1966年の西鉄ライオンズでは、1966年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。
1966年の西鉄ライオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ2位 | |
75勝55敗8分 勝率.577[1] | |
本拠地 | |
都市 | 福岡県福岡市 |
球場 | 平和台野球場 |
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球団組織 | |
経営母体 | 西日本鉄道 |
監督 | 中西太(選手兼任) |
« 1965 1967 » |
この年の西鉄ライオンズは、中西太選手兼任監督の5年目のシーズンである。
概要
開幕6連勝と好スタートを切ったチームは5月はやや勢いが落ちたが、6月に入ると上旬から中旬にかけて11勝3敗のハイペースで首位の南海に肉薄した。その後、8月にまた失速し一時は東映に抜かれ3位に転落するが、9月になると再びペースを上げ、南海に2ゲーム差まで迫った。全体的に投高打低だったこの年において、3割打者なしだった打撃陣に対し、投手陣は6年目の田中勉が5月12日の対南海戦で完全試合を達成するなど23勝を挙げ最多奪三振のタイトルを獲得、リリーフに転向した稲尾和久も11勝止まりながら5年ぶりに最優秀防御率のタイトルに輝き、2年目の池永正明も15勝を挙げ、投手陣はリーグ1位のチーム防御率を記録した。9月30日から10月6日にかけて7連勝を記録したチームはこの日最終戦だった南海が敗れたため、残り4試合を全勝すれば南海に並ぶところだったが、10月9日の対東映戦でリリーフの稲尾が毒島章一に痛恨の本塁打を打たれて敗れ、結局残り4試合を全勝どころか全敗し、4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。シーズン終了後、長年主力打者として活躍した高倉照幸がトレードで巨人に移籍し、また船田和英の移籍で出場機会が減った城戸則文がサンケイに移籍するなど、打線はさらに弱体化することになる。ユニフォームにはこの年からオレンジのラインが入るようになった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 西鉄 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- |
2位 | 東映 | 1.0 | 東映 | 4.5 | 西鉄 | 1.0 | 西鉄 | 1.5 | 西鉄 | 3.5 | 西鉄 | 4.0 |
3位 | 南海 | 1.0 | 西鉄 | 5.0 | 東映 | 2.0 | 東映 | 3.5 | 東映 | 5.5 | 東映 | 9.0 |
4位 | 阪急 | 3.5 | 東京 | 8.0 | 東京 | 8.5 | 東京 | 10.5 | 東京 | 12.0 | 東京 | 18.0 |
5位 | 東京 | 4.5 | 近鉄 | 10.5 | 阪急 | 10.5 | 阪急 | 13.0 | 阪急 | 14.5 | 阪急 | 22.0 |
6位 | 近鉄 | 5.0 | 阪急 | 11.0 | 近鉄 | 11.0 | 近鉄 | 13.5 | 近鉄 | 21.5 | 近鉄 | 31.0 |
オールスターゲーム1966
詳細は「1966年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 取り消し線は出場辞退の選手
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1966年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | 守備 | 所属 | 結果 |
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第1次ドラフト | ||||
1位 | 岡村佳典 | 投手 | 浜田高 | 入団 |
2位 | 柳田俊郎 | 外野手 | 九州学院高 | 入団 |
3位 | 甲斐和雄 | 内野手 | 日南高 | 入団 |
4位 | 村上公康 | 捕手 | 日本楽器 | 入団 |
5位 | 田中武 | 捕手 | 住友金属 | 拒否 |
6位 | 小野泰敏 | 捕手 | 中津工業高 | 入団 |
7位 | 大津秀美 | 捕手 | 福岡大学附属大濠高 | 入団 |
8位 | 村上利春 | 内野手 | 早鞆高 | 拒否・東芝入社 |
9位 | 玉国光男 | 内野手 | 宇部商業高 | 拒否・鐘淵化学入社 |
10位 | 内藤久 | 外野手 | 日川高 | 入団 |
第2次ドラフト | ||||
1位 | 荒武康博 | 捕手 | 報徳学園高 | 入団 |
2位 | 塩沢誠 | 内野手 | 専修大学 | 拒否・日本楽器入社 |
3位 | 清水正輝 | 投手 | 関西学院大学 | 拒否・京都大丸入社 |
4位 | 斎藤正人 | 捕手 | 秋田高 | 拒否・秋田相互銀行入行 |