ。次男の元縁は、天正13年(1585年)に椙杜隆康の後継者が不在となったため、その養子となって椙杜氏を継承した。子孫は代々長州藩寄組の藩士として続いた。