1970年の広島東洋カープでは、1970年の広島東洋カープの動向についてまとめる。
1970年の広島東洋カープ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ4位 | |
62勝60敗8分 勝率.508[1] | |
本拠地 | |
都市 | 広島県広島市 |
球場 | 広島市民球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松田恒次→松田耕平 |
経営母体 | 松田家(東洋工業創業者一族) |
監督 | 根本陸夫 |
« 1969 1971 » |
この年の広島東洋カープは、根本陸夫監督の3年目のシーズンである。
概要
1968年に球団初のAクラスになりながらもわずか1年で最下位に転落したチームの体質改善を図るべく根本監督は前年オフから積極的に戦力補強を行い、コーチ陣も大幅に一新。根本監督の高校時代の盟友である関根潤三をヘッドコーチに、巨人の名遊撃手で関根ヘッドコーチのチームメートだった広岡達朗を守備走塁コーチとして招聘。コーチ陣一新の成果が期待されたが、この年は前年まで5連覇の巨人と2位の阪神が開幕からマッチレースを続け、チームはそれに割って入れず5月18日の巨人戦では渡辺秀武にノーヒットノーランを喫し、7月以降はBクラスに定着。投手陣は4本柱の安仁屋宗八・外木場義郎・白石静生・大石弥太郎がBクラスのチームで勝ち星を重ね、打撃陣でも古葉竹識の南海移籍で三村敏之や井上弘昭などの若手が出場機会を増やし、2年目の水沼四郎も田中尊や久保祥次の陰に隠れながらも出場機会を増やした。しかし、若手の積極起用や新戦力の投入もチームのカンフル剤にはならず、4位に終わり巨人の6連覇を許した。シーズン終了後、衣笠祥雄や水谷実雄などに影響を与えたベテランの山内一弘が引退し、背番号8は翌年から山本浩二が継ぐことになった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 広島 | 0.5 | 阪神 | 0.5 | 広島 | 5.5 | 大洋 | 5.5 | 阪神 | 3.5 | 阪神 | 3.0 | 阪神 | 2.0 |
3位 | 阪神 | 2.0 | 広島 | 2.0 | 大洋 | 6.0 | 阪神 | 6.0 | 大洋 | 6.0 | 大洋 | 4.5 | 大洋 | 10.0 |
4位 | ヤクルト | 3.0 | 大洋 | 5.5 | 阪神 | 7.0 | 広島 | 8.0 | 広島 | 10.0 | 広島 | 10.5 | 広島 | 15.0 |
5位 | 中日 | 3.0 | 中日 | 6.5 | 中日 | 11.5 | 中日 | 16.5 | 中日 | 14.5 | 中日 | 19.0 | 中日 | 23.5 |
6位 | 大洋 | 3.5 | ヤクルト | 9.5 | ヤクルト | 15.0 | ヤクルト | 21.0 | ヤクルト | 29.0 | ヤクルト | 35.0 | ヤクルト | 45.5 |
選手・スタッフ
オールスターゲーム1970
詳細は「1970年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン |
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選出なし |
ドラフト
詳細は「1970年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照