佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日[1] - 1978年12月8日[2])は、日本の映画監督である。松竹蒲田撮影所から東宝映画、戦後の新東宝へと転身した。
人物・来歴
1903年(明治36年)4月13日、東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区)に生まれる[1]。
1932年(昭和7年)ころに、松竹キネマの松竹蒲田撮影所演出部に入社、清水宏、島津保次郎に師事する。同年、詳細不明の映画『かくて田園は輝く』で監督としてクレジットされているが、このころの佐藤は、サード助監督程度のランクにいた。
1938年(昭和13年)、東宝映画の東宝映画東京撮影所に入社、『(チョコレートと兵隊)』で監督に昇進する。
第二次世界大戦終了後の1947年(昭和22年)、新東宝映画製作所(のちの新東宝)設立に参加、同社の初年度に『(九十九人目の花嫁)』を監督する。同社は翌年、新東宝となり、1949年(昭和24年)までに同社で4本を手がけるが、1950年(昭和25年)、独立し、1952年(昭和27年)までに東宝作品を4本監督する。1954年(昭和29年)には、新東宝作品を4本監督している。
1957年(昭和32年)、54歳になるころ、大映東京撮影所(現在の角川大映スタジオ)で今村貞雄が監督したドキュメンタリー映画『(白い山脈)』の編集にクレジットされて以降の消息はわからない。その後、1978年(昭和53年)12月8日に死去した[2]。満75歳没。
フィルモグラフィ
- 特記以外はすべて監督
松竹蒲田撮影所
- 『(七つの海 後篇 貞操篇)』 : 監督清水宏、1932年 - 監督補助
- 『(かくて田園は輝く)』 : 1932年 - 監督
- 『泣き濡れた春の女よ』 : 監督清水宏、1933年 - 監督補助
- 『港の日本娘』 : 監督清水宏、1933年 - 監督補助
- 『(大学の若旦那)』 : 監督清水宏、1933年 - 監督補助
- 『(東洋の母)』 : 総監督清水宏、1934年 - 共同監督、ほかに(石川和雄)・佐々木康・(沼波功雄)・荻原耐・(恒吉忠康)
- 『隣の八重ちゃん』 : 監督島津保次郎、1934年 - 助監督
- 『(私の兄さん)』 : 監督島津保次郎、1934年 - 監督補助
- 『春琴抄 お琴と佐助』 : 監督島津保次郎、1935年 - 助監督
- 『(彼女は嫌いとひいました)』 : 監督島津保次郎、1935年 - 原作
東宝映画東京撮影所
- 『(チョコレートと兵隊)』 : 1938年
- 『(沙羅乙女)』前篇・後篇 : 1939年
- 『(幼き者の旗)』 : 東宝映画京都撮影所、1939年
- 『(若い仲間)』 : 1939年
- 『(妻の場合 前篇)』 : 1940年
- 『妻の場合 後篇』 : 1940年
- 『(妻の素顔)』 : 東宝映画京都撮影所、1940年
- 『(若い先生)』 : 東宝映画、1942年
- 『(若き日の歓び)』 : 東宝映画、1943年
- 『虎彦龍彦』 : 東宝映画、1943年
新東宝
- 『(九十九人目の花嫁)』 : 1947年
- 『(大学の門)』 : 1948年
- 『(わが街は緑なり)』 : 1948年
- 『(帰国 (ダモイ))』 : 1949年
東宝
- 『(恋しかるらん)』 : 東宝・佐藤プロダクション、1950年
- 『(歌姫都へ行く)』 : 東宝・(三上プロダクション)、1950年
- 『(肉体の暴風雨)』 : 1950年 - 監督・プロデューサー
- 『(細川ガラシャ)』 : 1952年
1952年以降
- 『(栄冠涙あり)』 : 東映東京撮影所、1952年
- 『(クイズ狂時代)』 : 東映東京撮影所、1952年
- 『(ママの新婚旅行)』 : (永和プロダクション) / 新東宝、1954年
- 『(芸者秀駒)』 : (ニッポン・プロダクション) / 新東宝、1954年
- 『(エノケンの天国と地獄)』 : 新東宝、1954年
- 『(嘘)』 : (テレビ映画社) / 新東宝、1954年
註
外部リンク
- Takeshi Sato - IMDb(英語)
- 佐藤武 - 日本映画データベース