1991年の日本ハムファイターズ(1991ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1991年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
1991年の日本ハムファイターズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ4位 | |
53勝72敗5分 勝率.424[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 東京ドーム |
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球団組織 | |
オーナー | 大社義規 |
経営母体 | 日本ハム |
監督 | 近藤貞雄 |
« 1990 1992 » |
このシーズンの日本ハムファイターズは、近藤貞雄監督の3年目のシーズンである。
概要
前年と違って新戦力の投入もほとんどなく、開幕前の下馬評では「Aクラスは無理」という声がささやかれた。その予想通り、チームは5月まで3位と健闘するが6月に大きく勝ち越したダイエーに抜かれて4位に転落する。その後は開幕から低迷したオリックスが夏場から復調したこともあり、9月以降は完全にBクラスに定着。この年ロッテが最下位に沈んだこともあり終盤はダイエーとの4位争いとなったが、これに勝って5位転落は免れた。投手陣は大黒柱のエース西崎幸広が内転筋の怪我に苦しみながらもなんとか10勝を挙げ、柴田保光、2年目の酒井光次郎もローテーションを守り、前年から守護神の武田一浩も安定した成績を収めるなど健闘して防御率は3.72とリーグ3位。打撃陣では切り込み隊長の白井一幸が打率3割をマークしたほか、前年から4番のマット・ウインタース、前年2000本安打を達成した大島康徳、主砲の田中幸雄などが活躍したが本塁打は112本でリーグ5位に終わり、打率も.251の最下位と低迷した。投手陣の好投に打線が応えられず、貧打や接戦で負ける試合も多くシーズン負け越しの原因となった。結局3年間でAクラス入りすることなく、近藤監督は66歳の高齢もあって勇退した。後任には、OBで1973年の後期に監督を務めた土橋正幸が再び就任した。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 近鉄 | -- | 近鉄 | -- | 西武 | -- |
2位 | 近鉄 | 3.0 | 近鉄 | 7.0 | 近鉄 | 4.0 | 西武 | 1.5 | 西武 | 1.5 | 近鉄 | 4.5 |
3位 | 日本ハム | 3.5 | 日本ハム | ダイエー | 7.5 | 日本ハム | 10.5 | オリックス | 15.5 | オリックス | 18.5 | |
4位 | ロッテ | 4.0 | ダイエー | 10.5 | 日本ハム | 10.0 | ダイエー | 12.5 | ダイエー | 19.0 | 日本ハム | 28.5 |
5位 | ダイエー | 5.0 | ロッテ | 11.5 | オリックス | 12.0 | オリックス | 14.0 | 日本ハム | 19.5 | ダイエー | 29.0 |
6位 | オリックス | 8.5 | オリックス | 15.0 | ロッテ | 20.0 | ロッテ | 23.5 | ロッテ | 30.0 | ロッテ | 33.5 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
優勝 | 西武ライオンズ | 81 | 43 | 6 | .653 | --- |
2位 | 近鉄バファローズ | 77 | 48 | 5 | .616 | 4.5 |
3位 | オリックス・ブルーウェーブ | 64 | 63 | 3 | .504 | 18.5 |
4位 | 日本ハムファイターズ | 53 | 72 | 5 | .424 | 28.5 |
5位 | 福岡ダイエーホークス | 53 | 73 | 4 | .421 | 29.0 |
6位 | ロッテオリオンズ | 48 | 77 | 5 | .384 | 33.5 |
オールスターゲーム1991
詳細は「1991年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
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選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照