この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2017年6月) |
イェジー・フランチシェク・カヴァレロヴィチ (ポーランド語: Jerzy Franciszek Kawalerowicz, 1922年1月19日 - 2007年12月27日) は、ポーランドの映画監督。
来歴
1922年1月19日、ポーランド・スタニスワヴフ県(グヴォジヂェツ)(現在のウクライナ領イヴァーノ=フランキーウシク州)で生まれた。(クラクフ美術大学)を卒業後、数年間は(レオナルト・ブチュコフスキ)やヴァンダ・ヤクボフスカの元で助監督を務めた。
1952年、(カジミェシュ・スメルスキ)と共同製作した長編『Gromada』で映画監督としてデビュー。1954年には『(セルロース)』と『(フリギアの星の下で)』の2部作を発表。当時支配的であった社会主義リアリズムの枠を守りながらも、他の映画が陥りがちであった一面的描写やステレオタイプを避けることに成功した[1]。1955年、映画製作会社(カドル)の芸術監督に就任。いわゆるポーランド派の時代には『(影)』(1956年)や『(戦争の真の終り)』(1957年)といった作品を発表。1959年の『(夜行列車)』はヴェネツィア国際映画祭でジョルジュ・メリエス賞を受賞した。
1961年、ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの小説を映画化した『(尼僧ヨアンナ)』を発表[注 1]。国内での評価は今ひとつだったものの、第14回カンヌ国際映画祭では審査員特別賞を受賞した。1966年の歴史大作『(太陽の王子ファラオ)』はアカデミー外国語映画賞にノミネートされ、大ヒットを記録した。現在ではポーランド映画における最も評価の高い歴史映画の一つとされている[1]。1977年にはポーランドの初代大統領(ガブリエル・ナルトヴィチ)の暗殺事件を描いた『Śmierć prezydenta』を発表。翌1978年の第28回ベルリン国際映画祭で芸術貢献賞を受賞した。
1983年にポーランドの(民主化運動)である連帯に関係する映画人を批判する共産党政府の文書に署名。これによりアンジェイ・ワイダやクシシュトフ・ザヌーシと袂を分かつことになった。その後もヘンリク・シェンキェヴィチの同名小説を映画化した歴史大作『(クオ・ヴァディス)』(2001年)などを発表したが、共産主義国が崩壊して以後の作品はいずれも高い評価を得られなかった[1]。
監督作品
- Gromada (1952年)
- (セルロース) Celuloza (1954年)
- (フリギアの星の下で) Pod gwiazdą frygijską (1954年)
- (影) Cień (1956年)
- (戦争の真の終り) Prawdziwy koniec wielkiej wojny (1957年)
- (夜行列車) Pociąg (1959年)
- (尼僧ヨアンナ) Matka Joanna od aniołów (1961年)
- (太陽の王子ファラオ) Faraon (1966年)
- Gra (1969年)
- Maddalena (1971年)
- Śmierć prezydenta (1977年)
- Spotkanie na Atlantyku (1982年)
- Austeria (1982年)
- Jeniec Europy (1989年)
- Bronsteins Kinder (1991年)
- Za co? (1996年)
- (クオ・ヴァディス) Quo vadis? (2001年)
脚注
注釈
- ^ 原作はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』(岩波文庫)ほか。フランスの小都市ルーダンで実際に行われた悪魔裁判を題材とした作品。舞台は中世末期のポーランドの辺境の町ルーディンに変えている。修道院の若き尼僧長ヨアンナに悪魔がつき,悪魔祓いに派遣された神父はあれこれ手を尽くすが万策尽きて…。同じ事件はオルダス・ハクスリー『ルーダンの悪魔』でも扱われていて、これはケン・ラッセル監督が『肉体の悪魔』(1971)として映画化。