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AWA世界ヘビー級王座(AWAせかいヘビーきゅうおうざ、AWA World Heavyweight Championship)は、アメリカン・レスリング・アソシエーション(以下「AWA」と略)が認定するプロレスの王座の一つである。かつてはNWA・WWF(現:WWE)とならび「世界三大王座」と言われていたタイトルである。
AWA世界ヘビー級王座 | |||||||||||
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詳細 | |||||||||||
管理団体 | American Wrestling Association | ||||||||||
創立 | 1960年5月18日 | ||||||||||
廃止 | 1991年 | ||||||||||
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なお、俗にAWAと言われた王座はオマハ(世界ヘビー級王座 (オマハ版))、ボストンやオハイオ、シカゴ(AWA世界ヘビー級王座 (ボストン版))などにも存在したが、最終的に消滅または「三大世界王座」といわれたバーン・ガニア(ミネアポリス)版のAWAに吸収された。カール・ゴッチやドン・レオ・ジョナサンの経歴に「AWA世界ヘビー級王者」とあるのはそれらの団体王座の獲得歴である。この項目ではガニア版AWAのタイトルについて述べる。
1996年にAWAスーパースターズ・オブ・レスリングによって同名のタイトルが復活しているが、それについてはWSL世界ヘビー級王座の項参照。
歴史
1960年5月にNWAミネアポリス地区からNWAを脱退してAWA創立。同月にAWAがNWA脱退前後(AWA創立前後)の現NWA世界ヘビー級王者であったパット・オコーナーをNWA脱退後(AWA創立後)もそのまま初代AWA世界ヘビー級王者として継続して認定[注 1](記録上は、オコーナーのNWA王座獲得日である1959年1月9日)、オコーナーをAWA・NWA統一世界王者とする。そして、AWAは王者であるオコーナーにバーン・ガニアとの指名試合を勧告、90日以内にガニアとの試合を行わない場合はAWA王座の剥奪をすると通達。しかし、オコーナー側はガニアとの指名試合を拒否したため、指名試合勧告から90日後にオコーナーのAWA王座は剥奪され、1960年8月に指名挑戦者であったガニアをAWA王者と認定、AWAとNWAの世界王座が切り離され独立をする。
1963年9月には当時AWA世界ヘビー級王者であったバーン・ガニアが、世界ヘビー級(オマハ版)王者であったフリッツ・フォン・エリックを破り王座を統一し、オマハ版世界王座を吸収。このことから、日本では世界ヘビー級王座(オマハ版)をオマハ版AWA世界ヘビー級王座と俗に呼称される場合がある。
AWAが日本と提携交流のあった期間にはたびたび日本でもタイトルマッチが行われていた。1970年代には国際プロレスとAWAが提携し、ガニアが国際プロレスのリングで防衛戦を行った。1970年代中期以降AWAは全日本プロレスとも交流を始め、国際プロレスと並行して交流をし、国際プロレスの崩壊後には全日本プロレスとの交流をさらに深める。そして、1980年代後半のAWA衰退期には新日本プロレスと関係を持つようになった。日本人ではジャンボ鶴田とマサ斎藤が王者になっている。
1991年にAWAは団体の活動を終了し王座は消滅。
歴代王者
レスラー | 戴冠回数 | 戴冠日 | 戴冠場所 | |
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初代 | パット・オコーナー | 1 | 1959年1月9日 | AWA本部から指名 |
パット・オコーナーが指名試合を拒否したため王座剥奪 | ||||
第2代 | バーン・ガニア | 1 | 1960年8月16日 | AWA本部から指名 |
第3代 | ジン・キニスキー | 1 | 1961年7月11日 | ミネアポリス |
第4代 | バーン・ガニア | 2 | 1961年8月8日 | ミネアポリス |
第5代 | ミスターM | 1 | 1962年1月9日 | ミネアポリス |
第6代 | バーン・ガニア | 3 | 1962年8月21日 | ミネアポリス |
第7代 | クラッシャー・リソワスキー | 1 | 1963年7月9日 | ミネアポリス |
第8代 | バーン・ガニア | 4 | 1963年7月20日 | ミネアポリス |
第9代 | フリッツ・フォン・エリック | 1 | 1963年7月27日 | オマハ |
第10代 | バーン・ガニア | 5 | 1963年8月8日 | アマリロ |
第11代 | クラッシャー・リソワスキー | 2 | 1963年11月16日 | セントポール |
第12代 | バーン・ガニア | 6 | 1963年12月14日 | ミネアポリス |
第13代 | マッドドッグ・バション | 1 | 1964年5月2日 | オマハ |
第14代 | バーン・ガニア | 7 | 1964年5月16日 | オマハ |
第15代 | マッドドッグ・バション | 2 | 1964年10月20日 | ミネアポリス |
第16代 | イゴール・ボディック | 1 | 1965年5月15日 | オマハ |
第17代 | マッドドッグ・バション | 3 | 1965年5月22日 | オマハ |
第18代 | クラッシャー・リソワスキー | 3 | 1965年8月21日 | セントポール |
第19代 | マッドドッグ・バション | 4 | 1965年11月12日 | デンバー |
第20代 | ディック・ザ・ブルーザー | 1 | 1966年11月12日 | オマハ |
第21代 | マッドドッグ・バション | 5 | 1966年11月19日 | オマハ |
第22代 | バーン・ガニア | 8 | 1967年2月26日 | セントポール |
第23代 | ドクターX | 1 | 1968年8月17日 | ブルーミントン |
第24代 | バーン・ガニア | 9 | 1968年8月31日 | ミネアポリス |
第25代 | ニック・ボックウィンクル | 1 | 1975年11月8日 | セントポール |
第26代 | バーン・ガニア | 10 | 1980年7月18日 | シカゴ |
バーン・ガニアが引退のため王座返上 | ||||
第27代 | ニック・ボックウィンクル | 2 | 1981年5月19日 | AWA本部から指名 |
第28代 | オットー・ワンツ | 1 | 1982年8月29日 | セントポール |
第29代 | ニック・ボックウィンクル | 3 | 1982年10月9日 | シカゴ |
第30代 | ジャンボ鶴田 | 1 | 1984年2月23日 | 東京(蔵前国技館) |
第31代 | リック・マーテル | 1 | 1984年5月13日 | セントポール |
第32代 | スタン・ハンセン | 1 | 1985年12月29日 | イーストラザフォード |
スタン・ハンセンが試合を放棄したため王座剥奪。しかしハンセンは剥奪が告げられた後もベルトを保持し続け、1986年7月に天龍源一郎と鶴田を相手に「防衛戦」を行っている[注 2][1][注 3]。 | ||||
第33代 | ニック・ボックウィンクル | 4 | 1986年6月28日 | AWA本部から指名 |
第34代 | カート・ヘニング | 1 | 1987年5月2日 | サンフランシスコ |
第35代 | ジェリー・ローラー | 1 | 1988年5月8日 | メンフィス |
AWAとジェリー・ローラーの契約が打ち切られたため王座剥奪 | ||||
第36代 | ラリー・ズビスコ | 1 | 1989年2月7日 | セントポール[注 4] |
第37代 | マサ斎藤 | 1 | 1990年2月10日 | 東京(東京ドーム) |
第38代 | ラリー・ズビスコ | 2 | 1990年4月8日 | セントポール |
関連項目
脚注
注釈
- ^ AWA世界タッグチーム王座も同様の措置が取られた。
- ^ 鶴田戦は鶴田が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座とのダブル選手権
- ^ 当時AWAと提携を行っていた全日本プロレスの会長のジャイアント馬場も「ニックとの王座統一戦が行われるべき」との見解を示し、ハンセンの王座保持を支持した。
- ^ バトルロイヤルにより王者を決定。バトルロイヤルにはサージェント・スローター、ワフー・マクダニエル、ケン・パテラ、グレッグ・ガニア、マイク・ジョージ、佐藤昭雄、パット・タナカ、ポール・ダイヤモンド、マニー・フェルナンデス、カーネル・デビアーズらが参加しており、決勝はラリー・ズビスコとトム・ジンクとの間で争われた。
出典
- ^ “ハンセン&ハンソン貴重な遭遇”. 東スポWeb (2013年11月4日). 2017年2月12日閲覧。
外部リンク
- プロレス王座変遷史 : AWA
- AWA世界ヘビー級選手権変遷史
- AWA世界ヘビー級選手権防衛戦記録(英語)
- AWAstars.com - スーパースター・オブ・レスリング公式サイト(英語)