1965年の南海ホークスでは、1965年の南海ホークスの動向をまとめる。
1965年の南海ホークス | |
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成績 | |
日本シリーズ敗退 | |
日本S | 1勝4敗(対巨人)[1] |
パシフィック・リーグ優勝 | |
88勝49敗3分 勝率.642[2] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市浪速区 |
球場 | 大阪球場 |
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球団組織 | |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 鶴岡一人 |
« 1964 1966 » |
この年の南海ホークスは、鶴岡一人監督の20年目のシーズンであり、2年連続10度目のリーグ優勝に輝いたシーズンである。
概要
前年日本一を達成した南海はこの年は今までにない絶好調で、なんと開幕わずか3ヶ月後の7月6日に「マジックナンバー62」が点灯した。 7月12日時点で53勝9敗、勝率8割5分5厘とし、2位の東映に23ゲーム差をつけていた。開幕からこれまでの間、完投は2試合だけで[3]投手の分業制が確立されていない当時としては、鶴岡監督の継投策が際立つ結果となった。
しかしその後は低迷、結局前半の超絶好調が物をいって優勝したものの、あまりの超絶好調に観客動員数が低下。この年、主砲・野村克也が「三冠王」を達成。「三冠王」は1938年秋の巨人の中島治康以来27年ぶりで「長期シーズン」では初となった。投手陣はエース杉浦忠が救援に回ったものの、前年26勝のジョー・スタンカや皆川睦雄がローテーションを守り、チームの防御率は2.80で、リーグ1位となった。打撃陣も野村、広瀬叔功、ケント・ハドリなどが打ちまくって本塁打数は153本と、リーグ1位。
シーズンオフ、日本シリーズで巨人(この年から「V9」スタート)に負けた鶴岡一人が1946年以来務めた監督を勇退、蔭山和夫ヘッドコーチが新監督に。だが蔭山新監督は4日で急逝、鶴岡監督が復帰となった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- |
2位 | 東京 | 2.5 | 東京 | 10.5 | 東映 | 18.0 | 東映 | 21.5 | 阪急 | 25.0 | 東映 | 22.0 | 東映 | 12.0 |
3位 | 西鉄 | 3.0 | 西鉄 | 10.5 | 東京 | 20.5 | 西鉄 | 26.0 | 西鉄 | 25.0 | 西鉄 | 22.5 | 西鉄 | 15.5 |
4位 | 東映 | 3.5 | 阪急 | 11.5 | 阪急 | 21.5 | 東京 | 28.0 | 東映 | 26.0 | 阪急 | 24.5 | 阪急 | 21.5 |
5位 | 近鉄 | 5.5 | 東映 | 12.0 | 西鉄 | 22.0 | 阪急 | 28.0 | 東京 | 29.5 | 東京 | 30.0 | 東京 | 25.5 |
6位 | 阪急 | 6.5 | 近鉄 | 15.5 | 近鉄 | 23.0 | 近鉄 | 31.5 | 近鉄 | 38.5 | 近鉄 | 42.0 | 近鉄 | 42.5 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
優勝 | 南海ホークス | 88 | 49 | 3 | .642 | --- |
2位 | 東映フライヤーズ | 76 | 61 | 3 | .555 | 12.0 |
3位 | 西鉄ライオンズ | 72 | 64 | 4 | .529 | 15.5 |
4位 | 阪急ブレーブス | 67 | 71 | 2 | .486 | 21.5 |
5位 | 東京オリオンズ | 62 | 74 | 4 | .456 | 25.5 |
6位 | 近鉄バファローズ | 46 | 92 | 2 | .333 | 42.5 |
日本シリーズ
日付 | 試合 | ビジター球団(先攻) | スコア | ホーム球団(後攻) | 開催球場 |
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10月30日(土) | (第1戦) | 読売ジャイアンツ | 4 - 2 | 南海ホークス | 大阪球場 |
10月31日(日) | (第2戦) | 読売ジャイアンツ | 6 - 4 | 南海ホークス | |
11月1日(月) | 移動日 | ||||
11月2日(火) | (第3戦) | 雨天中止 | 後楽園球場 | ||
11月3日(水) | 南海ホークス | 3 - 9 | 読売ジャイアンツ | ||
11月4日(木) | (第4戦) | 南海ホークス | 4 - 2 | 読売ジャイアンツ | |
11月5日(金) | (第5戦) | 南海ホークス | 2 - 3 | 読売ジャイアンツ | |
優勝:読売ジャイアンツ(2年ぶり7回目) |
オールスターゲーム1965
詳細は「1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
- 3月27日 - かつて南海の選手として活躍し、この年から国鉄スワローズのヘッドコーチ専任となる飯田徳治の引退試合「国鉄×南海」(オープン戦)が、横浜公園平和野球場で行われる。
- 7月6日 - この日東映フライヤーズが東京オリオンズに負け(南海は試合無し)た事で、南海ホークスに「マジックナンバー62」が点灯。最も早いマジックナンバー点灯となった。
- 11月13日 - 鶴岡一人監督が勇退を発表、蔭山和夫ヘッドコーチが後任に。だがわずか4日で蔭山新監督は急逝、鶴岡監督が復帰する。
詳細は「南海蔭山新監督急死騒動」を参照
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
関連項目
脚注
注釈
- ^ 偵察メンバーの度会と交代
- ^ 前年に引き続き、サンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした。