経歴
北陽高校から、近畿大学へ進学するが1学年上に西岡剛、同期に山内嘉弘、木村恵二がいて登板機会は少なかった。
大学卒業後は、住友金属に入社。1989年には都市対抗野球で松下電器の補強選手として準決勝で先発したが優勝したプリンスホテルに敗れた。この時、松下電器のエースは潮崎哲也で、大学同期の木村も補強選手として登板していた。同年は阪神タイガースの入団テストで合格したが「プロへ行くならドラフトにかかる選手になれ」などと慰留され会社に残留[1]。翌年も都市対抗野球に補強選手として登板した。
1990年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受け入団。1位指名の小島弘務投手は社会人時代の同僚であった(小島は退社後の指名)。
プロ入り時に大学時代に結婚していた夫人が「子供の為にも安定した生活を」と懇願し社会人に残留を求めたが、それを振り切ってプロ入りを実現した。
1991年、与田剛投手の故障によりルーキーながら(ストッパー)に抜擢され、1年目から50試合に登板し、10勝3敗17セーブを挙げて新人王に輝く。この年にいきなりプロ初打席初本塁打を打つ[2][3]など、ストッパーで打席数が少ない(13打数)にも関わらず初年度に2本のホームランを放っている[2]。2号は7月9日のナゴヤ球場の阪神戦で中田良弘から打ったソロ本塁打で、通算でもこの2本塁打だった。
1992年に与田の復帰によりセットアッパーに転向し、開幕戦で2年連続で勝ち投手になり下位に低迷するチームの中6月には3勝を挙げオールスター明けには先発登板しプロ初完投勝利を挙げ次の試合でも先発勝利するなど活躍したがそれ以降は先発としても勝てずリリーフでも失点を重ね、前年の成績を下回った。この年のシーズンオフ、トレードを志願したが、実現しなかった。移籍先に在京球団を希望したと報道されたが、本人はこれを否定している[4]。
1993年は二軍キャンプからのスタートとなり、再びストッパーに抜擢されるが結果を残せず、郭源治にその座を追われる。 翌年以降は肘の遊離軟骨の痛みに悩まされ、サイドスローへの転向など様々な試行錯誤をしたものの結果を残せないまま1995年はついに一軍登板がゼロに終わり、この年のオフ復帰した星野仙一(入団当時の監督だった)の戦力構想からも外れて現役を引退した。
引退後は地元の企業で管理職を勤める傍ら、兵庫県の野球教室のピッチングコーチも務めていた[5]。
2019年、社会人野球のクラブチーム、大阪ホークスドリームの投手コーチに就任[6]。なおプロフィールでは投手兼任コーチと掲載されているが[7]、2022年の役員紹介では投手育成巡回コーチとなっている[8]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 中日 | 50 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 17 | -- | .769 | 365 | 89.0 | 78 | 10 | 26 | 2 | 78 | 0 | 0 | 32 | 30 | 3.03 | 1.17 | |
1992 | 41 | 6 | 1 | 0 | 1 | 6 | 5 | 4 | -- | .545 | 374 | 91.0 | 86 | 10 | 21 | 3 | 58 | 1 | 0 | 48 | 41 | 4.05 | 1.18 | ||
1993 | 22 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 3 | -- | .400 | 130 | 28.1 | 36 | 3 | 12 | 0 | 15 | 1 | 0 | 18 | 15 | 4.76 | 1.69 | ||
1994 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 38 | 8.0 | 8 | 2 | 8 | 2 | 6 | 0 | 0 | 7 | 7 | 7.88 | 2.00 | ||
通算:4年 | 117 | 9 | 1 | 0 | 1 | 18 | 13 | 24 | -- | .581 | 907 | 216.1 | 208 | 25 | 67 | 7 | 157 | 2 | 0 | 105 | 93 | 3.87 | 1.27 |
表彰
- 新人王 (1991年)
記録
- 投手記録
- 初登板・初勝利:1991年4月6日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、7回裏に4番手として救援登板、2回無失点
- 初奪三振:同上、7回裏に原辰徳から
- 初セーブ:1991年4月20日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初先発:1991年10月14日、対横浜大洋ホエールズ27回戦(ナゴヤ球場)、6回1/3を3失点
- 初先発勝利・初完投勝利:1992年7月26日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
- 打撃記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1991年)
背番号
- 45 (1991年 - 1995年)
関連情報
関連書籍
- (松永多佳倫)著『マウンドに散った天才投手』(河出書房新社:2013年1月) (ISBN 978-4-309-27384-6)
応援歌
脚注
- ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART8』(2021年8月刊)76頁
- ^ a b “”. スポニチ. 2008年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月19日閲覧。
- ^ “”. コミュファラジオ. 2016年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月19日閲覧。
- ^ 松永多佳倫 (2020年12月16日). “悲運のプロ野球新人王・森田幸一を襲ったゴシップ騒動。ケガ、そして引退”. 日刊SPA!. 2022年1月19日閲覧。
- ^ “”. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月19日閲覧。
- ^ “株式会社ヒューマンドリーム 大阪ホークスドリーム”. 2022年12月1日閲覧。
- ^ “株式会社ヒューマンドリーム 大阪ホークスドリーム”. 2022年12月1日閲覧。
- ^ “https://twitter.com/hawksdream_bb/status/1482520009868214272”. Twitter. 2022年12月1日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 森田幸一 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)