1984年の西武ライオンズでは、1984年の西武ライオンズの動向をまとめる。
1984年の西武ライオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ3位 | |
62勝61敗7分 勝率.504[1] | |
本拠地 | |
都市 | 埼玉県所沢市 |
球場 | 西武ライオンズ球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 堤義明 |
経営母体 | 国土計画(コクド) |
監督 | 広岡達朗 |
スローガン | |
鋭球 | |
« 1983 1985 » |
この年の西武ライオンズは、広岡達朗監督の3年目のシーズンである。
概要
西鉄時代の1958年以来26年ぶり、そして西武になって初の3連覇がかかったシーズンだが開幕前から4番の田淵幸一が花粉症に悩まされ、柴田保光との交換で日本ハムから移籍した江夏豊は森繁和とともにダブルストッパーとして期待されたが両者ともに投げるたびに打たれ、米国の野球留学から復帰した秋山幸二も結果が出ず成績も伸び悩むなど誤算が続出。チームは7月まで5位に沈み阪急やロッテの後塵を拝する苦しい戦いだったが、広岡監督は後半戦からは秋山とこの年入団の辻発彦、伊東勤、金森栄治といった若手中心のスタメンを組み、田淵や山崎裕之などが控えに回った。8月以降ベテランの多い近鉄を抜いてようやく3位に入るが、一進一退の試合が続き最終的に62勝61敗7分と不本意な成績に終わった。小林誠二や柴田の移籍した投手陣は東尾修・高橋直樹などのベテランが結果を出し、ルーキー渡辺久信が後半戦からローテに入るなど明るい話題もあったが前述の江夏・森のダブルストッパーが誤算だった。この年を最後に田淵、山崎、江夏が引退。大リーグ復帰のテリー・ウィットフィールドに代わってこの年入団のジェリー・ホワイト(ジェリー)がそこそこの成績を残すも、1年で退団し大洋に移籍した。この年のドラフトは大久保博元・田辺徳雄・高山郁夫の3人しか指名しなかった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 近鉄 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- |
2位 | 阪急 | 0.5 | 近鉄 | 4.0 | 近鉄 | 7.0 | 近鉄 | 6.5 | ロッテ | 6.5 | ロッテ | 8.5 |
3位 | 南海 | 1.0 | 南海 | 6.5 | ロッテ | 7.5 | ロッテ | 7.0 | 近鉄 | 12.5 | 西武 | 14.5 |
4位 | 西武 | 2.0 | ロッテ | 8.5 | 南海 | 9.5 | 南海 | 11.5 | 西武 | 14.0 | 近鉄 | 16.5 |
5位 | ロッテ | 2.5 | 西武 | 9.0 | 西武 | 12.0 | 西武 | 13.0 | 南海 | 20.0 | 南海 | 21.0 |
6位 | 日本ハム | 3.0 | 日本ハム | 14.0 | 日本ハム | 15.0 | 日本ハム | 19.0 | 日本ハム | 25.0 | 日本ハム | 29.5 |
できごと
選手・スタッフ
オールスターゲーム1984
詳細は「1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
表彰選手
ベストナイン | ||
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選出なし | ||
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
東尾修 | 投手 | 2年連続2度目 |
ドラフト
詳細は「1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照