1967年の東映フライヤーズ(1967ねんのとうえいフライヤーズ)では、1967年の東映フライヤーズの動向をまとめる。
1967年の東映フライヤーズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ3位 | |
65勝65敗4分 勝率.500[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 後楽園球場 |
球団組織 | |
オーナー | 大川博 |
経営母体 | 東映 |
監督 | 水原茂 |
« 1966 1968 » |
この年の東映フライヤーズは、水原茂監督の7年目のシーズンである。
概要
水原監督7年目の1967年は序盤から勝率5割前後を維持し、前年3連覇の南海が開幕ダッシュに失敗したことから、首位の阪急・西鉄に次ぐ3位でスタート。5月以降はルーキー大下剛史やこの年レギュラー定着の白仁天、若手投手陣二枚看板の森安敏明や田中調に加え、救援投手の宮崎昭二らの活躍もあり、一時は2位に浮上した。しかし、6月に入ると首位独走の阪急とはゲーム差が広がり、終盤まで西鉄や南海とのAクラス争いが続いた。
打線は張本勲が1961年以来の首位打者を取り、レギュラーに定着した大杉勝男、大下、白の好調はあったが、毒島章一らベテラン野手が軒並み不調で、全体としては平凡な成績に終わった。投手陣では1962年優勝の立役者だった土橋正幸、尾崎行雄、嵯峨健四郎などが不調に陥ったが、森安や田中らがカバーする形になった。
最後は貯金もなくなり、優勝の阪急に10ゲームつけられてシーズンを終えた。シーズン終了後、1965年に入団し、代打でも活躍した坂崎一彦や初優勝時のエース・土橋正幸が引退。坂崎は実業家に転身し、土橋は翌年から二軍投手コーチに就任した(土橋がつけていた背番号21はこの年のドラフト3位で指名され、1968年オフに入団した高橋直樹へ受け継がれた)。加えて、後に西鉄で黒い霧事件の主役となる永易将之が自由契約となり、嵯峨も巨人にトレードされた。また、オフには水原監督が勇退し、チーム生え抜きの大下弘が新監督に就任した。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- |
2位 | 西鉄 | 西鉄 | 1.5 | 東映 | 5.5 | 東映 | 6.5 | 東映 | 11.0 | 東映 | 9.5 | 西鉄 | 9.0 | |
3位 | 東映 | 3.0 | 東映 | 3.0 | 西鉄 | 8.0 | 南海 | 9.0 | 南海 | 西鉄 | 11.0 | 東映 | 10.0 | |
4位 | 南海 | 3.5 | 近鉄 | 5.0 | 南海 | 9.0 | 西鉄 | 9.0 | 東京 | 12.0 | 南海 | 12.0 | 南海 | 11.0 |
5位 | 近鉄 | 3.5 | 東京 | 5.5 | 東京 | 10.5 | 東京 | 9.5 | 西鉄 | 12.5 | 東京 | 15.0 | 東京 | 14,0 |
6位 | 東京 | 5.0 | 南海 | 6.0 | 近鉄 | 12.0 | 近鉄 | 14.0 | 近鉄 | 19.5 | 近鉄 | 18.5 | 近鉄 | 16.0 |
オールスターゲーム1967
詳細は「1967年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1967年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照