1987年の広島東洋カープ(1987ねんのひろしまとうようカープ)では、1987年の広島東洋カープの動向をまとめる。
1987年の広島東洋カープ | |
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成績 | |
セントラルリーグ3位 | |
65勝55敗10分 勝率.542[1] | |
本拠地 | |
都市 | 広島県広島市 |
球場 | 広島市民球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松田耕平 |
経営母体 | 松田家(マツダ創業者一族) |
監督 | 阿南準郎 |
(選手会長) | 北別府学 |
キャッチフレーズ | |
3C - Communication Combination Concentration | |
« 1986 1988 » |
この年の広島東洋カープは、阿南準郎監督の2年目のシーズンである。
概要
前年で引退した山本浩二の不在の影響が懸念された上に、開幕前に高橋慶彦が球団の激励会への出席を拒否し2週間の出場停止を課されるなど、不穏な状況の中、前監督の古葉竹識率いる大洋との開幕戦でエース北別府学が打たれ敗れる最悪のスタート。それでも投手陣では北別府を始め大野豊、川口和久が先発ローテを守り、さらに先発4・5番手には金石昭人・長冨浩志、抑えには津田恒実が控えるなど豊富で、チームは因縁の大洋に11連勝するなど首位争いに加わり、7月まで首位の巨人に3.5ゲーム差につけていた。しかし後半戦に入ると逆に大洋に9連敗を喫したのが響き巨人に引き離され、最後は中日に抜かれ3位で終了。打撃陣では引退した山本に代わる4番候補として入団したリチャード・ランスが低打率ながらも本塁打を量産し、ランディ・バースから本塁打王の座を奪取。3年目の正田耕三は巨人の篠塚利夫と首位打者を分け合い、このほかにも主砲の小早川毅彦、高橋と山崎隆造の1・2番コンビなども例年通りの成績を収めた。ベテラン衣笠祥雄は打率が伸び悩んだが、1970年10月19日の巨人戦から続いてきた連続試合出場を2131試合に伸ばして世界記録を更新し(最終的に2215試合)、大洋の古葉監督や阿南監督から花束が贈呈された。さらに中曽根康弘首相から国民栄誉賞を授与されるなど、有終の美を飾ってシーズン終了後に引退した。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 巨人 | -- | 中日 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 広島 | 1.5 | 巨人 | 0.0 | 広島 | 2.0 | 広島 | 3.5 | 中日 | 4.0 | 広島 | 7.5 | 中日 | 8.0 |
3位 | 中日 | 3.0 | 広島 | 3.5 | 中日 | 4.0 | 中日 | 6.0 | 広島 | 5.5 | 中日 | 8.5 | 広島 | 11.5 |
4位 | 大洋 | 5.0 | ヤクルト | 10.5 | ヤクルト | 11.5 | ヤクルト | 16.0 | ヤクルト | 16.0 | ヤクルト | 17.0 | ヤクルト | 19.5 |
5位 | ヤクルト | 5.0 | 大洋 | 10.5 | 大洋 | 12.5 | 大洋 | 20.0 | 大洋 | 18.0 | 大洋 | 20.0 | 大洋 | 22.5 |
6位 | 阪神 | 6.5 | 阪神 | 13.5 | 阪神 | 17.0 | 阪神 | 29.5 | 阪神 | 31.5 | 阪神 | 34.0 | 阪神 | 37.5 |
オールスターゲーム1987
詳細は「1987年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1987年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照