津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1日 - 1987年〈昭和62年〉7月26日)は、日本の陸軍軍人。財団理事。熊本県出身。陸軍少佐を最終階級として免官。
人物
日露戦争で第三軍指揮官乃木希典の参謀を務めた津野田是重(陸軍少将、(陸士第6期)歩兵科首席)の三男として誕生。
父親の後を継いで陸軍に入ることを決めた際に母親から反対されたが、父の部下であった山下奉文の後押しもあり、軍人となる。後述の津野田事件で陸軍を免官処分になり、戦後は実業界で活動。特に日本科学技術振興財団専務理事時代にはテレビ局「東京12チャンネル」(現在のテレビ東京)の設立に尽力した。
東條英機暗殺計画(津野田事件)
津野田は親交のあった柔道家の牛島辰熊と木村政彦と共に自らが計画した東條英機暗殺、東條内閣打倒計画を行おうとした。これには山形県で隠棲していた石原莞爾も大いに賛同する。 計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであったが、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕された。両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年(昭和20年)3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放。牛島は不起訴。
略歴
- 東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)卒業
- 1937年(昭和12年)12月 - 陸軍士官学校卒業((第50期)、11番/426名)
- 1938年(昭和13年)1月 - 陸軍歩兵少尉
- 9月 陸軍歩兵中尉
- 1941年(昭和16年)3月 - 陸軍大尉(1940年、兵科が撤廃)
- 1942年(昭和17年)11月 - 陸軍大学校卒業(第56期)参謀本部第3部通信課
- 1943年(昭和18年)2月 - 第36師団参謀
- 1944年(昭和19年)3月 - 陸軍少佐
- 1944年(昭和19年)5月 - 参謀本部第1部第3課付
- 1944年(昭和19年)9月 - 前述の津野田事件で逮捕
- 10月 - 起訴
- 1945年(昭和20年)3月 - 免官・禁固2年執行猶予2年
- 1962年(昭和37年)3月 - 日本科学技術振興財団専務理事
- 1987年(昭和62年)7月 - 死去