1972年の広島東洋カープでは、1972年の広島東洋カープの動向についてまとめる。
1972年の広島東洋カープ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ6位 | |
49勝75敗6分 勝率.395[1] | |
本拠地 | |
都市 | 広島県広島市 |
球場 | 広島市民球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松田耕平 |
経営母体 | 松田家(東洋工業創業者一族) |
監督 | 根本陸夫(6月17日まで) 森永勝也(6月18日から) |
« 1971 1973 » |
この年の広島東洋カープは、根本陸夫監督の5年目のシーズンである。
概要
チームはこの年、根本監督の発案で球団初の米国キャンプを敢行。しかし、この米国キャンプの調整に失敗したことなどからチームは開幕から低迷し6月以降は最下位に定着すると、その後も低迷から抜け出せず根本監督が成績不振の責任をとる形で休養に追い込まれ、森永勝也打撃コーチが代理監督としてチームの指揮をとる。7月に入り、初の外国人選手としてソイロ・ベルサイエスを入団させたが、背中の怪我などを抱えていたベルサイエスにかつてのア・リーグMVPの輝きはなく、続いて入団したトニー・ゴンザレスも年齢による衰えが目立ち2人共成績は低迷、外木場義郎や安仁屋宗八など投手陣の好投を打線が見殺しにする試合も多く見られた。結局チームは8連覇の巨人に24ゲームも離され、1969年以来3年ぶりの最下位で終了。シーズン終了後、この年まで大洋の監督だった別当薫を新監督に招聘した。1番打者の井上弘昭は根本監督辞任とともに中日へトレードされ、水谷実雄は同じ外野手のゴンザレスの加入で出場機会が減った。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 中日 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 大洋 | 1.0 | 阪神 | 大洋 | 2.5 | 阪神 | 阪神 | 4.0 | 阪神 | 3.5 | ||
3位 | 巨人 | 2.0 | 大洋 | 1.5 | 阪神 | 3.0 | 大洋 | 4.0 | 大洋 | 8.5 | 中日 | 7.0 |
4位 | 広島 | 3.0 | 中日 | 5.0 | 中日 | 4.0 | 中日 | 5.0 | 中日 | 9.0 | ヤクルト | 14.5 |
5位 | 阪神 | 4.0 | 広島 | 7.5 | ヤクルト | 13.0 | ヤクルト | 8.5 | ヤクルト | 12.0 | 大洋 | 17.0 |
6位 | ヤクルト | 5.0 | ヤクルト | 10.0 | 広島 | 13.5 | 広島 | 12.5 | 広島 | 20.5 | 広島 | 24.0 |
できごと
選手・スタッフ
オールスターゲーム1972
詳細は「1972年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 取り消し線は出場辞退
表彰選手
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
三村敏之 | 遊撃手 | 初受賞 |
ダイヤモンドグラブ賞(新設) | ||
選手名 | ポジション | |
山本浩司 | 外野手 |
ドラフト
詳細は「1972年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照