1983年の南海ホークス(1983ねんのなんかいホークス)では、1983年の南海ホークスにおける動向をまとめる。
1983年の南海ホークス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ5位 | |
52勝69敗9分 勝率.430[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市浪速区 |
球場 | 大阪球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 川勝傳 |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 穴吹義雄 |
« 1982 1984 » |
この年の南海ホークスは、穴吹義雄監督の1年目のシーズンである。
概要
1977年オフに野村克也元監督の解任を受けて2試合だけ代理監督で指揮を執ったこともある穴吹義雄がこの年から就任。穴吹新監督は低迷が続くチームの現状を憂い「(2代前の広瀬叔功元監督が標榜した)泥まみれ野球も(野村およびドン・ブレイザー前監督が標榜した)考える野球も失敗した以上、勝っても負けてもいいから明るく野球をやろう」と宣言。穴吹監督はチーム低迷を打破すべく、ユニフォーム変更を川勝オーナーに提案するが「資金がない」を理由に反対され、ベルト式にするという小手先の変更となった(1983年の南海ホークスのユニフォームを参照)。この年ロッテが5月以降最下位に定着したこともあり、7月までは首位の西武と16ゲーム差ながらも4位に入り、Aクラス入りに望みを託した。しかし、8月に4勝16敗3分と大きく負け越して近鉄に抜かれて5位に転落。9月以降持ち直すものの、優勝の西武に31ゲーム、3位の日本ハムと11ゲーム差の5位で全日程を終えた。投手陣は「山内トリオ」のうち、山内和宏・山内孝徳が18勝(最多勝利)、10勝でそれぞれ2ケタ勝利を挙げるものの、ベテラン山内新一が防御率8点台の上わずか2勝に終わる誤算でチーム防御率は4.75の5位。打撃陣は4番の門田博光が40本で本塁打王となり、正捕手の香川伸行(ベストナイン)をはじめ5人が2桁本塁打を記録したがチーム本塁打は128本のリーグ5位で、得点も548点のリーグ5位に終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- |
2位 | ロッテ | 0.5 | 阪急 | 8.0 | 日本ハム | 12.0 | 日本ハム | 14.0 | 日本ハム | 11.5 | 阪急 | 16.0 | 阪急 | 17.0 |
3位 | 阪急 | 2.5 | 日本ハム | 8.5 | 阪急 | 12.0 | 阪急 | 14.5 | 阪急 | 15.0 | 日本ハム | 18.0 | 日本ハム | 20.5 |
4位 | 日本ハム | 3.5 | 南海 | 9.0 | 南海 | 15.0 | 南海 | 16.0 | 近鉄 | 21.0 | 近鉄 | 26.0 | 近鉄 | 29.5 |
5位 | 南海 | 4.0 | 近鉄 | 11.0 | 近鉄 | 15.0 | 近鉄 | 16.5 | 南海 | 25.0 | 南海 | 28.5 | 南海 | 31.5 |
6位 | 近鉄 | 4.5 | ロッテ | 11.5 | ロッテ | 21.0 | ロッテ | 26.0 | ロッテ | 32.5 | ロッテ | 37.5 | ロッテ | 39.5 |
オールスターゲーム1983
詳細は「1983年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 選出選手及びスタッフ
できごと
この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
香川伸行 | 捕手 | 初受賞 |
門田博光 | 指名打者 | 2年ぶり2度目[注 1] |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選出なし |
ドラフト
詳細は「1983年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
注釈
- ^ 外野手部門で3度受賞しており、通算5度目。